139食目 静かな朝
冬の朝は、空気そのものが張り詰めていた。
まだ昼前にもならない淡い陽射しが、リビングの床に細く落ちている。
普段の休日なら少しだけ緩やかな時間が流れるはずなのに、今日ばかりは空気の温度が違った。
全国高校サッカー選手権、本戦初日。
負ければ終わる冬が、いよいよ始まる。
玄関で靴を履きながら、蓮はふと右手へ視線を落とした。
黒を基調にした競技用の手袋。
薄手で、指先の感覚を邪魔しない。
それでいて冬の朝の冷気はしっかりと遮る。
指を軽く曲げる。
掌を開き、また握る。
「……悪くないな」
小さく漏らした声に、背後からすぐ反応が返ってきた。
「“悪くない”じゃなくて、ちゃんと良いって言いなさいよ」
振り返ると、椿がマフラーを両手に持って立っていた。
少しだけ呆れたような顔。
けれど、その視線の奥には今日という日への緊張が確かに滲んでいる。
「ちょっと、じっとしてて」
「ん?」
問い返す間もなく、椿が一歩近づく。
ふわりと首元へ柔らかな感触が落ちた。
マフラーが丁寧に巻かれていく。
椿の指先が首元を整えるたびに、わずかに触れる体温が意識に残る。
「今日、かなり冷え込むらしいから」
結び目を整えながら、椿が静かに言った。
「風邪なんて引かれたら困るもの」
「……そうなのか」
「今日は本戦初日なんだから、万全で行ってもらわないと」
いつものように栄養管理の延長線にある言葉。
でも、その声の奥にある想いは、巻かれたマフラーから感じ取れる。
「ありがとう」
珍しく素直に返した言葉に、椿が一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「ええ。じゃあ、行きましょう」
「待て。椿のマフラーは?」
「あるわよ?こっち」
椿はカバンのそばに畳んでいたマフラーを広げる。
そのマフラーを、そっと蓮が取った。
「お返しだ」
「……ありがと」
されるがまま、椿はマフラーを巻かれていく。
「こうして……最後むずいな……
よし、できた」
「できた、じゃないわよ。
ぐちゃぐちゃじゃない」
「わ、悪い。巻き直すか?」
「いいわよ、これで。
もう時間もないし」
椿はそう言うが、マフラーに隠された口角は少し上がっていた。
「ほら、今度こそ行きましょ?」
「ああ」
二人並んで家を出る。
外へ出た瞬間、冷たい空気が頬を打った。
吐いた息が白く広がる。
雲ひとつない空は高く澄み切っていた。
通学路を並んで歩く。
いつもの道。
いつもの距離感。
手は繋がない。
昨日のイルミネーションの夜なら自然に組んでいた腕も、今日はない。
椿はそのことを微塵も意識に出さない。
今の蓮の意識がどこに向いているのか、誰より理解しているから。
蓮の視線はすでにピッチの上にあった。
立ち上がりの入り方。
桐生への供給ライン。
若葉の使い方。
相手の守備ブロック。
思考はもう試合に入っている。
だから椿はただ歩幅だけを合わせていた。
「……選手権自体は、初めてよね」
小さく問う。
「ああ」
短い返事。
「去年は立てなかった。今年こそ、国立に立てる」
「そう」
二人の間にはそれ以上の会話は生まれなかった。
コツコツと道路に鳴る音だけが、二人の間に落ちている。
やがて学校につくと、校門前にすでに貸切バスが停まっていた。
常盤台のロゴが入った大型バスの前には、同じロゴのジャージを纏った集団が立っている。
「おはようございます」
監督は小さく頷くと、全体を見渡していった。
「よし。全員揃ったな。行くぞ」
その一言に、選手たちが静かに乗り込んでいく。
二人もその流れに加わった。
出発後の車内は、驚くほど静かだった。
普段の遠征なら、若葉の明るい声が最初に響く。
桐生が笑い、それに周囲が乗る。
だが今日は違う。
三年生にとって最後の全国。
その重みが、車内全体に沈んでいた。
窓際の席で桐生は黙って外を見ている。
その横顔には、いつもの余裕の笑みはない。
ただ、流れていく冬の街並みを静かに見つめていた。
若葉もまた、珍しく口を閉ざしていた。
視線は前を向いたまま。
膝の上で組んだ指先だけが、わずかに動いている。
夏の全国を経験しているからこそ分かる。
ここから先の一試合一試合の重さを。
全国レベルの怖さを。
蓮は椿と並んで席に座り、スマホを取り出した。
再生されたのは海外リーグの試合映像。
中盤の組み立て。
司令塔の立ち位置。
視線誘導。
何度も巻き戻して確認する。
椿はその横からそっと画面を覗き込む。
(また見てる)
ここ最近の蓮は、同じ動画、同じシーンを何度も見かえしていた。
「なにか、引っかかるの?」
「ああ。たぶん、俺の目指す姿はこれだ。
だけど、何か違う……それが言語化できないんだ」
「うーん。私もそのシーン何度も見てるけど、わからないわね
……邪魔してごめんなさい」
「いや、いいんだ。気が張りすぎてる気もするからな。
こっちこそ、空気固くてごめんな」
「いいのよ。大会の重みはわかるから」
この話はこれで終わり、と言うように、椿は視線を前に向ける。
その様子を確認した蓮は、再び動画を流し始めた。
やがてバスは高速道路へ入り、冬の景色が流れていく。
静かな時間の中で、誰もがそれぞれの戦いへ意識を向けていた。
高速を降りて一時間ほど走ると、ようやく会場が見え始める。
全国から集まった強豪校のバス。
色とりどりのユニフォーム。
その光景に、車内の温度がさらに変わる。
「着いたぞ」
監督の低い声。
全員が静かに立ち上がる。
桐生が最初に前へ進み、若葉が深く息を吸う。
蓮は手袋を軽く握り直した。
首元には椿が巻いてくれたマフラーの温もりがまだ残っている。
バスを降りた瞬間、また冷たい冬の空気が頬を打った。
だが、その先にある熱量はそれ以上だった。
選手権本戦。
開会式会場へ向かう選手たちの列が、冬の空の下に長く伸びていた。
冬の本当の戦いが、ここから始まる。
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