132食目 原点回帰
試合後の校舎は、勝利の熱がまだ完全には冷めきっていなかった。
部室の前では、試合を振り返る声がいくつも重なっている。若葉の高い声、桐生の低い笑い声、勝ったはずなのにどこか浮ききらない空気。
その中心から少しだけ外れた場所で、蓮はユニフォーム姿のまま立っていた。
汗はすでに引いている。
だが、胸の奥に残った熱だけが、まだ消えていなかった。
「天根」
低い声が廊下に落ちる。
振り向くと、監督が部室の入口に立っていた。
「監督室に来い」
「……はい」
蓮はそれだけ返し、歩き出す。
休日の校舎は静かだった。
試合の余韻が遠くでかすかに残っているのに、この廊下だけは切り離されたように音が薄い。
上履きが床を叩く音だけが、小さく続く。
監督室の前で足を止め、三度ノックする。
「入れ」
扉を開ける。
部屋の中は、夕陽の橙が斜めに差し込んでいた。
机の上には試合のメモ用紙、マグネット式の簡易ボード、飲みかけのコーヒー。
監督は椅子に深く腰掛けたまま、真正面から蓮を見ていた。
「失礼します」
扉を閉めた音が、妙に重く響く。
「座れ」
その後、しばらく沈黙が続いた。
怒鳴られるわけではない。
責め立てる視線でもない。
ただ、見られている。
その静けさの方が、蓮にはずっと重かった。
先に口を開いたのは、蓮だった。
「……今日、どうして交代させたんですか?
俺はまだプレーできました。怪我もしていなかった。
なのに、なぜですか?」
監督の目が、蓮へと向く。
「あれはお前を怪我から守るためではない」
「……え?」
「天根。今日の、後半のプレーは何だ?」
「あれは……チームを怪我から守るためにも、俺が持ち続けることが最善だと――」
「そこじゃない。ラフプレーの方だ」
「……っ」
遮られた言葉に、思わず息を飲む。
「天根、お前は言ったな」
低く、揺れない声。
「プロになるために、ピッチ内外で自分を律するようになりたいと」
その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちる。
忘れるはずがない。
常盤台への入学を決める前。
まだ制服も着ていない頃。
いくつもの高校と面談した。
どこも同じようなことを言った。
――入部後、即レギュラーを約束する。
――チームの中心は君だ。
――三年間、お前を軸に全国を狙う。
ドイツ帰りの肩書きは、それだけの価値を持っていた。
だが、常盤台の監督だけは違った。
あの面談室の空気が、鮮明に蘇る。
机を挟んで座る監督は、資料に目を落とすこともなく、最初から蓮だけを見ていた。
『先に言っておくが、わしはお前を特別扱いするつもりはない』
その一言に、蓮は思わず目を上げた。
他校とはまるで違う。
『試合に出たければ、結果で示せ。
無論、チームの輪を乱すようなやつなら使うつもりはない』
淡々としていた。
だが、その言葉には一切の揺らぎがなかった。
ドイツ帰りの逸材でも関係ない。
ピッチに立つ資格は、肩書きではなく結果で決まる。
その厳しさに、蓮はむしろ心を掴まれた。
この人は、自分を“特別”として扱わない。
ただ、部員の一人として見てくれる。
それこそが、自分が求めていた環境だった。
技術だけでは足りない。
ピッチの中も外も含めて、自分を律する力。
それを手に入れるなら、この場所しかない。
そう思って、常盤台を選んだ。
この監督がいたから。
その監督の視線は今も真っ直ぐに蓮を射抜いている。
「もう一度聞くが、今日のプレーは何だ」
「……」
「あれは己を律した者の行いか?」
蓮は、答えることができなかった。
胸の奥に残っていた熱が、静かに形を変えていく。
志岐との再戦を、自分の中で確かに待っていた。
だが、その機会は奪われた。
しかも、あんなやり方で。
だから、怒りが湧いた。
止められないなら、相手の土俵で上回ればいい。
削りで来るなら、もっと洗練された形で返せばいい。
そう思った。
二度と、あんなプレーができなくなればいいと思って。
だが、本当にそれは正しかったのか。
本当に、合理の上での判断だったのか。
違う。
あれは、怒りだった。
ただ感情に任せただけの、非合理の証明。
監督が静かに言う。
「お前を交代させたのは、罰だけではない」
「え?」
その言葉に、思わず顔を上げて問い返してしまう。
「止めなければ、お前はもっと取り返しがつかんことになっていた」
その言葉に、呼吸が一瞬止まる。
確かにそうだった。
あのまま続いていたら、もっと露骨にやっていた。
次は肘では済まなかったかもしれない。
相手を壊す可能性だってあった。
それを止めてくれたのは、あの交代だった。
初めて、自分の意思ではなくピッチを降ろされた。
あの時の納得のいかなさが、今ようやく意味を持つ。
怒りに飲まれた自分を、この人は止めてくれた。
胸の奥で残っていた熱が、確かな敬意へ変わっていく。
監督は椅子からわずかに身を乗り出した。
「思い出せ」
低く、重い声。
「お前はなぜ日本に帰ってきた」
その問いが、蓮の中に深く沈む。
ドイツに残れば、もっと早くプロに近づけた。
それでも帰ってきた。
技術だけでは足りないと分かっていたから。
勝つための技術ではなく、
勝ち続けるための人格と規律が必要だったから。
ピッチの内外で、自分を律する強さ。
それを手に入れるために、この場所を選んだ。
なのに今日、自分はそこから外れかけた。
蓮はゆっくりと拳を握る。
「……申し訳、ありませんでした」
自然に頭が下がっていた。
監督はしばらく黙った後、短く言った。
「なら次で示せ」
たったそれだけ。
だが、その一言が何より重い。
怒鳴るでもなく、説教を続けるでもない。
――結果で示せ。
入学前、あの日と同じ言葉だった。
だが今は、より深く胸に刺さる。
「はい。ありがとうございました」
蓮は再び頭を下げた。
監督室を出ると、廊下はすでに夕闇に沈み始めていた。
だが、蓮の中ではむしろ視界が晴れていた。
なぜここに来たのか。
何を手に入れたかったのか。
その原点を、もう見失わない。
ドイツで磨いた技術を、日本で完成させるために。
そして、プロとして立ち続ける人間になるために。
この人の下を選んだ理由が、今日ではっきりと証明された。
自分が見失いかけた道を、正面から引き戻してくれる人間がここにいる。
だからこそ、常盤台を選んだ。
次こそ、結果で示す。
決意を新たに、静かに、力強く踏み出した。
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