117食目 夏祭りの約束
夏休みのオフから数日。
椿は洗い物をしている蓮に話しかけた。
「そういえば、明日の夜ご飯なんだけど」
「うん?」
蓮は、手を動かしながら顔を上げる。
「陽菜も一緒に食べるかも知れないわ。日中、私の家で宿題するから」
「別にいいぞ。なんなら勉強も俺の家でやるか?
そのほうが都合いいし」
「え?」
洗い物を終えた蓮が、椿の正面に座る。
手には先日買ったマグカップを持っている。
「はい、これ。食後のお茶」
「あ、ありがと。
……ってそうじゃなくて、どういうこと?」
「ん?ああ、宿題のことか?」
「そうよ、蓮くんに家でやれば都合がいいって……
あ、まさか」
椿の表情が変わる。
蓮がほんの少しだけ視線を逸らした。
「……またなの?」
その一言で、蓮の肩がわずかに固まる。
「あれだけ計画的にやりなさいって、いつも言ってるでしょ」
「……すまん」
低く落ちた謝罪に、椿が額へ手を当てた。
「夏休み入って何日経ったと思ってるのよ」
「優勝の余韻とオフで、少し」
「少し?」
椿の声が一段下がる。
蓮は素直に口を閉じた。
その様子に、怒るというより呆れた息が漏れる。
「……分かったわ。じゃあ陽菜にも連絡して、明日はこっちでやりましょう」
「助かる」
「本当にそう思ってるなら、明日ちゃんとやること」
「わかった」
あまりにも素直に頷くから、椿はそれ以上強く言えなくなる。
窓の外では、夏の夜が静かに深まっていた。
翌日の昼過ぎ。玄関のチャイムが鳴る。
「はーい」
椿が扉を開けると、そこには案の定という顔をした陽菜が立っていた。
「お邪魔しまーす」
片手に宿題のプリント束。
もう片方にはコンビニの飲み物。
「で?」
部屋へ入るなり、陽菜の口元がにやりと上がる。
「なんで天根くんの家なの?」
「……蓮くんも宿題が終わってなかったから」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、陽菜が腹を抱えて笑い出した。
「あははっ、なにそれ!全国優勝した天才なのに、夏休みの宿題終わってないの?」
「笑いすぎよ」
「だって面白いじゃん!」
その声に反応して、リビングから蓮が顔を出した。
「来たか」
あまりにも普通の声色に、陽菜の笑いがさらに深まる。
「あ、天根くん。やっほー。
椿、ごめんねー?二人っきりが良かったよねぇ?」
「なっ、別に、蓮くんとはずっと二人きりじゃなくても」
言い切った瞬間、椿の動きが止まる。
陽菜の目が細くなった。
「……私、別に天根くんと、なんて言ってないけど?」
「っ……!」
耳まで一気に赤く染まる。
陽菜が吹き出した。
「椿ってば相変わらずかわいいねー」
慌てる椿を横目に、陽菜は部屋の中へと入り、視線を巡らせた。
キッチンの椅子に掛かったエプロン。
補食用のゼリー。
冷蔵庫の買い物メモ。
そして食器棚に並ぶ、色違いのマグカップ。
「……あー」
陽菜の口元がゆっくり上がる。
「思ってたより浸透してるね」
「な、何よ」
「いや、もう前よりもっと生活空間共有してるじゃん」
その言葉に、椿が言葉を失う。
蓮は何でもないように椅子へ座った。
「宿題、始めるぞ」
「はーい」
陽菜が向かいに座る。
しばらくは、本当にただの勉強会だった。
陽菜の数学を椿が見て、
蓮の英語を椿が確認し、
時折陽菜が横から茶化す。
その何気ない時間が、ひどく自然だった。
夕方に差しかかる頃、陽菜がふと窓の外を見た。
「そういえば今週末、駅前で夏祭りあるよね」
椿の手が止まる。
「……そうなの?」
陽菜がにやりと笑った。
「あれ、知らなかったの?花火も上がるってさー。
二人で行けば?」
その一言に、部屋の空気が少しだけ変わる。
椿の鼓動が小さく跳ねる。
その隣で、蓮は問題集から顔を上げた。
「いいな」
「――え?」
椿が顔を上げる。
「ちょうどオフの最終日だし」
あまりにも自然な返答に、陽菜の笑みが深まった。
「決まり、だね」
夏の空気が、次の夜へと静かに繋がっていった。
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