126食目 学校での顔
文化祭当日の校舎は、朝からいつもと空気が違っていた。
廊下の天井には色紙の輪飾りが連なり、各クラスの看板やポスターが壁を埋めるように貼られている。開場前だというのに、教室の前を行き交う足音と呼び込みの声がすでに重なり始めていて、学校全体がどこか浮き足立った熱を帯びていた。
スポーツ科二年A組の展示場も例外ではない。
入口には段ボールで作られた簡易ゴールの装飾。
その奥には昨日まで準備していたスポーツチャレンジのブースが並び、キッキングターゲットを中心に、ピッチングとバスケットの簡易コーナーまで設置されている。
「おーい、天根! ちょっとこっち!」
朝から飛んだ声に、蓮は振り返った。
クラスメイトが的の前で手を振っている。
「子ども連れ結構来そうだから、最初に一回デモやっとこうぜ」
「開場前からか?」
「こういうのは最初の見栄え大事だろ」
「そういうもんか。慣れてるな」
「去年は部活で散々やったからな」
軽口を交わしながら、蓮はボールを足元に止める。
昨日よりも少しだけ広げられた高得点ゾーン。
それでも十分狭い。
「ほら、あそこ。百点の上の二百点」
「……朝からそこ狙わせるのか」
「天根なら入るだろ?」
そう言われ、蓮は視線だけで距離を測る。
踏み込みは最小限。
乾いた音とともにボールが伸び、狭い穴を正確に抜けてネットを揺らした。
「はい、ほらこうなる」
「だめだ!やっぱ参考にならねぇ!」
開場前の教室に笑いが広がる。
そこへ、開場を知らせる放送が校内に響いた。
瞬間、廊下の足音が一気に増える。
文化祭が始まった。
午前中の教室は、予想以上の賑わいだった。
他学年の生徒に保護者、小さな子どもを連れた家族まで次々に入ってくる。
「次、こっち空いてます!」
「ライン越えないようにお願いします!」
呼び込みの声、歓声、ボールがネットを揺らす音。
試合の応援とは違う、柔らかく散った熱が教室いっぱいに満ちていた。
小学生くらいの男の子が、キッキングターゲットの前で少し緊張した顔をしている。
蓮はその横にしゃがみ込んだ。
「そこじゃなくて、もう少し左だ」
「ここ?」
「ああ。そして、蹴る前に穴を見るんだ」
男の子が頷く。
次の一球は見事に中央の穴を抜けた。
「入った!」
弾けるような声に、周囲から拍手が起こる。
蓮も自然に口元を緩めた。
その熱の中で、不意に教室の入口へ視線が向いた。
人の流れの向こうに、椿が立っていた。
スポーツ栄養科の腕章をつけたまま、少しだけ忙しさの残る表情。
それでも、こちらを見つけた瞬間、表情がやわらぐ。
蓮は一瞬だけ視線を止めた。
ただ約束通り来ただけなのに、不思議とその姿だけが人混みの中で浮かび上がる。
「椿」
近づくと、椿は小さく笑った。
「思ったより賑わってるのね」
「ああ。午前中ずっとこんな感じだ」
その声の後ろで、クラスメイトがひそひそと何か言い合っている気配がした。
だが、今はそちらへ意識を向けない。
「見ていくか?」
「ええ。あなたの学校での顔、ちゃんと見てみたかったから」
昨日の食卓で聞いた言葉が、そのまま返ってくる。
蓮は小さく頷いた。
椿は教室の端に立ち、蓮の様子を静かに見ていた。
試合中の蓮は知っている。
食卓での蓮も知っている。
でも、こうして学校の、クラスの中で動く姿を見るのは初めてだった。
「次どうぞ」
「小さい子はこっちのラインからでいい」
言葉は多くない。
それでも必要な場所に自然に立ち、相手に合わせて距離を取っている。
子どもに対しては少し腰を落とし、クラスメイトには短く返し、混雑してくればさりげなく人の流れを整える。
何も特別なことをしているようには見えない。
けれど、その場の空気が自然と蓮を軸に動いている。
椿はその光景に、ほんの少しだけ目を細めた。
家の中でも、ピッチの上でもそうだった。
場所が変わっても、この人は変わらない。
自然に人の中心にいて、気づけば空気を整えている。
それを改めて見せられると、胸の奥に静かな熱が灯る。
「……そういうところ、なのよね」
思わず零れた小さな声は、歓声に紛れて誰にも届かない。
それで良かった。
「お、橘さんじゃん」
不意に横から声が飛んだ。
クラスメイトの男子が、にやりと笑ってこちらを見ている。
「来たんだ」
「ええ。約束してたから」
椿がそう返すと、相手はさらに楽しそうに笑った。
「おーい、天根ー。彼女来てんだから少し休憩して案内してこいよ」
「いや、今混んでるだろ」
「いや、お前いなくても回るわ」
「そうそう。それとこれとは別」
周囲からくすくすと笑いが漏れる。
椿は少しだけ視線を伏せたが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
隠す必要のない距離。
それがこうして言葉になることに、まだ少しだけ慣れないだけだ。
蓮は小さく息を吐き、椿へ視線を向けた。
「どうやら、昼前には抜けられそうだ」
その一言だけで、次の時間が自然に繋がる。
椿は目を上げ、小さく頷いた。
「分かった。待ってるわ」
午後、校内を一緒に回る時間。
その先を思うだけで、文化祭の熱とは別の温度が胸の奥に静かに残った。
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