136食目 熱を整える
晩秋の空気は、吐く息が白く見えるほどに冷えていた。
全国の舞台を目前に控えたグラウンドには、いつも以上の緊張感が張り詰めている。
三年生にとっては最後の大会。
この一日、この一本、そのすべてが終わりへ向かう時間に繋がっている。
だからこそ、紅白戦の強度は明らかに違っていた。
「甘い!」
鋭い声とともに、中央へ差し込まれたボールが刈り取られる。
桐生だった。
前線からの寄せが一歩深い。
身体の当て方も、コースの切り方も、いつもより明らかに強い。
一年の選手が体勢を崩し、慌ててボールを逃がす。
だが、そこにもすぐ桐生が詰める。
「止まるな! 全国はこの程度じゃ済まないぞ!」
グラウンド全体に響く声。
その熱量に引っ張られるように、周囲のプレーも少しずつ荒くなっていく。
若葉が中盤で受けた瞬間、背後からの寄せが普段より一歩深く入った。
「っ……!」
踏ん張って耐えるが、表情にわずかな焦りが走る。
ライン際で見ていた監督が、一歩前へ出た。
「桐生――」
その声がかかる寸前だった。
「桐生さん」
先に声を出したのは蓮だった。
中盤でボールを足元に止めたまま、真っ直ぐ桐生を見る。
冬の冷たい空気の中、その声だけが妙に静かに通る。
監督は口を開きかけたまま、言葉を飲み込んだ。
視線だけを蓮へ向け、そのまま口をつぐむ。
「強度を上げるのは必要です」
桐生の視線が向く。
「でも、熱くなりすぎると視野が狭くなります」
揺れのない声に、全員が動きを止める。
「焦って見える範囲が狭くなると、身体もチームも崩れます」
その言葉は、自分自身へ向けたものでもあった。
止まれなくなった過去。
足りないと追い込んで、自分を見失いかけた記憶。
怒りに飲まれかけた試合。
全部を通ってきたからこそ、今は分かる。
「最後の大会だからこそ、冷静でいてください」
桐生の表情が、わずかに変わる。
数秒の沈黙のあと、大きく息を吐いた。
「……悪い。少し熱くなりすぎてたな」
その熱が抜けた瞬間、周囲の空気も少しだけ和らぐ。
若葉が小さく息を吐いた。
「た、助かったっす……」
桐生が口元をわずかに上げる。
「悪かったな、若葉。次は試合を意識してもう一本だ」
「はいっす!」
蓮はそれ以上何も言わず、静かにプレーを再開する。
その様子を、監督はライン際から黙って見ていた。
止めに入ろうとした自分より先に、蓮がチームを整えた。
監督は何も言わず、ただ小さく頷く。
今度の紅白戦は、先ほどまでとは明らかに質が違っていた。
強度は高い。
だが、荒れてはいない。
桐生が前線から寄せる。
その一歩目の鋭さは変わらない。
若葉の縦パスコースを切りながら、外へ追い込む。
中へ差し込ませない。
「若葉、逃げるな! 横を使え!」
「はいっす!」
声が飛ぶ。
「若葉、こっち」
蓮がサポートに入る位置に落ちる。
若葉からのパスを半身で受け、そのまま右へ散らした。
サイドで受けた二年のSBが縦へ持ち出し、クロスを上げる。
ニアへ走り込んだ一年のFWが飛び込むが、わずかに届かない。
「おしいぞ!いい形だ!」
桐生の声に、全体の温度が揃っていく。
最後の大会へ向けた熱。
それがようやく、一つの方向へまとまり始めていた。
練習が終わる頃には、空はすっかり冬の色へ沈み始めていた。
部員たちが片付けに動く中、桐生が給水ボトルを片手に蓮の隣へ来る。
「さっきは助かった」
蓮が視線を向ける。
「いえ」
「……正直、ちょっと焦ってた」
桐生の目は、珍しく遠くを見ていた。
「最後だと思うと、一本一本に全部乗せたくなる」
その言葉の重みは、蓮にも分かった。
三年生にとっては、本当に最後の冬。
負ければ終わる。
次はない。
「でも、それで周りが見えなくなったら意味ないよな」
桐生が小さく笑う。
「お前に言われるまで気づかなかった、ありがとな」
蓮は短く首を振った。
「俺も、一度やってますから」
桐生がその意味を理解したように、静かに目を細める。
「ああ……そうだったな」
一拍置いて、前を向く。
「……全国、勝つぞ」
その声には、先ほどまでの熱さとは違う、研ぎ澄まされた決意があった。
「はい」
一言の返事だが、その一言に十分な重さが乗っていた。
帰宅すると、リビングにはすでに夕食の香りが広がっていた。
テーブルの上には、今日の練習強度をそのまま映したような献立が並んでいる。
鶏胸肉のソテー。
温野菜。
回復を意識したスープ。
いつもよりわずかに増やされたライス。
椿が最後の皿を置きながら口を開く。
「今日はかなり強度が上がってたわね」
蓮は椅子を引きながら小さく頷く。
「ああ」
「桐生先輩、少し熱くなってた?」
椿の言葉に、蓮の視線がわずかに上がる。
外から見ても、それは伝わっていたらしい。
「最後だからな」
「そうよね。最後、だもんね」
三年生にとって最後の大会。
その重みを、椿も理解している。
「でも、止めたのね?」
責めるでもなく、ただ静かな確認。
蓮は箸を手に取りながら答える。
「そのままだと、全体が壊れると思ったからな」
椿が小さく頷く。
「うん。みんな足が重くなりはじめてたもの」
椿が味噌汁の椀を手元へ寄せる。
「……前なら」
そこで一度言葉を切る。
「蓮くんも、その熱量に乗ってたかもしれないわね」
蓮は否定しなかった。
むしろ、その通りだと思った。
少し前の自分なら、あの空気にそのまま入っていた。
「……そうかもな」
その返事に、椿の表情が少しだけ和らぐ。
「でも、今日は止めた。
それだけで、私は十分」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
ただ誰かを止めただけじゃない。
自分自身も飲まれなかった。
そこに、今日の意味があった。
椿が皿へ視線を落とす。
「ということで、今日は回復優先。
タンパク質多め、糖質も少し増やしてるわ。ちゃんと食べてね」
「ああ」
いつものやり取り。
その日常の温度が、冬の入り口の冷たさを少しだけ和らげていく。
「……でも」
椿が少し真面目な声になる。
「本当に、もう最後なのよね」
「ああ」
桐生たちにとって最後の冬。
その現実が、食卓の上にも静かに置かれる。
「絶対、全国で勝ちたいわね」
その言葉に、蓮はまっすぐ頷いた。
「勝つ」
その一言に、今日グラウンドで交わした決意も、これから始まる冬の重みも、すべてが乗っていた。
冬は、もう始まっていた。
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