115食目 見せたくない
休日の昼前、駅前は夏休みらしい熱気に満ちていた。
照り返しを受けたアスファルトが白く光り、改札前には待ち合わせの人波が絶えない。その中を歩きながら、椿は隣の歩幅に自然と歩調を合わせていた。
蓮のすぐ横。
肩が触れそうで触れない距離。
昨日の朝、自分で「行く」と言い切ったはずなのに、いざ当日になると胸の奥が妙に落ち着かなかった。
「暑いな」
蓮が空を見上げながら言う。
「……うん」
そう返しながらも、椿は蓮のそばから離れない。
「あっ、天根くんたち!」
前方からマネージャーの一人が手を振ってくる。
寮生メンバーが、学校から一団で来たようだ。
その声に蓮が視線を上げるより早く、椿はもう半歩だけ寄る。
その様子を少し離れた位置から見ていた若葉が、隣の桐生へ小声で囁いた。
「……なんすか、あれ。近くないっすか?」
「お前、絶対言うなよ」
「いや無理っすよ。めっちゃ分かりやすいっす」
マネージャーたちの間でも微笑ましいものを見るような笑いが広がっていた。
桐生が肩をすくめる。
「まあ、今さらか。
……おーい、天根。待たせたか?」
「いえ、さっききたばっかなので」
「そうか、それなら良かったよ。橘も、今日は楽しもうな」
「……はい」
桐生は声を落とし、椿に告げる。
「そんな警戒しなくても、誰も取らねぇよ」
「っ!」
それだけ言うと、「じゃあ、行こうぜ」と笑いながら駅へと入っていった。
駅のホームに上がると、休日の電車は思ったより混んでいた。
ドアが閉まり、車体がゆっくりと動き出す。
揺れに合わせて椿の肩が蓮の腕に触れた。
そのまま、離れない。
意図的だと悟られない程度に自然を装いながら、椿は蓮のすぐ隣に立ったままだった。
袖を軽く持っている。
「椿、近くないか?」
蓮が少しだけ顔を向ける。
「電車、揺れるから。吊り革、高いし」
即答する。
「……そうか」
疑うこともなく頷くその反応に、逆に少しだけ胸が痛い。
「おーい、お二人さん。次で降りるからな
……ってダメだありゃ、聞いてねぇな。柏原、いざというときは邪魔しに行け」
「了解っす!」
そのやり取りに、蓮たち以外に再び笑いが起きた。
プールに着いてからも、椿は自然に蓮の隣を離れなかった。
更衣室に入ってようやく、蓮の隣が空く。
若葉が着替えながら、面白そうに口元を上げる。
「蓮さん、今日めっちゃ守られてるっすね」
「おい、若葉」
桐生が低く制する。
「いや、だって分かりやす――」
言いかけたところで、蓮が首を傾げた。
「そうか?」
「ありゃ、自覚なしっすか」
「だから言ったろ。無駄なんだって」
「……?」
首を傾げながら更衣室を出て、蓮は先にプールサイドへと出ていった。
プールでは、夏の日差しが容赦なく照らしている。
「……おまたせ」
聞き慣れた声に目を向けた瞬間、視線が完全に動かなくなる。
椿が、そこに立っていた。
淡い水色。
水面の光をそのまま映したような色合いのビキニタイプの水着。
胸元と腰に小さくあしらわれたフリルが、普段の理知的な印象とは違う柔らかさを引き出している。
肩から鎖骨へ落ちるラインが、夏の光に白く浮かんだ。
風に揺れた髪先が、その肌へかかる。
「……」
言葉が、出ない。
今まで何度も椿を見てきた。
制服姿も、
私服も、
家でエプロンをつけている姿も。
それでも、今目の前にある椿は、どれとも違った。
「……どう?」
椿の声が、少しだけ揺れる。
いつもならすぐに感想が返ってくる。
似合うとか、そういう率直な言葉が。
けれど今日は違った。
蓮はただ見つめたまま、何も言わない。
(……あれ)
胸の奥が少しだけざわつく。
(もしかして……似合ってなかった?)
その不安が頭をよぎった瞬間だった。
「いや……」
ようやく蓮が息を吐いた。
「その、思ってたより、ずっと似合ってて」
珍しく、言葉を探している。
「最初、言葉出なかった」
その一言で、椿の胸の奥が熱を持つ。
「……っ」
視線を逸らすように、椿は髪を耳へかけた。
「な、なによそれ……」
声が少しだけ小さくなる。
「……でも」
蓮の言葉に、思わず硬直する。
その次に何が放たれるか、不安が収まらない。
だが蓮は、口を開くより先に、自身が着ていたラッシュガードを椿にかけた。
「……え?蓮くん?」
「似合ってる……でも、他のやつらにあんまり見せたくない」
その一言に、椿の思考が完全に止まる。
「……え?」
顔が一気に熱くなる。
意味を理解するまでに数秒かかった。
「ちょ、ちょっと……それって」
蓮は少しだけ視線を逸らした。
「……なんとなく。見てたら、そうしたくなった」
その“なんとなく”の破壊力に、椿の胸が大きく跳ねる。
そして、蓮が浮かべている表情が気になり、顔をあげた瞬間。
今度は椿の呼吸が止まった。
蓮はラッシュガードを脱いだまま、プールサイドの光の中に立っていた。
夏の陽射しを受けて浮かぶ肩のライン。
水面の反射が胸元と腹筋の輪郭を淡くなぞっていく。
冬から春にかけて、食事も回復も、すべて自分が管理してきた身体。
体脂肪率も、
筋量も、
疲労の抜け方も。
数字としては、誰より把握している。
――知っていたはずなのに。
「……っ」
言葉が出ない。
目の前にあるそれは、データではなかった。
冬の敗北から積み上げてきたもの。
削ぎ落とされ、
磨き上げられ、
全国の頂点まで辿り着いた身体。
それが今、夏の光の中であまりにも鮮明だった。
(……これ、私が……)
思わず喉が鳴る。
食事を作り、
回復を支え、
試合前の一本まで管理してきた。
それでも、こうして真正面から見るのは初めてだった。
「椿?」
呼ばれて、ようやく視線が揺れる。
「……な、なによ」
「いや。大丈夫かなって」
「べ、別に問題ないわよ」
消え入るような声に、蓮は首を傾げた。
少し離れた場所でその様子を見ていた若葉たちが、完全に吹き出した。
「やば、おもろ」
「全国王者、プールでも無双っすね」
「隠す気ゼロじゃん」
マネージャーたちも笑いを堪えきれていない。
「もう完全に二人の世界だよね」
「あれでいつも通りのつもりなんでしょ?おもしろいカップルだねー」
夏の光の下、プールの水面がきらきらと揺れる。
その中心にいる二人の距離だけが、誰の目にもはっきりと見えていた。
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