122食目 見えだした終着
夏の熱をまだ残したグラウンドに、乾いた笛の音が鋭く響いた。
午後の陽射しを受けた人工芝がじりじりと熱を返し、アップで走るスパイクの音が一定のリズムで重なっていく。夏休み明け最初の本格練習。全国優勝の余韻を纏ったまま、それでも常盤台の空気はもう次へ向かい始めていた。
「オフ明けだからって緩むなよー!」
桐生の声が、いつものように前から飛ぶ。
「はいっす!」
若葉が勢いよく返事をしながら、横を走る蓮へちらりと視線を向けた。
「……なんか、やっぱ空気違うっすね」
「そうだな」
蓮は呼吸を乱さずに返す。
「三年の先輩たち……なんか今日、ちょっと」
言われて視線を3年生へ流す。
確かに、いつものオフ明けとは少し違う。
桐生たち三年の数人はいる。
だが、いつもA組の中心でアップを引っ張っていた何人かの姿が見えない。
練習前の輪も、どこか人数が薄い。
蓮が短く目を細めた、その時だった。
監督の笛がもう一度鳴る。
「全員、集合」
ざわついていたグラウンドの空気が一気に締まる。
部員たちが中央へ集まり、半円を描くように並んだ。
監督は一度全体を見渡してから、いつもより少しだけ低い声で口を開いた。
「三年生について、一つ伝える」
その一言で、空気の温度がわずかに変わった。
「今日から、一部の三年生は進学準備のため練習参加を終了する」
ざわ、と小さなざわめきが走る。
若葉が隣で目を丸くした。
「……え」
監督は続ける。
「推薦、一般受験、指定校。それぞれ進路に向けて本格的に動く時期だ。全国優勝という一区切りを迎えた今、このタイミングで部を離れる者もいる」
その言葉に、蓮は自然と視線を三年生の列へ向けた。
確かに、いない顔がある。
インターハイでベンチを支えた先輩。
練習試合で声を出し続けていた先輩。
夏までチームを支えてきた背中が、少しずつ次の場所へ移っていく。
夏が終わったのだと、改めて実感する。
「ただし」
監督の声が続く。
「全員が全員いなくなるわけではない。
選手権に向けては、残った3年生と共に、夏の全国優勝校として、もう一度頂点を獲りにいく」
空気が張る。
その言葉に、桐生が前で小さく息を吐いた。
「……はい」
短く、しかし強い返答。
若葉がその横顔を見ながら小声で呟く。
「そりゃそうっすよね……桐生センパイたちは残るっすよね」
全体ミーティングが終わり、再びポジションごとに分かれて準備が始まる。
若葉はスパイクの紐を結び直しながら、ちらりと桐生の方を見た。
「桐生センパイ」
「ん?」
「進路って、どうするんすか」
その問いに、近くにいた数人の二年も自然と耳を向けた。
空気が少しだけ静かになる。
桐生はボールを足元で軽く止め、何でもないことのように答えた。
「もう決まってるぞ?」
「……え?」
若葉が目を丸くする。
「国内クラブから話もらってな。オフ中に返事したぜ」
一瞬、言葉が止まった。
「まじっすか」
「おうよ」
あまりにも淡々とした返答。
けれど、その一言の重さは二年生たちには十分すぎるほど伝わった。
インターハイ優勝。
全国で結果を残した主将。
当然と言えば当然なのかもしれない。
それでも、こうして現実の言葉として聞くと意味が違う。
「……すげぇ」
若葉が素直に漏らす。
桐生は苦笑するように肩をすくめた。
「お前らもすぐだぞ。二年の秋なんて、あっという間だからな」
その言葉が、蓮の胸の奥に静かに落ちる。
あっという間。
確かにそうだ。
自分はもう、次の場所が決まっている。
ドイツのクラブ。
戻る場所。
進む場所。
だが、チーム全体の空気はそうではない。
ここから選手権があり、その先に三年の冬がある。
進路という言葉が、これまでよりも少しだけ輪郭を持って見えた。
「だいたいよ、柏原。隣見てみろよ」
そう言われて、若葉は隣を見る。
「あ、そっか。蓮さんはもう決まってるんすよね」
若葉が視線を向けてくる。
「まあな」
短く答える。
「さすがっすね。ドイツっすかー」
若葉が素直に感嘆を漏らした。
「なんか、急に現実味が増してきたっす」
その言葉に、蓮は少しだけ前を見た。
グラウンドの向こうでは、三年の数人が監督へ最後の挨拶をしていた。
頭を下げる背中。
見送る監督。
その脇で、残る者たちが次のメニューへ移っていく。
終わるものと、続くもの。
その境界線が、今日のグラウンドにははっきり存在していた。
「よーし、紅白戦いくぞ!」
桐生の声で空気が切り替わる。
ボールが再び転がり始める。
蓮は中盤の中央へ立ち、視線を広く取った。
若葉が一列後ろへ入る。
「お願いします、蓮さん」
「ああ」
ボールが入った瞬間、感覚は一気に競技へ戻る。
右サイドの空き。
相手ボランチの重心。
桐生の一歩目。
すべてが見える。
足元へ入ったボールをワンタッチで捌き、若葉へ落とす。
「前、見ろ」
「はいっす!」
若葉が顔を上げる。
次の瞬間、縦へ通したパスに桐生が抜け出した。
乾いた音が響き、ゴールネットが揺れる。
「柏原!良いパスだったぞ!!」
桐生の声が飛ぶ。
その光景を見ながら、蓮は小さく息を吐いた。
先輩たちは、進んでいく。
自分たちもまた、その背中を追う。
夏の終わりから秋へ。
日常の甘さの隣で、競技の時間も確かに前へ進み始めていた。
練習終わり、夕方の風が少しだけ涼しくなった頃。
グラウンド脇に立つ椿の姿が目に入る。
補食用のボトルケースを抱え、こちらを見ている。
その向こうに沈みかけた夏の光が差していた。
蓮は一瞬だけその姿を見て、静かに思う。
日常も、競技も、未来も。
全部が少しずつ、次の季節へ向かっていた。
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