128食目 暗闇の中で
黒い幕をくぐった瞬間、文化祭の喧騒が一気に遠のいた。
さっきまで廊下を満たしていた呼び込みの声も、焼きそばの匂いも、軽音の演奏も、厚い布を一枚隔てただけで別世界みたいに薄れていく。足元を照らす赤いライトだけが、迷路のように組まれた段ボールの壁をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「……思ったより、本格的ね」
椿の声が、いつもより少しだけ低い。
「ああ。すごい作り込みだ」
蓮は短く返し、一歩ずつ前へと進み出す。
次の瞬間、制服の裾がわずかに引かれた。
視線を落とすと、椿の指先が制服の裾をそっとつまんでいた。
「……何だ」
「別に。暗いからよ」
「そうか」
蓮はそれだけ返すと、歩幅をほんの少しだけ短くし、そのまま前へ進んだ。
最初の角を曲がった先には、赤いライトに照らされた人形が置かれていた。
長い髪が床まで垂れ、影が壁に揺れる。
「……っ」
小さく息を呑む音。
裾をつまむ指先に少しだけ力が入ったのが分かった。
「ほんとに暗いところが苦手なだけなのか?」
「……別に、ちょっとびっくりしただけよ」
返ってきた声は、少しだけ硬い。
さらに奥へ進むと、今度は天井から吊られた布が、通るたびに肩へ触れた。
床のスピーカーからは低い唸り声のような音が流れ、どこかで金属を引きずるような効果音が鳴っている。
不意に、左側の黒布が揺れた。
「っ……」
椿の手が裾から離れ、今度は蓮の袖口をきゅっと掴む。
蓮はわずかに視線を落とした。
「今度は袖に変わったな」
「……わざわざ言わないで」
「だめだったか?」
「……ほんと、そういうところよ」
暗がりの中でも、椿が少しだけ睨むようにこちらを見ている気配がした。
だが、袖を掴む指先は離れない。
再び角を曲がったところで、今度は床の仕掛けが鳴った。
足元から突然、乾いた音が響く。
「……っ」
椿の身体が小さく跳ね、そのまま距離が一気に詰まった。
袖を掴んでいた手がさらに上へ滑り、蓮の腕へしがみつく。
制服越しに伝わる力が、さっきよりはっきり強い。
蓮は足を止めず、そのまま歩幅を合わせて進んだ。
「こういうの、ダメなんだな」
「……笑わないで」
「笑ってないぞ」
「今、少し口元が上がったのが見えたわ」
「ちょっと笑っていたかもしれない」
「あっさり認めたわね……」
そんなやり取りを交わした、その直後だった。
正面の黒布が大きく揺れ、人影が飛び出した。
「ヴワァ!」
「きゃっ……!」
そのうめき声に、反射的に椿が蓮の腕へさらに強く抱きつく。
蓮はその場で止まり、飛び出してきた人影へ視線を向けた。
「……こんなとこで何してるんだ、若葉」
黒いフードを被った人影が、呆気にとられた声を出した。
「……え、なんでわかるんすか」
蓮がわずかに目を細める。
「体格、飛び出すときのステップワーク、寄せの速さ」
「冷静に分析しないでほしいんすけど!?」
黒いフードを外すと、蓮の言うとおり若葉の顔が出てきた。
「柏原くん!? あなたスポーツ科じゃないの!?」
椿が思わず声を上げる。
若葉は肩を少しだけすくめた。
「友達が普通科なんすよ。脅かし役の手が足りないっていうんで、お手伝いっす」
そこまで言って、若葉の視線が二人へ落ちる。
正確には、椿が抱きついている蓮の腕へ。
「それにしても、お二人さんアチアチっすね〜
……ハッ!?」
若葉が反射的に首をすくめ、きょろきょろと周囲を見回した。
「……さすがにここにはいないっすよね」
「どうした?」
「いや、だいたいこういう時、首根っこ掴まれるんで」
不思議そうに聞く蓮に、若葉がぼやく。
椿はまだ腕を離せずにいたが、若葉の言葉にようやく我に返ったように視線を落とした。
だが、離す前に若葉がひらひらと手を振る。
「じゃ、自分まだ役目あるんで。お幸せにー」
「誰がよ!」
椿の抗議を背に、若葉は黒布の向こうへ消えていった。
再び暗がりと静寂が戻る。
それでも、椿の腕は離れない。
蓮は何も言わず、そのまま前へ進んだ。
迷路の最奥には、最後の脅かし用らしい部屋があった。
床に転がる人形、揺れる赤いライト、天井から垂れた黒布。
そこを抜けた瞬間、背後で突然大きな物音が鳴る。
「っ……!」
椿の腕にさらに力が入る。
肩口に触れる体温が、暗がりの中では妙にはっきり伝わった。
蓮は歩幅を変えず、出口へ向かう。
そのまま、出口の黒い幕が見えるまで。
そのまま、明るい廊下の光が差し込むまで。
椿の腕は離れなかった。
幕を抜けた瞬間、文化祭の音が一気に戻ってくる。
明るい廊下。
さっきまでの暗闇が嘘みたいに光が強い。
「……椿。もう出たぞ」
蓮の声に、椿が一拍遅れて顔を上げた。
それからようやく、自分がまだ腕に抱きついていることに気づいたらしい。
「……っ」
慌てて手を離し、少しだけ視線を逸らす。
「……なによ。苦手だって言ったでしょう」
「まだ何も言ってないぞ。
……おばけとかも、苦手なんだな」
「言ってるじゃない!」
「今言った。だが……」
蓮は椿を見る。
「今日は知らない一面がたくさん見れるな」
その言葉に、椿は小さく息を吐く。
「……本当に、変なところで真っ直ぐなのよね」
普通科フロアを抜ける頃には、文化祭の熱も少しずつ落ち着いていた。
「じゃあ、帰りに買い物したいから、帰るタイミングで連絡するわね」
「ああ。むしろこっちの片付けのほうが時間かかるかもしれない」
「その時は校門で待ってるわよ」
二人は一度分かれ、各々のクラスに戻っていった。
文化祭の喧騒が静まり、片付けを終えた校舎を出る。
夜の空気が肌に触れた。
さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かだ。
二人で並んで歩く帰り道。
しばらく無言が続いたあと、椿が小さく口を開いた。
「……今日は、楽しかったわね」
「ああ」
短い返事。
それだけなのに、今日一日の熱がその一言に全部残っている気がした。
文化祭の灯りは、もう校舎の向こうに遠ざかっている。
けれど、暗がりの中で縮まった距離だけは、まだ二人の間に静かに残っていた。
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