114食目 夏支度
朝の部屋は、試合のない静けさに包まれていた。
カーテンの隙間から差し込む夏の陽射しが、床に細い線を落としている。目は覚めていた。だが、身体が起き上がる理由を見失ったまま、蓮はベッドの上でぼんやりと天井を見上げていた。
全国優勝から一夜。
昨日まで身体の芯に張り詰めていた熱だけがまだ残っている。
だが、今日は練習もない。走る理由も、ボールを蹴る時間もない。
その静けさを破るように、寝室のドアがノックされる。
続いて、聞き慣れた声が聞こえてくる。
「蓮くん、起きてるの?」
返事をする前に扉が開いた。
「オフだからってだらだらしないの。ほら、朝ごはんできたから顔洗ってきなさい」
そう言って部屋へ入ってきた椿を見て、蓮は一瞬だけ目を止めた。
いつものパーカーじゃない。
淡い色のブラウスに、膝下までの軽いスカート。髪もいつもより少し丁寧に整えられていて、夏の朝の光を受けて柔らかく見える。
「……分かった」
短く返して身体を起こす。
食卓につくと、いつもの朝の温度がそこにあった。
焼き鮭。
だし巻き卵。
冷やしたトマト。
味噌汁。
炊き立ての白米。
湯気の向こうで、椿が向かいに座る。
箸を手に取ったところで、蓮はふと口を開いた。
「今日、おしゃれだな」
椿の動きが止まる。
蓮は気づかず、そのまま続けた。
「やっぱり、そういうのも似合ってるな」
数秒、部屋の空気が止まった。
椿の箸先がわずかに震える。
「…………」
耳の先が熱を持つ。
「……き、今日、陽菜と出かけるから」
ようやく絞り出した声は、少しだけ硬かった。
「そうか」
蓮は味噌汁を一口飲んでから、何でもないように続ける。
「じゃあ、駅まで送るよ」
「っ――」
今度こそ、椿が完全に固まった。
危うく箸を落としそうになって、慌てて持ち直す。
「な、なんでそうなるのよ……」
「駅だろ?待ち合わせ」
「そ、そうだけど……」
優しさに悪意がない。
だから余計に困る。
誤魔化すように、椿は視線を逸らした。
「……蓮くんは、出かけたりしないの?」
問い返すように言う。
蓮は少しだけ考えるように視線を上げた。
「ああ、そういえば」
スマホの通知を思い出したように言う。
「明後日、サッカー部でプール行くって誘われてたな」
椿の箸先が止まる。
「……プール?」
「ああ。オフだし、みんなで遊ぶらしい」
一拍置いて、蓮が自然に続けた。
「椿も来るか?」
その言葉に、胸の奥が一瞬だけ跳ねた。
けれど、それより先に理性が口を開く。
「……え。でも」
視線が揺れる。
「男だけでしょう? 私が行ったら邪魔じゃない?」
サッカー部のオフ。
しかもプール。
自分がそこに混ざる絵が、一瞬うまく想像できない。
だが蓮は首を傾げただけだった。
「いや、マネージャーたちも来るって言ってた」
「……は?」
思わず素の声が漏れた。
マネージャーも来る。
つまり女子もいる。
胸の奥が、さっきとは別の意味でざわついた。
(……なんでそんな大事なことを省いてんのよ!)
一瞬で頭の中に浮かんだ光景を、慌てて振り払う。
「……行く」
「ん?」
小さく零した声に、蓮が聞き返す。
「だから!」
思わず声が大きくなる。
「行くって言ってるの!」
一拍遅れて、蓮が頷いた。
「そ、そうか……じゃあ、そう伝えとくな」
何でもないように返されて、椿はますます落ち着かなくなった。
昼前の駅前は、夏休みらしい人の多さで賑わっていた。
陽菜は椿の顔を見るなり、にやりと口元を上げた。
「あれぇ?」
「なによ」
「なーんか今日、機嫌いいじゃん」
「別に」
即答だった。
だが、その返しの速さ自体がもう怪しい。
陽菜は笑いを噛み殺しながら椿の隣を歩く。
「何から買いに行く?」
椿は一瞬だけ言葉を選んだ。
「……水着」
「え?」
今度は陽菜が素で止まった。
「プールかどっか行くの?」
「ええ……明後日ね」
陽菜が笑みを深めて聞いてくる。
「へぇ〜?誰と?」
「蓮くんと……あと、サッカー部の人たちと」
「へぇぇぇぇ?」
声音が一段上がる。
椿は耳まで赤くしながら前を向いた。
「マネージャーも来るって言ってたから!」
「不安なんだ??」
陽菜が笑いを堪えきれない。
「っ!違うから!その、誘われたからよ」
「うんうん、なるほどねぇ」
陽菜の目が完全に面白がっている。
その後、水着売り場で散々からかわれた後、二人は雑貨店へ入った。
椿の足が、ある棚の前で止まる。
並んだマグカップ。
色違いの、シンプルな二つ。
白と紺。
指先が、自然とその二つを手に取っていた。
「それ、買うの?」
陽菜が横から覗き込む。
椿は少しだけ視線を落として頷く。
「……ええ。蓮くんの、優勝のお祝いに」
「いいじゃん、お揃い」
「……うん」
恋人になってから、形に残るものを渡すのは初めてだった。
紙袋の中に入った水着と、小さな箱。
その重みが、椿の夏の始まりを静かに告げていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
「おもしろい」「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援をお願いします!




