118食目 花火に照らされて
夏祭りの前日、夜の空気は昼間の熱をまだわずかに残していた。
夕食を終え、いつものように今日の食事をノートにまとめた後、椿は玄関先でふと足を止めた。ドアノブに手をかけたまま、背中越しに呼びかける。
「……蓮くん」
「ん?」
リビングから顔を上げた蓮の視線が向く。
言葉は決まっていたはずなのに、いざ口にしようとすると少しだけ喉が詰まる。
「明日なんだけど」
「夏祭りか?」
「うん……その」
椿は視線を逸らし、玄関のたたきを見つめた。
「待ち合わせ、したい」
部屋の空気がほんの少しだけ静かになる。
蓮が瞬きをひとつした。
「……駅前で?」
「う、うん」
椿の声が少しだけ小さくなる。
「せっかくだし……ちゃんと」
二人で行くことを、日常の延長ではなく、一つの約束として形にしたかった。
その意図を蓮がどこまで汲み取ったかは分からない。
けれど、次に返ってきた声はいつも通り穏やかだった。
「分かった。じゃあ、明日十八時に駅前で」
「……うん」
それだけで胸の奥が少しだけ熱くなる。
玄関の扉を開ける前、椿は小さく息を吐いた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
いつもと変わらない言葉なのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
翌日。
玄関の鍵が空く音が聞こえ、蓮は怪訝な顔を浮かべる。
案の定、椿は部屋へと入ってきた。
まだいつものパーカー姿だった。
「椿?今日は待ち合わせするんじゃ……」
「ええ。その前に、これ」
椿が小さなボトルを差し出した。
「……え?」
透明なボトルの中には、なんとも言えない色合いのスムージーが入っている。
薄い緑に、少しだけ茶色が混じったような色。
「飲んで」
「……何だ、これ?」
「脂質の吸収を抑えるのと、血糖値の急上昇を防ぐ用。屋台って揚げ物多いから」
あまりにも当然のように言われて、蓮は思わず笑いそうになる。
「……味は?」
椿が一瞬だけ視線を逸らした。
「そこは、あんまり期待しないで」
「味度外視なのか」
「必要な成分は入ってるわ」
いかにもらしい返答に、蓮は小さく笑ってボトルを受け取った。
どうやらいつものパーカーの姿は、管理士モードのようだった。
一口飲む。
「……っ」
眉がぴくりと動く。
「苦……」
「でしょうね」
「分かってて飲ませたのか……」
「屋台を楽しむためよ」
その言い方が妙に真面目で、蓮はもう一度笑ってしまう。
「ほんと、そういうところだぞ」
苦味の残る喉をさすりながら、それでも胸の奥はどこか温かかった。
蓮が飲み切るのを見届けて、椿は玄関に向かう。
「じゃあ、これから準備して出るから……
また、あとでね」
「ああ、あとで」
そう言って、椿は家を出た。
約束の時間より少し早く駅前に着くと、蓮はすでにそこにいた。
人通りの多い夕方の駅前でも、その姿はすぐに見つかる。
「……待った?」
「いや、今来たところ」
椿が少しだけ安堵したように息を吐いた。
いかにもな会話に、自然と鼓動が早くなる。
「じゃあ、行きましょ」
早まる鼓動を誤魔化すように、椿は先を歩き出した。
祭りの会場へ近づくにつれて、人の流れは一気に増えていく。
屋台の灯り。
聞こえてくる祭囃子。
焼きそばのソースの匂い。
夏の夜が一気に色づいていく。
「何食べる?」
蓮が屋台の並ぶ通りを見ながら聞く。
「……せっかくなら、いろいろ食べたい」
「なら少しずつ買うか」
最初に買ったのはたこ焼きだった。
熱々のそれを受け取って、椿が小さく息を吹きかける。
「……熱っ」
「気をつけろよ」
蓮が自然に紙舟を支える。
指先が少しだけ触れた。
その後も焼きそば、じゃがバター、りんご飴と、少しずつ屋台を回っていく。
普段なら脂質や糖質のバランスを真っ先に考える椿も、今日はそれを脇へ置いていた。
隣を歩く、蓮の顔を見上げる。
こうして年相応の表情を浮かべる蓮を見るのは初めてだった。
ドイツへ渡って以降、こういう場所に来ることはほとんどなかったはずだ。
それなのに今は、射的の屋台の前で、少しだけ真剣な顔をしている。
「……やるの?」
「ああ」
銃を受け取った蓮が景品棚を見据える。
「狙うなら、あれだな」
視線の先には、小さなサッカーボール型のキーホルダー。
「ほんと、好きね」
「まぁな」
その返答が妙に可笑しくて、椿は小さく笑う。
最初の一発は外れた。
「……あれ」
珍しく少しだけ悔しそうな表情。
その顔が、ひどく愛おしかった。
「蓮くんでも外すんだ。あんなにパスは正確なのに」
「……これは足を使う競技じゃない」
「言い訳?」
「違う」
二発目。
今度はしっかり景品を弾き落とした。
周囲から小さなどよめきが起きる。
「すご……」
椿が目を見開くと、蓮は何でもないようにそのキーホルダーを差し出した。
「椿に」
「……え?」
「記念」
あまりにも自然に渡されて、椿の鼓動がまた少しだけ跳ねる。
祭りの通りを歩きながら、椿はいつの間にか蓮のすぐ隣に寄っていた。
肩が触れそうな距離。
さっきまで意識していたわけではない。
けれど、楽しそうに屋台を見て回る蓮の横顔を見ていると、自然と距離が縮まっていた。
夜空に最初の花火が上がるというアナウンスが流れる頃には、人の流れは一気に増えていた。
「人、多いな」
蓮が周囲を見回す。
次の瞬間、自然に手が伸びてきた。
指先が、椿の手を包む。
「……っ」
「はぐれると面倒だからな」
理由はとにかく合理的だった。
それでも、胸の奥が熱を持つ。
「……うん」
椿は小さく頷いた。
人混みのざわめきの中で、二人だけが少し遅れて歩く。
触れた指先の温度だけが、やけに鮮明だった。
そのまま人波を抜けようとした、その時。
「あれ……橘さん?」
聞き覚えのある声。
二人が同時に振り向く。
そこには常盤台のスポーツ栄養科の二年生が数人立っていた。
視線が、繋がれた手へ落ちる。
「……え、天根くんと?」
空気が止まる。
椿の耳まで一気に熱くなる。
だが蓮は、手を離さなかった。
「知り合いか?」
「え、ええ。クラスメイト……」
「ふーん。そうか」
そう言うと、蓮はクラスメイトたちに向き合う。
「スポーツ科の天根だ。いつも椿が世話になってる」
「ちょっ……」
あまりにも自然な挨拶。
その一言に、クラスメイトたちの表情が一気に意味深なものへ変わる。
「ふーん。なるほどね
……橘さん、また学校で、ね?」
どこか察したように笑って、そのまま人混みへ消えていく。
椿はもう何も言えなかった。
次第に、屋台のあたりから人が捌けていった。
蓮たちも、花火が見える場所へと移動する。
夜空に大きな音が響き、花火が開いた。
赤、青、金。
次々と夜を彩る光。
周囲から歓声が上がる。
それでも椿の視線は、花火ではなく隣の横顔へ向いていた。
夜空を見上げる蓮の横顔。
光が一瞬ごとにその輪郭を照らし出す。
手はまだ繋がれたまま。
その温度が、何よりも鮮明だった。
花火の音よりも、自分の鼓動の方が大きく聞こえる。
夏の夜空の下で、椿はただ静かに思っていた。
――来年も、また。
この隣にいたいと。
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