135食目 その先へ続く道
その日の夜、蓮の部屋には夕食後の静かな余韻が残っていた。
食卓の上には、つい先ほどまで二人で囲んでいた夕食の温度がまだ微かに残っている。
味噌汁の椀はすでに片付けられ、キッチンからは洗い終えた食器を水切りラックへ置く小さな音が聞こえていた。
リビングのローテーブルいっぱいに、大学のパンフレットが広げられている。
国内の管理栄養士養成課程の大学案内。
スポーツ科学部の資料。
海外大学の簡易パンフレット。
欧州圏の大学の英語資料。
色の違う冊子が幾重にも重なり、その上を椿の指先が何度も行き来していた。
「……うーん」
小さな唸り声。
ページをめくっては止まり、別の大学名に視線を移してはまた戻る。
今日の進路面談でより鮮明になった迷いが、そのまま机の上に広がっているようだった。
洗い物を終えた蓮が、キッチンから戻ってくる。
手をタオルで軽く拭きながら、椿の正面に腰を下ろした。
ソファに背を預け、スマホを手に取る。
画面を開き、親指で何かをスクロールする。
だが、正面から何度も聞こえる小さな唸り声に、数分もしないうちに視線が上がった。
「大学、決まらないのか?」
椿は資料から目を離さないまま、短く息を吐く。
「ええ……」
机の上に散らばるパンフレットを見渡しながら続けた。
「国内だけでも選択肢は多いのに、海外っていう選択肢まで入ってくるから」
「海外か」
蓮の視線が、英語表記のパンフレットへ落ちる。
「すごいな」
椿がようやく顔を上げた。
「蓮くんもでしょ」
「俺は元からルーツがあったからな」
蓮はスマホを持ったまま、視線を少しだけ逸らす。
「戻る場所があっただけだ。何もないところへ飛び込む勇気の方が、すごいと思う」
その言葉に、椿の指先が一瞬止まる。
「……でも正直、海外ルートは無しね」
「そうなのか?」
椿は一枚のパンフレットを持ち上げ、それをまた机へ戻した。
「ええ。コネクションと言語の壁が大きいもの」
「……そうか」
蓮は短く返し、それ以上は踏み込まずにスマホへ視線を戻した。
いつもの彼らしい反応だった。
必要以上に口を挟まず、相手の思考を邪魔しない。
けれど、その静かな間があったからこそ、椿は胸の奥に沈んでいた本音を口にできた。
「……でも」
蓮の親指の動きが止まる。
「欧州の大学が最適な気もするの」
椿の視線は、海外大学の資料に落ちていた。
「だから迷ってる」
「そうか」
それだけ。
たったそれだけの返事なのに、不思議と否定も肯定もされない安心感がある。
椿は資料を一枚ずつ見直す。
スポーツ栄養学。
運動生理。
スポーツ医学。
欧州圏の大学は、やはり魅力的だった。
世界のトップアスリートに近い環境。
現場への導線。
研究レベル。
どれを取っても理想に近い。
けれど、その一歩を踏み出す現実性が見えない。
そんな沈黙の中で、今度は蓮の方から口を開いた。
「でもさ。椿なら、このまますぐに栄養士として活動できるんじゃないのか?」
椿は思わず顔を上げた。
「アマチュアならね」
そのまま、ゆっくり首を振る。
「でも、プロとしてなら話は別よ」
「別?」
「資格がないと、報酬は受け取れないわ」
蓮の眉がわずかに動く。
「だから、あなたからも受け取ってないでしょう」
一瞬、蓮の表情が止まった。
「……え?」
珍しく少し間の抜けた声。
「俺が報酬払うって言ったのを断ったのって、そういうことだったのか?」
椿は小さく息を吐く。
「そうよ。そもそも受け取れないのよ」
その言葉に、蓮はほんの少しだけ驚いたように目を細めた。
「そうだったのか」
「ええ」
椿は静かに頷く。
「資格がない状態で、対価を受け取って専門職として活動するのは無理よ」
蓮は数秒だけ黙り、それから問いを重ねる。
「でも、四年で管理栄養士にはなれないのか?」
「管理栄養士ってだけなら、それで取れると思うわ」
椿は資料の一つを開きながら続けた。
「でも、スポーツ栄養士となると別なの」
「別?」
「ええ」
椿の声が少しだけ真面目になる。
「競技特性の理解だけじゃ足りない。運動生理、スポーツ科学、医学的知識……他にも修めないといけない領域があるわ」
そして、机の端に置いていた別の資料へ視線を移す。
「何より、国を越えて活動するなら、IOCの資格も欲しい」
「IOC?」
「そう」
椿はゆっくり頷いた。
「IOCが出しているスポーツ栄養のディプロマ。国際的なトップスポーツ現場で学ぶなら、将来的に取りたい資格の一つね」
蓮の視線が静かに上がる。
「それが、時間かかるのか」
「そう」
椿の声がわずかに落ちる。
「早いのは、やっぱり欧米の大学で学ぶことなんでしょうけど……」
そこまで言って、言葉が止まる。
ページをめくる指先が止まり、そのまま机の上に落ちた。
「……やっぱりダメね」
小さく漏れた声。
「言語はともかく、コネクションがないわ」
椿の視線が、机の上に広がる海外大学のパンフレットへ落ちる。
「仮に大学に入れたとしても、その先があるもの」
蓮の親指の動きが止まる。
「その先?」
「実務経験よ」
椿は資料の端を指先でなぞりながら続ける。
「資格を取った後、現場でどれだけ高いレベルの経験を積めるかが大事なの。特にスポーツ栄養の世界は、学位だけで完結しないわ」
声は落ち着いている。
けれど、その言葉の一つひとつに現実の重みがある。
「海外は特に、事前のコネクションが重要なの」
蓮が静かに視線を上げる。
椿はそのまま言葉を重ねた。
「どこの現場に入るのか、誰の下で経験を積むのか、それだけで積めるものが全然違うわ。より高いレベルで経験を積もうとするなら、なおさら事前の繋がりが必要になる」
机の上の資料を見つめたまま、小さく息を吐く。
「大学に入ること自体がゴールじゃないの。
その後に、どれだけトップレベルの現場へ近づけるか」
その言葉に、部屋の静けさが少しだけ深くなる。
夢の輪郭は明確だ。
だからこそ、その先に必要な現実も、椿には見えてしまっている。
蓮は何も言わない。
ただ、再びスマホへ視線を落とした。
画面をスクロールする親指の動きは、さっきより明らかに遅い。
何かを見ている。
何かを考えている。
その沈黙の意味を、椿はまだ知らない。
スマホの画面に映る文字列を追いながら、蓮の視線はわずかに細まる。
その指先が、一つの名前の上で止まった。
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