116食目 彼女の響き
夏の陽射しを受けて、水面がきらきらと揺れていた。
ラッシュガードを羽織ったままの椿の隣で、蓮はようやくいつもの呼吸を取り戻していた。さっきまでの空気の固まり方が嘘みたいに、プールサイドには部員たちの笑い声が広がっている。
「よーし、流れるプール行くっすよ!」
若葉が勢いよく手を上げ、そのまま水へ飛び込む。
「おい、走るなって」
「若葉、子どもか」
桐生の呆れた声に、周囲から笑いが起きた。
「私、先にちょっと飲み物買ってくるね」
マネージャーの一人に声をかけられ、蓮は小さく頷く。
「……私も行ってくる」
そう言って椿もプールサイド脇の売店へ向かう。
ほんの数歩、距離が空いた。
その時だった。
「あの……」
聞き慣れない声に、蓮が顔を上げる。
少し離れた場所にいた女子二人組が、どこかためらいがちにこちらを見ていた。
「すみません、もしかして……天根くん、ですよね?」
一瞬だけ、周囲の空気が変わる。
蓮は小さく首を傾げた。
「あの……サッカーの」
もう一人の女子が少し興奮気味に言葉を継ぐ。
「さっき気づいて……やっぱりそうだって」
蓮は否定も肯定もせず、静かに視線を向ける。
「すごかったです。この決勝、見ました!」
「ありがとうございます」
短い返答。
それだけで女子たちの顔がぱっと明るくなる。
「よかったら、一緒に遊びません?」
少しだけ踏み込んだその言葉に、蓮が一拍だけ視線を動かした。
ちょうどその時、売店の方から戻ってくる椿の姿が見えた。
こちらの様子に気づいたのか、歩幅が少しだけ速くなる。
胸の奥に小さなざわつきを抱えたまま、椿がすぐそばまで来た、その瞬間だった。
蓮が自然に手を伸ばす。
指先が、椿の手を捉えた。
「――え」
女子二人の、そして椿の呼吸が止まる。
そのまま蓮は、女子二人へ視線を戻した。
「すみません。彼女と来てるんで」
あまりにも自然だった。
まるでそれが当たり前の事実であるかのように。
女子二人が一瞬だけ目を見開き、すぐに「あっ、すみません……!」と頭を下げる。
「邪魔しちゃってごめんなさい!」
そのまま人波の向こうへ去っていく。
残された椿は、繋がれた手を見下ろしたまま固まっていた。
指先に残る体温が、妙に熱い。
「……蓮くん」
「ん?」
「い、今の……」
「ああ。有名になったなって」
あまりにもいつも通りの返答だった。
けれど、手はまだ離れない。
椿の胸の奥で、鼓動が一段大きく跳ねた。
(……彼女)
胸の奥が、じんわりと熱を持つ。
蓮が逆ナンされたことより、その一言の方が何倍も強く刺さっていた。
蓮は何事もなかったように椿の方を向く。
「どうした?やっぱり買い物、一緒に行くか?」
「……う、うん」
返事をした声が少しだけ上ずった。
その様子を見ていた若葉が、ついに吹き出した。
「うわー、今のやば」
「柏原、笑いすぎ」
「いやだって、蓮さんサラッと言いすぎっすよ。
橘センパイにクリティカルヒットっす」
マネージャーたちの間でも、完全にニヤつきが広がっている。
「やっぱり見せつけてるよね」
「ていうか橘先輩、真っ赤」
「っ……!」
椿は反射的に顔を背けた。
けれど、不思議とさっきまで胸の奥にあったざわつきはもうない。
その代わり、蓮のすぐ隣にいることが、ひどく自然に感じられた。
その後は、一気にいつもの騒がしさに飲み込まれた。
流れるプールに入った若葉が、早々に悪ノリする。
「蓮さん、隙ありっす!」
ばしゃ、と勢いよく水が飛ぶ。
蓮の肩にかかった水滴が、陽射しを受けて散った。
次の瞬間、蓮が無言で水をすくい返す。
「うわっ、冷たっ!」
倍返しだった。
周囲から笑い声が上がる。
「うわ、大人気ねー」
「若葉の自業自得だろ」
椿も思わず笑っていた。
その笑い声に気づいた蓮が、少しだけこちらを見る。
「椿も来るか」
「え?」
答えるより先に、若葉が水を飛ばした。
「橘センパイも巻き込みっす!」
「きゃっ――」
肩にかかった水の冷たさに、思わず蓮の腕を掴む。
そのまま流れに乗って、二人の距離が自然に近づいた。
もう牽制でも何でもない。
ただ、隣にいるのが当たり前みたいに。
午後いっぱい遊び倒した頃には、陽射しも少しだけ和らいでいた。
駅までの帰り道、部員たちは途中でそれぞれ散っていく。
「じゃ、また休み明けなー」
「おつかれっす!」
若葉が最後までにやにやしながら手を振った。
「桐生センパイ、今日はごちそうさまっす」
「まだ何も奢ってないだろ」
笑いに包まれながら、そのまま一行は解散した。
残ったのは、蓮と椿だけだった。
帰り道、駅前のスーパーに立ち寄る。
冷房の効いた店内に入ると、プール帰りの火照りが少しだけ落ち着いた。
野菜売り場の前で、椿が立ち止まる。
「明日の朝、何にしようかしら」
「荷物持ちは任せろ」
いつものやり取り。
カゴの中にトマトと卵が入る。
その何気ない時間が、さっきまでの賑やかな空気とは違う温度で胸に落ちてくる。
レジを抜け、夕方の外気に戻ったところで、蓮が買い物袋を持ち直した。
「……今日は楽しかったな」
椿が少しだけ目を上げる。
「……ええ」
そのまま蓮が、何でもないことのように続けた。
「次は、二人で行くか」
椿の足が、その場で止まった。
耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きく響く。
プールの賑やかさも、
蓮がナンパされたときの心のざわつきも、
若葉たちの笑い声も、
全部、遠くなる。
「……うん」
ようやく出た声は、小さかった。
けれど、確かに笑っていた。
夕暮れの道を並んで歩く。
買い物袋の擦れる小さな音と、隣から聞こえる足音だけが静かに重なっていた。
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