125食目 文化祭の約束
放課後のグラウンド脇には、昨日決まったばかりの文化祭準備の熱が、そのまま形を持ち始めていた。
体育倉庫の前には段ボールの束と使い古したネット、カラーコーンにガムテープ、どこから引っ張り出してきたのか分からない木材まで雑多に積まれ、二年A組の面々が部活のときとは少し違う手つきでそれぞれの持ち場を受け持っている。
誰かがカッターで段ボールを切れば、別の誰かがその切れ端を拾い、脇では得点表の数字を書き込む声とテープを引きちぎる音が重なり、夕方の空気には秋の乾きが混じり始めているのに、その一角だけは夏休みの延長みたいに騒がしかった。
「おい、それだと穴でかすぎるって。五十点の価値なくなるだろ」
「じゃあお前が切れよ。俺これ以上やると歪む」
「歪んでる時点でもう終わってんだよ」
「いや、むしろ変則的で難易度上がっていいかもしれん」
「雑すぎるだろその発想」
そんなやり取りが飛び交う中、蓮は倉庫の壁際に置かれた完成途中の的枠を眺めていた。正面に三つ、上段に一つ。真ん中は無難な大きさで、左右は少し小さい。上段の一つだけ、明らかに大きさが違う。段ボールを丸く切り抜いたというより、誰かが意地で削ったような穴だった。
「これ、上のやつだけ小さすぎないか?」
蓮の言葉に、近くで支柱を押さえていた男子が顔を上げる。
「だよな? 俺も言ったんだよ。でも高得点ゾーン欲しいって」
「高得点作るのはいいけど、入る前提の大きさにしろよ」
「そこはほら、うちのクラスだし」
「基準が雑だな」
そう返しながらも、蓮は枠の角度と穴の位置を視線でなぞった。
距離を十数メートル、助走は二、三歩。コースを限定すれば入らなくはないが、文化祭の来場者を相手にするなら難しすぎる。とはいえ、簡単すぎてもつまらないという言い分も分からなくはない。スポーツ科の出し物としてやるなら、適度に「おっ」と思わせる設定がいる。
そこへ、後ろから委員長の声が飛んだ。
「おーい、枠できたなら一回立てるぞ。そっち持ってくれ」
四人がかりで的枠を持ち上げ、仮置きしたネットの前に立てる。支柱の位置を合わせ、コーンで蹴り出し位置の目安を作ると、一気にそれらしい見た目になった。体育祭の準備でも試合前でもないのに、ボールが一つ置かれただけで空気が変わるのが、このクラスらしかった。
「じゃあ試しに蹴ってみようぜ」
「まず普通の的からな。いきなり上はやめろよ」
「外したやつ、的作り直しな」
「何その理不尽ルール」
最初に蹴ったのはサッカー部ではない男子で、助走だけは大きかったが、ボールは勢いよく真ん中へ飛んでいって、無難に百点の穴を抜けた。
「おー、いけるじゃん」
「真ん中は余裕だな」
「じゃあ右は?」
二人目が少し小さい右の穴を狙う。ボールは枠の縁をかすめて跳ね、ネットに当たって落ちた。
「あー、今の惜しい!」
「でもまあ、このくらいなら何回かやれば入るか」
「問題は上だろ、上」
視線が自然と一番小さい高得点ゾーンへ集まる。そこだけ妙に静かになったのが可笑しくて、誰かが吹き出した。
「これ、マジで誰用なんだよ」
「高得点ってそういうもんだろ」
「いや、限度があるだろ」
議論がぐずつき始めたところで、委員長が完成したばかりの的を改めて見上げ、額を押さえながら声を張り上げた。
「誰だこんな難易度の的を用意したやつ!? 誰が成功できるんだよ!」
その一声で、周囲の作業の手がぴたりと止まった。
段ボールを押さえていた手も、得点板にマジックを走らせていた手も、テープを引いていた手も、ほぼ同時に止まり、全員の視線が的と委員長の間を行き来する。
「でも、うちのクラスのやつでも多少苦戦するレベルにしなきゃだろ?」
木材を運んでいた男子が、悪びれずに言う。
「そうそう。簡単すぎたら一発で終わるし、文化祭って暇な時間できると一気に空気死ぬぞ」
「いや、だからってこれは振り切りすぎだろ」
委員長は一拍置いて、嫌な予感を押し殺すみたいに低い声を出した。
「……誰を基準にした」
その場にいた全員が、ほとんど示し合わせたように同じ方向を指差した。
体育倉庫の壁際に立ち、足元のボールを軽くつま先で転がしていた蓮だった。
「これでも天根が難なく当てるもんだからよ。もっと難易度上げるにはどうしようかって悩んでたんだ」
「お前らバカなんか!? 一番基準にしちゃダメなやつだろ!?」
爆発みたいなツッコミに、辺りがどっと沸く。笑いながら「それはそう」と頷くやつもいれば、「でも当てる方が悪い」と責任を押し付けるやつもいて、準備の空気はますます雑に熱を帯びていった。
蓮は壁から背を離し、足元で止めていたボールを軽く持ち上げる。
「当てろと言われたからな」
「ほら見ろ!だからこいつを基準にすんなって言ってんだよ!」
「基準値バグってんの本人だけなんだよなぁ」
「当てろって言ったらほんとに当てるんだもんなぁ」
重なるツッコミに、蓮は小さく肩をすくめた。
「難易度、下げるぞ。今すぐ。上の穴は少し広げる」
「でも、それだと天根には簡単すぎるんじゃ」
「天根用に文化祭やるわけじゃねぇんだよ!」
その言い分はもっともで、周囲からまた笑いが漏れる。
蓮はボールを集めながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
試合や練習ではない、勝っても負けても何も決まらない時間。
それでも、全員が同じものを作る方向へ自然に集まっていて、そこに自分の技術が少しだけ混ざる。それはピッチの上とは違う熱量だったが、嫌いではなかった。
夏の終わりから秋へ移ろう空気の中で、学校行事という曖昧な高揚だけが、体育館に柔らかく残っている。
「今日はこのくらいでいいか。あとは明日、装飾と得点板の清書だな」
委員長の言葉で、ようやく片付けが始まる。
ネットを畳み、段ボールの端材をまとめ、転がっていたボールを回収する。騒がしさはそのままだったが、さっきまでの熱が少し落ち着いて、代わりに文化祭本番へ向かう実感だけが残った。
「なあ、当日も天根はデモやれよ」
「暇ならな」
「なんだ暇ならって。
その日くらい部活ないだろ」
「文化祭の日に朝練したがる顧問がいるかもしれないぞ」
「それは嫌だな」
そんな軽口を交わしながら校舎へ戻る。部活帰りとは違う汗の匂いと、夕方の冷え始めた空気が混ざり、窓ガラスには薄く赤い光が残っていた。
家に戻ると、キッチンにはいつもの湯気が立ち上っていた。
出汁の匂いと野菜を炒める音、換気扇の低い駆動音が、さっきまでのグラウンド脇の騒がしさを少しずつ身体の外へ押し出していく。蓮が洗面所で手を洗ってリビングへ入ると、エプロン姿の椿が振り返った。
「おかえり。今日は遅かったわね」
「ああ。文化祭準備が長引いた」
「もう大詰めだものね」
「ああ。思ったよりちゃんと揉めた」
その言い方に、椿が小さく笑う。
「何、それ。楽しそうじゃない」
「楽しくはあった」
食卓に皿が並び、二人が向かい合って座る。焼いた鶏肉の香ばしさに根菜の煮物、味噌汁の湯気。見慣れたはずの夕食なのに、文化祭の話題が乗るだけで少しだけ空気の輪郭が変わる。
「それで、何になったの?」
「スポーツのミニゲーム。いろんな競技のが遊べるようにしてる」
「ふふ、スポーツ科らしいわね」
「そっちは?」
「うちは今年、展示だけじゃなくて相談ブースも入れることになったわ。去年はパネル中心だったけど、今年は見に来た人に合わせて、競技別の補食とか、試合前後の食事の考え方とか、簡単に答えられるようにするの」
椿はそう言いながら小鉢を差し出し、ついでみたいに言葉を続ける。
「パネルだけだと、どうしても読む側の熱量に任せるしかないでしょう。せっかくなら、こっちから少しでも返せる形の方がいいって話になって」
「なるほど、椿たちらしいな」
「何が?」
「見せて終わりじゃなくて、相手に合わせるところ」
椿の手が一瞬止まる。それから、何でもないふうに味噌汁の椀へ視線を落とした。
「……そういう科だもの」
「そうだな」
短い返事のあと、しばらくは食器の触れ合う音だけが続いた。
家の中の沈黙は気まずさとは違う。
その静けさの中で、椿が箸を置く小さな音だけが、少しだけはっきり響いていた。
「ねえ」
「ん?」
蓮が顔を上げると、椿は湯気の向こうから少しだけ視線をずらして言った。
「文化祭……一緒に回らない?」
言い終えたあと、椿はすぐには続きを足さなかった。
けれど、その沈黙の中に何を期待しているのかは分かる。
去年はそれぞれの出し物とクラスの仕事で手いっぱいで、落ち着いて校内を回る余裕なんてほとんどなかった。今年は違う。恋人になったから急に何かを変えるわけではないが、同じ学校の同じ文化祭を、ただ別々に終えるのではなく、一緒に見たいと思うくらいには、二人の距離はすでに変わっている。
「ああ。いいな、それ」
蓮がそう返すと、椿は目に見えて表情を緩めた。
「……本当?」
「ああ。また椿のとこも見に行くか」
「じゃあ、今年は私もあなたのクラス行くわ」
「ああ。案内するよ。
何時ごろなら動けそうなんだ?」
「午前中は相談ブースの当番があるの。午後なら少し空くと思う」
「了解。俺も最初はクラスの方にいるから、昼過ぎなら多分抜けられる」
「じゃあ、そのくらいに合わせましょうか」
「ああ」
それで話は終わるはずだったのに、椿は椀に触れたまま、ほんの少しだけためらってから付け足した。
「去年は、ほとんど自分の科の方しか見られなかったから」
「そうだな」
「今年は……あなたの学校での顔も、ちゃんと見てみたいの」
その言葉に、蓮は首を傾げた。
「別に、普段と変わらないぞ?」
「そうかもしれないけど、それを私が見るのは別でしょう」
「……そうか?」
釈然としない様子で蓮が頷くと、椿は満足したみたいに再び箸を持ち上げた。
少しあたたかくなった空気を引き継ぐような声音で続ける。
「あなたのクラス、装飾はどうするの?」
「あー。入口をゴールっぽくするらしい」
「分かりやすいわね」
「分かりやすい方がいいだろ、文化祭は」
「そうね。うちも相談ブースって言っても、堅くなりすぎないようにしないと。
……そのあたりは陽菜が担当しているし、大丈夫だと思うけど」
「佐伯か。たしかに得意そうだ」
「ええ。陽菜だもの」
そんな他愛ない会話が、食卓を包んでいく。
窓の外では、夏の名残を引きずっていた風が少しだけ軽くなり、夜の匂いに秋が混じり始めている。
学校の中でも家の中でも、季節はゆっくり形を変えながら、二人の先に小さな約束を置いていく。
文化祭まで、あと少しだった。
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