134食目 最短と最適
秋の空気は、夏の名残をようやく手放し始めていた。
全国大会出場を決めた熱がサッカー部内にまだ残っている一方で、二年生の教室には別の緊張が静かに流れ込んでいた。
六時間目の終わり、担任が教卓の前でプリントを配りながら口を開く。
「はーい、皆聞いて。来週から二年生の進路面談を始めます」
その一言で、ざわ、と教室が揺れる。
誰かが「もうそんな時期か」と呟き、別の席では「まだ全然決めてないんだけど」と苦笑いが漏れる。進学先の名前を挙げて盛り上がる声もあれば、推薦の話をし始めるグループもあった。
担任は配布用のプリントを手に取りながら続ける。
「三年になってから考え始めても遅いですからね。今の時点で考えている進路、将来やりたいこと、大学や専門の候補くらいは整理しておきましょう。まだ確定じゃなくていいけど、曖昧なまま放置しないようにね」
列の先頭から順にプリントが回ってくる。
椿の手元に届いた紙には、整然とした枠が並んでいた。
第一志望。
第二志望。
将来の希望職種。
進学理由。
卒業後のキャリアイメージ。
何も難しくないはずの文字が、今日は妙に重たく見える。
将来の希望職種。
その欄に視線を落とした瞬間、椿の頭の中には、これまで積み上げてきた夢の輪郭が自然と浮かび上がった。
国際舞台で戦うトップアスリートの専属管理栄養士。
ただ食事を作るだけではない。
競技特性、コンディション、遠征先の環境、時差、試合日程、怪我からの回復過程まで含めて、選手の身体を支える存在。
その領域に至る。
その目標自体は、ずっと変わっていない。
けれど問題は、その道の長さだった。
放課後、スポーツ栄養科の教室棟へ向かう廊下で、陽菜がすぐに椿の手元のプリントに気づいた。
「あー、ついに来たねー。進路の話」
項垂れながら、陽菜が軽く笑う。
「ええ」
椿が短く返すと、陽菜は少しだけ目を細めた。
「椿って、こういうのは早くに決めてそうだよね」
「目標はあるわよ」
「でも、決まってるのと迷いがないのは別でしょ?」
その言葉に、椿は足を止めた。
さすが、鋭い。
陽菜はいつもそうだ。
言葉にしていないところまで、先に拾ってくる。
「……そうね」
「管理栄養士だっけ?それも、国際的な」
「最終的にはね」
椿は手元のプリントを見下ろした。
「最終目標はIOCの学位を取ること」
陽菜の表情が少しだけ真面目になる。
「IOC!?随分先まで見てるね」
「見てるというより、そこまで行かないと意味がないの」
椿の声には迷いはない。
ただ、その先にある現実の重みは確かにあった。
「まずは管理栄養士の資格を取る。そのために大学に進学して、国家試験の受験資格を得る。そこから現場で実務経験を積みながら、必要なら医科や運動生理の学位も修める。そこまで積み上げて、ようやくIOCに届く」
「うわぁ……長いね」
「ええ。かなり」
陽菜は数秒だけ黙り、それから少しだけ視線を横へ流した。
「もしかして、天根くんのこと、考えてる?」
その問いに、椿の指先がプリントの端をわずかに強く握る。
「……考えていないわけじゃない」
彼女なら、それだけで十分伝わる。
陽菜はそれ以上踏み込まない。
ただ、少しだけ柔らかい声音で言った。
「焦って夢のルートを変えるのだけは、椿らしくないよ」
その言葉が、胸の奥に静かに残っていた。
翌週、進路面談当日。
放課後の教室は静かだった。
部活へ向かう足音が遠ざかり、窓の外では運動部のアップの掛け声が微かに聞こえてくる。
椿は面談票を手に、担任の前に座った。
机の上には学校案内、大学パンフレット、進学資料が整然と並んでいる。
「橘さん」
担任が面談票に目を落としながら口を開く。
「かなり具体的に書いてきたのね」
「はい」
「管理栄養士志望。将来的には国際スポーツ現場」
椿は静かに頷いた。
「最終的には、国際大会レベルでアスリートに帯同する専属管理栄養士を目指しています」
担任は一度目を上げた。
「かなり高い目標ね」
「難しいことは、理解しています」
「ルートはどう考えているの?」
その問いを待っていたかのように、椿は呼吸を整える。
「まずは国内の管理栄養士養成課程のある大学へ進学します。
高校卒業時点では資格は取れないので、まずはそこが第一段階です」
担任が小さく頷く。
「その後は?」
「国家試験に合格して管理栄養士資格を取得します。
その後、スポーツ現場で実務経験を積みながら、必要に応じて医科や運動生理、スポーツ科学系の学位を修めます」
言葉を重ねるたびに、その道の長さがより現実味を帯びていく。
「そして、必要な学位と実績を積み上げた上で、最終的にIOCの学位取得を目指します」
教室に短い沈黙が落ちた。
担任は資料に視線を落とし、それから静かに言う。
「とっても現実的ね。夢をただの夢にしていないわね」
その評価に、椿は少しだけ肩の力を抜いた。
「でも、時間は相当かかるわよ」
「……はい」
「大学四年。その後の実務経験。追加学位。IOCまで見据えるなら、少なく見積もっても十年じゃ足りないわね」
十年。
数字にされた瞬間、その長さが胸に落ちる。
蓮の姿が自然と浮かんだ。
高校卒業。
ドイツ復帰。
プロ昇格。
海外クラブ。
全盛期。
自分がそこへ辿り着く頃、蓮はどこにいるのだろう。
まだピッチに立っているのか。
それとも、もう引退を見据える時期に入っているのか。
担任の声が続く。
「橘さんが言ったとおり、国内大学でも十分可能よ。でも、世界の現場へ出るまでには時間がかかるわ」
担任は面談票から目を上げた。
机の上に置かれたパンフレットの一つへ視線を落とし、それから続ける。
「海外の大学は視野に入れているの?」
その問いに、椿の指先がわずかに止まった。
考えていないわけではない。
むしろ、その可能性を一度も検討していないと言えば嘘になる。
「……視野には入れています」
静かに答える。
「スポーツ栄養学や運動生理学の分野で、海外の方が進んでいる大学が多いのは理解しています。特に欧州圏は、トップアスリートへの帯同環境も整っていますから」
担任が小さく頷く。
「なら、最初から海外進学という選択肢は?」
その問いは、椿の胸の奥に沈んでいた迷いをまっすぐ掬い上げた。
最初から海外へ出る。
それができれば、世界へ出るまでの時間は大きく短縮されるかもしれない。
より早く最前線に触れられる可能性もある。
だが――
「……現時点では、現実的ではないと考えています」
椿はゆっくりと言葉を選んだ。
「まず、コネクションの壁があります。学費や生活環境の問題もあるし、何より言語の壁が大きいです。そこを越えること自体に意識を取られて、基礎が疎かになるのが不安なんです。
資格と実務経験を持った上で海外へ出る方が、最終的には確実に現場へ入れると考えています」
担任は少しだけ視線を細める。
「堅実ね」
「遠回りに見えるかもしれません。でも、夢に届くために必要な基礎を飛ばしたくないんです」
そこまで言って、椿は一瞬だけ言葉を止めた。
遠回り。
その言葉が、別の意味を持って胸に残る。
もし海外大学へ進めば、世界へ出る時間は短くなる。
もしかしたら、蓮が現役のピークにいる間に同じ舞台へ立てるかもしれない。
だが、そのために資格ルートや積み上げを急ぎすぎて、本当に自分の目指す管理栄養士になれるのか。
担任はその沈黙を見逃さなかった。
「時間のことを気にしているの?」
椿は小さく息を呑む。
「……はい」
「誰かに間に合わせたい、という意味で?」
真正面から問われ、椿は視線を落とした。
否定できなかった。
その言葉が、椿の胸の奥で静かに波を立てた。
分かっていたことだ。
けれど、教師の口から現実として言葉にされると、その重みは違った。
担任は穏やかに言う。
「安心して、あなた達の関係を否定しているわけではないわ。でもね……
夢に届く最短距離を選ぶことと、夢に届く最適解を選ぶことは別よ」
椿は視線を落とした。
最短か、最適か。
その問いは、そのまま蓮の時間軸とも重なる。
早く世界へ出れば、蓮の現役に間に合うかもしれない。
だが、それが本当に自分の夢に対して最適なのか。
十分な土台を積まずに飛び込んで、本当に支えられるのか。
その悩みを更に揺らすように、担任は告げる。
「でもね、時間をかけることだけが正解とも限らないわ」
「……え?」
「まだ時間はあるから、ゆっくり考えて。
いつでも相談は受け付けてるから」
教室の窓の外から、笛の音が聞こえる。
サッカー部の練習開始。
椿はほんの少しだけ、その音に顔を向ける。
あの音の先に、蓮がいる。
未来へ向かって、もう走り出している人。
その背中に追いつくためではない。
自分の夢に辿り着くために、どう進むべきか。
その問いが、今、初めて本当の重さを持って胸の中に置かれた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
「おもしろい」「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援をお願いします!




