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俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜  作者: はるくぼ
2年生・秋「それでも、選ぶ」

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135/210

134食目 最短と最適

 秋の空気は、夏の名残をようやく手放し始めていた。

 全国大会出場を決めた熱がサッカー部内にまだ残っている一方で、二年生の教室には別の緊張が静かに流れ込んでいた。


 六時間目の終わり、担任が教卓の前でプリントを配りながら口を開く。


「はーい、皆聞いて。来週から二年生の進路面談を始めます」


 その一言で、ざわ、と教室が揺れる。


 誰かが「もうそんな時期か」と呟き、別の席では「まだ全然決めてないんだけど」と苦笑いが漏れる。進学先の名前を挙げて盛り上がる声もあれば、推薦の話をし始めるグループもあった。


 担任は配布用のプリントを手に取りながら続ける。


「三年になってから考え始めても遅いですからね。今の時点で考えている進路、将来やりたいこと、大学や専門の候補くらいは整理しておきましょう。まだ確定じゃなくていいけど、曖昧なまま放置しないようにね」


 列の先頭から順にプリントが回ってくる。

 椿の手元に届いた紙には、整然とした枠が並んでいた。


 第一志望。

 第二志望。

 将来の希望職種。

 進学理由。

 卒業後のキャリアイメージ。


 何も難しくないはずの文字が、今日は妙に重たく見える。


 将来の希望職種。

 その欄に視線を落とした瞬間、椿の頭の中には、これまで積み上げてきた夢の輪郭が自然と浮かび上がった。


 国際舞台で戦うトップアスリートの専属管理栄養士。


 ただ食事を作るだけではない。

 競技特性、コンディション、遠征先の環境、時差、試合日程、怪我からの回復過程まで含めて、選手の身体を支える存在。


 その領域に至る。

 その目標自体は、ずっと変わっていない。


 けれど問題は、その道の長さだった。


 放課後、スポーツ栄養科の教室棟へ向かう廊下で、陽菜がすぐに椿の手元のプリントに気づいた。


「あー、ついに来たねー。進路の話」


 項垂れながら、陽菜が軽く笑う。


「ええ」


 椿が短く返すと、陽菜は少しだけ目を細めた。


「椿って、こういうのは早くに決めてそうだよね」


「目標はあるわよ」


「でも、決まってるのと迷いがないのは別でしょ?」


 その言葉に、椿は足を止めた。

 さすが、鋭い。


 陽菜はいつもそうだ。

 言葉にしていないところまで、先に拾ってくる。


「……そうね」


「管理栄養士だっけ?それも、国際的な」


「最終的にはね」


 椿は手元のプリントを見下ろした。


「最終目標はIOCの学位を取ること」


 陽菜の表情が少しだけ真面目になる。


「IOC!?随分先まで見てるね」


「見てるというより、そこまで行かないと意味がないの」


 椿の声には迷いはない。

 ただ、その先にある現実の重みは確かにあった。


「まずは管理栄養士の資格を取る。そのために大学に進学して、国家試験の受験資格を得る。そこから現場で実務経験を積みながら、必要なら医科や運動生理の学位も修める。そこまで積み上げて、ようやくIOCに届く」


「うわぁ……長いね」


「ええ。かなり」


 陽菜は数秒だけ黙り、それから少しだけ視線を横へ流した。


「もしかして、天根くんのこと、考えてる?」


 その問いに、椿の指先がプリントの端をわずかに強く握る。


「……考えていないわけじゃない」


 彼女なら、それだけで十分伝わる。


 陽菜はそれ以上踏み込まない。

 ただ、少しだけ柔らかい声音で言った。


「焦って夢のルートを変えるのだけは、椿らしくないよ」


 その言葉が、胸の奥に静かに残っていた。


 翌週、進路面談当日。


 放課後の教室は静かだった。

 部活へ向かう足音が遠ざかり、窓の外では運動部のアップの掛け声が微かに聞こえてくる。


 椿は面談票を手に、担任の前に座った。

 机の上には学校案内、大学パンフレット、進学資料が整然と並んでいる。


「橘さん」


 担任が面談票に目を落としながら口を開く。


「かなり具体的に書いてきたのね」


「はい」


「管理栄養士志望。将来的には国際スポーツ現場」


 椿は静かに頷いた。


「最終的には、国際大会レベルでアスリートに帯同する専属管理栄養士を目指しています」


 担任は一度目を上げた。


「かなり高い目標ね」


「難しいことは、理解しています」


「ルートはどう考えているの?」


 その問いを待っていたかのように、椿は呼吸を整える。


「まずは国内の管理栄養士養成課程のある大学へ進学します。

 高校卒業時点では資格は取れないので、まずはそこが第一段階です」


 担任が小さく頷く。


「その後は?」


「国家試験に合格して管理栄養士資格を取得します。

 その後、スポーツ現場で実務経験を積みながら、必要に応じて医科や運動生理、スポーツ科学系の学位を修めます」


 言葉を重ねるたびに、その道の長さがより現実味を帯びていく。


「そして、必要な学位と実績を積み上げた上で、最終的にIOCの学位取得を目指します」


 教室に短い沈黙が落ちた。

 担任は資料に視線を落とし、それから静かに言う。


「とっても現実的ね。夢をただの夢にしていないわね」


 その評価に、椿は少しだけ肩の力を抜いた。


「でも、時間は相当かかるわよ」


「……はい」


「大学四年。その後の実務経験。追加学位。IOCまで見据えるなら、少なく見積もっても十年じゃ足りないわね」


 十年。

 数字にされた瞬間、その長さが胸に落ちる。


 蓮の姿が自然と浮かんだ。


 高校卒業。

 ドイツ復帰。

 プロ昇格。

 海外クラブ。

 全盛期。


 自分がそこへ辿り着く頃、蓮はどこにいるのだろう。


 まだピッチに立っているのか。

 それとも、もう引退を見据える時期に入っているのか。


 担任の声が続く。


「橘さんが言ったとおり、国内大学でも十分可能よ。でも、世界の現場へ出るまでには時間がかかるわ」


 担任は面談票から目を上げた。

 机の上に置かれたパンフレットの一つへ視線を落とし、それから続ける。


「海外の大学は視野に入れているの?」


 その問いに、椿の指先がわずかに止まった。

 考えていないわけではない。


 むしろ、その可能性を一度も検討していないと言えば嘘になる。


「……視野には入れています」


 静かに答える。


「スポーツ栄養学や運動生理学の分野で、海外の方が進んでいる大学が多いのは理解しています。特に欧州圏は、トップアスリートへの帯同環境も整っていますから」


 担任が小さく頷く。


「なら、最初から海外進学という選択肢は?」


 その問いは、椿の胸の奥に沈んでいた迷いをまっすぐ掬い上げた。


 最初から海外へ出る。

 それができれば、世界へ出るまでの時間は大きく短縮されるかもしれない。


 より早く最前線に触れられる可能性もある。


 だが――


「……現時点では、現実的ではないと考えています」


 椿はゆっくりと言葉を選んだ。


「まず、コネクションの壁があります。学費や生活環境の問題もあるし、何より言語の壁が大きいです。そこを越えること自体に意識を取られて、基礎が疎かになるのが不安なんです。

 資格と実務経験を持った上で海外へ出る方が、最終的には確実に現場へ入れると考えています」


 担任は少しだけ視線を細める。


「堅実ね」


「遠回りに見えるかもしれません。でも、夢に届くために必要な基礎を飛ばしたくないんです」


 そこまで言って、椿は一瞬だけ言葉を止めた。


 遠回り。

 その言葉が、別の意味を持って胸に残る。


 もし海外大学へ進めば、世界へ出る時間は短くなる。

 もしかしたら、蓮が現役のピークにいる間に同じ舞台へ立てるかもしれない。


 だが、そのために資格ルートや積み上げを急ぎすぎて、本当に自分の目指す管理栄養士になれるのか。

 担任はその沈黙を見逃さなかった。


「時間のことを気にしているの?」


 椿は小さく息を呑む。


「……はい」


「誰かに間に合わせたい、という意味で?」


 真正面から問われ、椿は視線を落とした。

 否定できなかった。


 その言葉が、椿の胸の奥で静かに波を立てた。


 分かっていたことだ。


 けれど、教師の口から現実として言葉にされると、その重みは違った。


 担任は穏やかに言う。


「安心して、あなた達の関係を否定しているわけではないわ。でもね……

 夢に届く最短距離を選ぶことと、夢に届く最適解を選ぶことは別よ」


 椿は視線を落とした。

 最短か、最適か。


 その問いは、そのまま蓮の時間軸とも重なる。

 早く世界へ出れば、蓮の現役に間に合うかもしれない。


 だが、それが本当に自分の夢に対して最適なのか。


 十分な土台を積まずに飛び込んで、本当に支えられるのか。


 その悩みを更に揺らすように、担任は告げる。


「でもね、時間をかけることだけが正解とも限らないわ」


「……え?」


「まだ時間はあるから、ゆっくり考えて。

 いつでも相談は受け付けてるから」


 教室の窓の外から、笛の音が聞こえる。

 サッカー部の練習開始。


 椿はほんの少しだけ、その音に顔を向ける。


 あの音の先に、蓮がいる。

 未来へ向かって、もう走り出している人。


 その背中に追いつくためではない。

 自分の夢に辿り着くために、どう進むべきか。


 その問いが、今、初めて本当の重さを持って胸の中に置かれた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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