123食目 隣に立つため
夕食の食卓には、いつもの湯気が静かに立ち上っていた。
夏の終わりを思わせる少しだけ落ち着いた献立。
窓の外では、昼間の熱を残した風が網戸をかすかに揺らしていた。
調理を終えた椿が、蓮の向かいに座りながら、思い出したように口を開く。
「そういえば、今日部活の前ちょっと集まってたみたいだけど、今度はどうしたの?」
「ああ、あれな。3年生の何人かが引退した。受験準備だって」
「そう……もうそんな時期なのね。
確かに、去年も今ぐらいの時期だったわね」
「ああ。桐生さんとか、他のメンバーは残るみたいだ
桐生さん、Jの内定もらってたみたいだ」
「あら、そうなの?また進む先で会えるんじゃない?」
「ああ、でもな……
ひとまずは国が違うからな」
「……そうね。蓮くん、ドイツだったわね」
「あー、そうだ。今日、桐生さんの話聞いて思ったんだけど」
椿が味噌汁の椀を持ち上げたまま顔を上げる。
「……何?」
「椿はどうするんだ?進路」
蓮からの問いに、箸先がほんのわずかに止まる。
その問いは、今日までずっと見ないようにしていたものを、まっすぐ言葉にされた気がした。
「……そうね」
一拍だけ置いて、椿は小さく息を吐く。
「そろそろ、考え出さないとね」
あまり感情を乗せないように返したつもりだった。
けれど、自分でも少しだけ声が遠く聞こえる。
蓮は短く頷く。
「椿なら、どこでもやっていけるだろ」
その言い方は、慰めでも励ましでもない。
ただ事実をそのまま口にしたような、蓮らしい声だった。
「……簡単に言うわね」
少しだけ苦笑して返すと、蓮は首を傾げる。
「事実だろ」
そのまっすぐさに、思わず視線を落とした。
食卓に並ぶ湯気。
白米の温度。
向かいにいる蓮。
何気ないこの日常の中で、未来という言葉だけが少しだけ輪郭を持ち始めていた。
夕食を終え、蓮が食器を片付けている間。
椿はいつもどおり机に向かいながら、窓の外へ視線を流した。
夜の風が、昼よりも少しだけ涼しい。
進路。
その言葉を改めて胸の中で転がす。
蓮くんの未来は、もう決まっている。
ドイツのクラブ。
世界で戦う舞台。
プロとして進んでいく道。
その輪郭は、もう誰の目にも明確だった。
なら、自分は?
椿はゆっくりと目を閉じる。
頭の中に浮かぶのは、これまで積み重ねてきた日々だった。
試合前の栄養設計。
疲労回復の食事管理。
増量期と絞りの調整。
試合中の補食。
回復速度の観察。
ただ食事を作るだけではない。
選手の未来そのものを支える。
それが自分のやりたいことだと、もうずっと前から決まっていた。
日本だけではない。
もっと広い場所で。
もっと高いレベルで。
世界で戦う選手の隣で、専属として支え続ける。
国際的な舞台で活躍する、専属管理栄養士。
それが、自分の夢だ。
そこまで考えて、椿の胸の奥が小さく揺れる。
……けれど。
その未来を思い描いた時、最初に浮かんだのは資格でも大学名でもなかった。
蓮くんの隣。
その景色だった。
ドイツのピッチ。
海外のクラブハウス。
そして、日本と違う街並み。
そのどこかに、自分がいる未来を無意識に描いていた。
思わず、唇を結ぶ。
(……違う)
小さく、自分に言い聞かせる。
蓮くんの隣にいたい。
その気持ちは確かにある。
けれど、それは未来を選ぶ理由にならない。
私は、私の夢を選ぶ。
ただ、彼の隣りにいるのではなく。
彼の隣に並んでも恥ずかしくない、自分自身になるために。
世界で戦う選手を支える管理栄養士になる。
――その夢の先に、もし蓮くんの隣という未来があるのなら。
それはきっと、夢を選んだ先で自然に辿り着く場所だ。
椿はゆっくりと息を吐いた。
胸の奥の揺れは、まだ完全には消えていない。
ふいに、片付けをしている蓮に目が向けると、目線が合った。
椿の悩みを見透かすようなその視線に、思わず息を呑む。
「どうした?椿
溜め息なんか吐いて」
「蓮くん」
椿は、まっすぐ蓮を見つめる。
その視線に、蓮は洗い物の手を止めた。
なにか、決意に満ちた目をしていたから。
「何だ?」
「さっきの話だけど……」
食卓での会話を思い出す。
「さっきの?進路の話か?」
「ええ。ごめんなさい、私は、私の道を行くわ。
まだ、具体的な大学を決めたわけじゃないけど……」
「……?そりゃそうだろ?
管理栄養士になるって言ってただろ」
何事もないように言い切る声。
その揺れのなさが、かえって胸に小さく刺さった。
自分だけが、彼との未来に揺れているような気がして。
だが、そんな椿の不安は蓮の一言で吹き飛ぶ。
「椿の成績なら、大学なんてあっという間だろ」
「……え?」
「4年くらい、すぐ過ぎる」
4年くらい。
その言葉が胸が沈む。
彼は、自分との未来を疑っていない。
進む道が再び交わると、本気で思っている目だった。
でも――
「4年で、足りるかしら」
そんな小さな呟きが口からこぼれ、首を振る。
そんな未来、自分だって望んでいない。
どうにかして、たどり着いてみせる。
だが、数年後の彼はもっと高いところにいる。
自分だけが、感情に左右されていては、彼を支えることはできない。
この感情はノイズじゃない。だが、甘えることが許されるわけでもない。
進む先は明確だ。その先がどこに繋がっていようと、立ち止まるわけにはいかない。
他ならぬ蓮を、支え続けるためにも。
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