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俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜  作者: はるくぼ
2年生・夏「変わったけど、変わらない」

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114/158

113食目 頂点のあとで

 玄関の鍵が回る音が、夜の静けさに小さく響いた。


 全国の頂点を決めた夜だというのに、蓮の部屋の空気は不思議なほどいつも通りだった。扉を開けた瞬間、ふわりと鼻先をくすぐる出汁の香りと、炊き立ての米の熱が先に迎えに来る。


 靴を脱ぎながら、蓮は一度だけ息を吐いた。

 もうスパイクを履いていないのに、足裏にはまだ芝の感触が残っていた。


 踏み込んだ瞬間の反発。

 最後の一歩で切った角度。

 歓声が跳ねたあの瞬間。


 スタジアムの歓声ももう遠い。

 バスの車内で飛び交っていた若葉たちの声も、ここにはない。


 代わりに聞こえてくるのは、キッチンからの小さな音だけだった。


 鍋の蓋が触れ合う乾いた音。

 味噌を溶く箸の静かな動き。

 換気扇の低い駆動音。


 その音に、肩の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていく。


「おかえりなさい」


 キッチンから椿の声が飛ぶ。


 振り向けば、いつものようにエプロン姿で立っていた。髪を後ろで軽くまとめ、片手にお玉を持ったまま、ほんの少しだけこちらを見ている。


「……ただいま」


 蓮が短く返す。それだけで十分だった。


「手、洗ってきて。もうすぐできるから」


 全国優勝を決めた日の最初の会話がそれなのかと、一瞬だけ思う。

 だが、すぐに小さく口元が緩んだ。


 むしろ、これがいい。


 洗面所で手を洗いながら、鏡に映る自分の顔を見る。

 汗はもう引いている。

 だが目の奥には、まだ試合の残響が薄く残っていた。


 若葉に運ばせた最後の一手。

 城ヶ崎の半歩の遅れ。

 桐生の決定機。

 揺れたネット。


 その全部が、もう数時間前のこととは思えないほど濃く焼きついている。

 テーブルに着くと、椿が味噌汁を置いた。


 湯気が立ち上る。


 焼き魚。

 ほうれん草のお浸し。

 味噌汁。

 炊き立ての白米。


 どれも、いつもの食卓だった。


「……優勝したんだな」


 ぽつりと零れた言葉に、椿が箸を止める。


「なんでそんな他人事なのよ」


 柔らかく笑いながら、椿が返してくる。


「いや、まだ実感わかなくてさ」


「あら、ドイツに行く天才さんも年相応の反応なのね」


 からかうような声音は、不思議とスッと浸透してくる。


 今日、自分たちは全国の頂点に立った。

 それなのに目の前にあるのは、変わらない日常だ。


 味噌汁を一口含む。


 温かい。


 スタジアムの熱とも、歓声の熱とも違う。

 身体の内側にゆっくりと落ちていくような熱だった。


「……そういえば今日、監督に言われた。

 数日、オフだってさ」


 箸を置きながら蓮が言う。

 椿が視線を上げる。


「そうなの?」


「全国が終わったからな。しばらくは完全休養だ」


 その言葉に、椿の肩から小さく力が抜けるのが見えた。


「そう……しばらくオフなら、少しは普通の高校生らしいこともできるわね。

 でも、まずは少し寝なさい」


 即座に返ってきた言葉に、蓮は思わず小さく笑う。


「頭、使いすぎた顔してるわよ」


「そんなにか?」


「ええ」


 椿は当然のように言った。


「去年からずっと見てるんだから。少し見ればわかるわよ」


 その言葉に、蓮の視線が一瞬だけ止まる。


 試合中に渡された一本のボトル。

 最後まで思考を止めなかった一手。

 それを支えたのは、間違いなく目の前の存在だった。


「そういえば、今日の、助かった」


 蓮の言葉に、椿は少しだけ目を瞬かせる。


「ハーフタイムの」


「ああ、あれね」


 一拍の沈黙。

 それから椿が小さく息を漏らした。


「当然よ」


 何でもないことのように言う。


「あなたが考え続けられるようにするのが、私の役目なんだから」


 その言葉が、味噌汁の湯気と一緒に静かに胸へ沈んでいく。


 優勝した。

 全国の頂点に立った。


 それでも最後に戻ってくるのは、この部屋で、この食卓で、この温度だった。


 椿が立ち上がり、空になった味噌汁の椀を自然に手に取る。

 その指先が、ほんの一瞬だけ蓮の手に触れた。


 それだけなのに、不思議と胸の奥が少しだけ温かくなる。


 窓の外では、夏の夜が静かに更けていく。

 食卓の向こうで椿が味噌汁の椀を下げる音だけが、小さく部屋に残っていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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