119食目 求めるのは
オフ明け最初のグラウンドには、夏の熱がそのまま残っていた。
人工芝の上でボールが乾いた音を立てて転がる。
全国優勝から数日。
短い休養を挟んだ常盤台の空気は、どこか軽い高揚を帯びていた。
「よっしゃ、オフ明け一本目いくぞ!」
桐生の声がグラウンドに響く。
その横で若葉がストレッチをしながら、ちらりと蓮を見上げた。
「蓮さん、やっぱりこの前からちょっと柔らかくなったっすか?」
「何がだ」
「いや、空気っすよ」
若葉がにやりと笑う。
「夏祭りとかプールとか、最近ずっと橘センパイとイベント続きじゃないっすか」
蓮はペットボトルの水を一口飲んで、淡々と返した。
「別にいつも通りだろ」
「またまたぁ」
若葉が露骨に楽しそうな顔をする。
「優勝した後だし、打ち上げとかしたんすか?」
「打ち上げ?」
「ほら、橘センパイ料理上手じゃないっすか。豪華なピザとか、そういうお祝いっぽいやつ作るの得意そうじゃないっすか」
一瞬だけ、蓮の視線が止まる。
優勝した夜の食卓を思い出す。
焼き魚。
味噌汁。
炊き立ての白米。
何一つ特別ではない、いつもの献立。
「……いや?」
蓮は短く答えた。
「いつも通りの食事だったけど」
「うへぇ」
若葉がわざとらしく肩を落とす。
「相変わらずストイックっすねぇ。普通そういう時ってもっとこう、お祝いっぽいもの食べたくならないんすか? チキンとか、ピザとか」
その言葉に、蓮は少しだけ考えるように黙った。
お祝いらしい食事。
豪華な料理。
確かに、そういう選択肢もあったのかもしれない。
けれど頭に浮かぶのは、あの夜の湯気だった。
味噌汁の温度。
椿の声。
向かい合う食卓。
数秒の沈黙のあと、蓮は何でもないことのように口を開く。
「……いや、別に」
若葉が首を傾げる。
蓮は足元のボールを軽く転がしながら、視線を前に向けたまま続けた。
「椿の飯が食えれば、それでいい」
「――え」
そういった瞬間、すぐ後ろから小さく息を呑む音がした。
蓮が振り向くと、そこには、補食用のボトルケースを抱えた椿が立っていた。
足が止まっている。
視線も、表情も、完全に固まっていた。
どうやら最後の一言だけが、ちょうど聞こえたらしい。
若葉の目が一気に輝く。
完全に面白がっている顔だった。
「……椿?」
蓮がいつも通りの声で呼ぶ。
だが椿はすぐに返事ができない。
胸の奥が、一瞬で熱くなった。
特別な料理じゃなくていい。
お祝いの豪華さじゃなくていい。
ただ、自分の作った食事でいい。
その言葉が、思っていた以上に深く刺さる。
「……そう」
ようやく絞り出した声は、少しだけ上ずっていた。
「なら、今日もいつも通りでいいわね」
平静を装ってそう返す。
けれど耳の先は、はっきり赤い。
若葉がそれを見逃すはずもない。
「うわー……」
小さく吹き出しながら、蓮の肩を小突く。
「蓮さん、相変わらずっすねぇ……」
「何がだ?」
「べっつにー……」
若葉が笑いを堪えきれない。
「……柏原ァ」
そんな若葉に、桐生の低い声が飛ぶ。
その一言で若葉はぴたりと口を閉じた。
「休み明けで元気が有り余ってるようだなぁ……
どうだ? 常盤台伝統の縦ダッシュってのがあってだな……」
「すみませんっした!」
即座の謝罪に、周囲から笑いが起きる。
その笑いの中で、蓮の口元にも小さく笑みが浮かんだ。
ふと、椿の方を見る。
さっきまで固まっていた表情が、少しだけ和らいでいた。
その頬に残る熱だけが、夏の空気の中でもやけに鮮明だった。
蓮は足元のボールを軽く浮かせ、ピッチ脇のボール溜まりへ放った。
そのままアップが始まる。
グラウンドを軽く回りながら、若葉がまだにやにやと笑っていた。
「いやー、さっきのは破壊力やばかったっす」
「何がだ」
「何がって、橘センパイの飯が食えればいいってやつっすよ」
横を走る桐生が苦笑する。
「お前、まだ引っ張るのか」
「だって面白かったじゃないっすか」
若葉は前を向いたまま声を潜める。
「橘センパイ、耳真っ赤だったっすよ」
その言葉に、蓮はほんの一瞬だけ視線をピッチ脇へ向けた。
補食の準備をしている椿の横顔が見える。
さっきよりも落ち着いてはいる。
けれど、耳の先に残る赤みだけはまだ消えていない。
「……そうかもな」
短い返答。
だが、その声はどこか少しだけ柔らかかった。
若葉が思わず目を丸くする。
「蓮さん、やっぱり変わったすね」
「柏原、そろそろアップに集中しろよ」
桐生の声が飛ぶ。
「はいっす!すいません!」
返事をしながらも、若葉の口元の笑みは消えない。
その様子を、少し離れた位置から見ていた他の部員たちもどこか空気の違いを感じ取っていた。
「確かに、なんか天根、ここ最近機嫌いいよな」
「わかる」
「全国優勝したからってだけじゃないよな」
そんな囁きが、ウォームアップの列の中で小さく広がる。
蓮自身にはその自覚はない。
けれど足取りは軽かった。
呼吸も、視界も、妙に澄んでいる。
胸の奥に残る温度が、そのまま身体の奥に残っているようだった。
ピッチ脇を通り過ぎる瞬間、椿と目が合う。
ほんの一瞬。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
椿が小さく視線を逸らし、また補食の準備へ戻る。
その仕草に、蓮の口元がわずかに緩んだ。
「……ほんと分かりやすいっすね」
横から若葉の声。
「何がだ」
「なんでもないっすー」
また笑いが起きる。
夏の熱気が残るグラウンドの中で、今日だけは空気の温度が少し違っていた。
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