138食目 ネイビーの万年筆
昼過ぎの空は、冬らしく高く澄んでいた。
玄関の扉を開けた瞬間、冷たい空気が頬を撫でる。
「……思ったより寒いわね」
コートの襟元を押さえながら椿が小さく肩をすくめると、隣で靴を履き終えた蓮が外を見た。
「夜はもっと冷えるだろうな」
「そうね。帰りはイルミネーションも見るだろうし、長く外にいるかもしれないわ」
そこまで言って、椿は少しだけ言葉を止めた。
“イルミネーションも見る”。
あまりにも自然に口にしたが、クリスマスらしい予定を自分から織り込んでいることに、少しだけ頬が熱くなる。
蓮は特に気にした様子もなく、短く頷いた。
「じゃあ、行くか」
「ええ」
二人並んで家を出る。
駅へ向かう道は、普段より人通りが多かった。
家族連れ、友人同士、恋人たち。
街全体が少しだけ浮き立っている。
「……みんな楽しそうね」
「クリスマスだからな」
「蓮くんは、こういうの意識するの?」
「まぁ、多少は?
向こうでもマーケットが盛り上がってたからな」
椿が思わず目を丸くする。
「意外だったわ。興味ないと思ってた」
「……俺だって高校生だぞ?
そういう椿はどうなんだ」
「……多少は」
「パクリか」
「違うわよ」
そのやり取りだけで、自然と口元が緩む。
こうして並んで歩いていること自体が、もう十分特別なのに。
プラネタリウムの館内は静かだった。
席へ座ると、照明がゆっくり落ちていく。
「こういう場所、初めて?」
椿が小声で聞くと、蓮は頭上を見上げたまま答える。
「小さい頃に一回くらいはあるかもしれないが、覚えてないな」
「じゃあ、ほぼ初めてね」
「そうなるな」
次の瞬間、天井いっぱいに星空が広がった。
「……すごい」
思わず漏れた椿の声に、蓮もわずかに目を細める。
「思ってたより綺麗だな」
「思ってたよりって失礼よ」
「いや、想像以上だったって意味だ」
珍しく素直な感想に、椿は少しだけ嬉しくなる。
解説のアナウンスが静かに流れる。
『それでは次に、視線を東の空へ向けてみましょう』
その声に合わせて、星空の焦点がゆっくり移る。
椿はふっと小さく笑った。
「……蓮くんみたいね」
「俺?」
「ええ」
暗闇の中、椿は星を見上げたまま続ける。
「試合の時、次にどこを見るか、どこに出すか、自然にみんなの視線を動かしてるでしょう」
蓮が少しだけ沈黙する。
「……そうかもな」
「今のアナウンスにすごく似てるわね」
「そんなふうに見えてるのか」
「ええ。すごく自然に、次の景色を見せてくれる感じが」
蓮はそれ以上言葉を返さなかった。
ただ、少しだけ口元が緩んだのが暗闇の中でも分かった。
しばらく二人で星空を見上げる。
言葉は少ないのに、不思議と沈黙が心地よかった。
館内を出ると、外はすっかり日が落ちていた。
「もう夜ね」
「結構長くいたな」
駅前広場へ出た瞬間、椿が思わず足を止める。
「……綺麗」
イルミネーションが街路樹を埋め尽くしていた。
白と青の光が通りを染め、中央のツリーがひときわ強く輝いている。
「やっぱり人、多いわね」
「クリスマスだからな」
人混みの流れに、自然と肩が近づく。
椿の腕が蓮の腕に触れた。
一瞬だけ視線が合うと、そのまま椿はそっと腕を組んだ。
蓮も何も言わず、歩幅を合わせる。
「……何も言わないの」
「嫌じゃないからな」
その返しに、椿の胸が少しだけ跳ねた。
その短さが蓮らしくて、椿には嬉しかった。
「……そういうところ、ずるいわ」
「何がだ」
「そうやって平然としてるところ」
言葉と裏腹に、掴む手に力が入る。
「こうして歩くの、初めてね」
「そうだな」
「なんだか、普通の恋人みたい」
「普通じゃないのか?」
「……かなり特殊なんじゃない?私たち」
「そうか?」
「そうよ」
思わず笑い合う。
冬の空気は冷たいのに、腕を通して伝わる体温だけが温かかった。
「今日は、楽しかったわ」
「そうか」
「そうか、じゃないわよ」
そう苦笑を浮かべながら、椿が小さな紙袋を差し出す。
「はい、クリスマスプレゼント」
蓮が目を瞬かせる。
「……俺に?」
「ええ。他に誰がいるのよ」
蓮が袋を開け、中を取り出す。
「手袋か」
「最近、練習の時に手が冷えてるでしょう」
「気づいてたのか」
「当たり前でしょう」
少しだけ呆れたように返す。
「指先の感覚って、あなたにとってかなり重要だもの」
蓮は手袋を見つめ、それから静かに頷いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
蓮も、コートのポケットへ手を入れる。
「俺からも」
「え?」
差し出された小箱を受け取る。
開けた瞬間、椿の呼吸が止まった。
「……万年筆」
「ああ」
落ち着いたネイビーの軸。
シンプルで、でも上質な一本。
「最近、ずっと進路の資料見てただろ」
椿の視線が上がる。
「書くことも増えると思ったから」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
悩んでいることも、資料を広げていることも、未来を考えていることも。
彼は、見てくれていた。
「……ありがとう」
椿は箱を胸元で抱える。
「すごく嬉しい」
「ならよかった」
イルミネーションの光が万年筆の金具に反射して、小さく光る。
「大事に使うわ」
「そうしてくれ」
少しだけ沈黙が流れる。
けれど、今度はその静けさも温かい。
「……寒くなってきたわね」
「もう少し歩いて帰るか」
「ええ」
二人は再び立ち上がる。
冬の光の中、並んで歩き出す。
選手権を前にした束の間の休息。
けれど、この夜の温度は、きっとこの先も残り続ける。
冬は、まだ始まったばかりだった。
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