113食目 頂点のあとで
玄関の鍵が回る音が、夜の静けさに小さく響いた。
全国の頂点を決めた夜だというのに、蓮の部屋の空気は不思議なほどいつも通りだった。扉を開けた瞬間、ふわりと鼻先をくすぐる出汁の香りと、炊き立ての米の熱が先に迎えに来る。
靴を脱ぎながら、蓮は一度だけ息を吐いた。
もうスパイクを履いていないのに、足裏にはまだ芝の感触が残っていた。
踏み込んだ瞬間の反発。
最後の一歩で切った角度。
歓声が跳ねたあの瞬間。
スタジアムの歓声ももう遠い。
バスの車内で飛び交っていた若葉たちの声も、ここにはない。
代わりに聞こえてくるのは、キッチンからの小さな音だけだった。
鍋の蓋が触れ合う乾いた音。
味噌を溶く箸の静かな動き。
換気扇の低い駆動音。
その音に、肩の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていく。
「おかえりなさい」
キッチンから椿の声が飛ぶ。
振り向けば、いつものようにエプロン姿で立っていた。髪を後ろで軽くまとめ、片手にお玉を持ったまま、ほんの少しだけこちらを見ている。
「……ただいま」
蓮が短く返す。それだけで十分だった。
「手、洗ってきて。もうすぐできるから」
全国優勝を決めた日の最初の会話がそれなのかと、一瞬だけ思う。
だが、すぐに小さく口元が緩んだ。
むしろ、これがいい。
洗面所で手を洗いながら、鏡に映る自分の顔を見る。
汗はもう引いている。
だが目の奥には、まだ試合の残響が薄く残っていた。
若葉に運ばせた最後の一手。
城ヶ崎の半歩の遅れ。
桐生の決定機。
揺れたネット。
その全部が、もう数時間前のこととは思えないほど濃く焼きついている。
テーブルに着くと、椿が味噌汁を置いた。
湯気が立ち上る。
焼き魚。
ほうれん草のお浸し。
味噌汁。
炊き立ての白米。
どれも、いつもの食卓だった。
「……優勝したんだな」
ぽつりと零れた言葉に、椿が箸を止める。
「なんでそんな他人事なのよ」
柔らかく笑いながら、椿が返してくる。
「いや、まだ実感わかなくてさ」
「あら、ドイツに行く天才さんも年相応の反応なのね」
からかうような声音は、不思議とスッと浸透してくる。
今日、自分たちは全国の頂点に立った。
それなのに目の前にあるのは、変わらない日常だ。
味噌汁を一口含む。
温かい。
スタジアムの熱とも、歓声の熱とも違う。
身体の内側にゆっくりと落ちていくような熱だった。
「……そういえば今日、監督に言われた。
数日、オフだってさ」
箸を置きながら蓮が言う。
椿が視線を上げる。
「そうなの?」
「全国が終わったからな。しばらくは完全休養だ」
その言葉に、椿の肩から小さく力が抜けるのが見えた。
「そう……しばらくオフなら、少しは普通の高校生らしいこともできるわね。
でも、まずは少し寝なさい」
即座に返ってきた言葉に、蓮は思わず小さく笑う。
「頭、使いすぎた顔してるわよ」
「そんなにか?」
「ええ」
椿は当然のように言った。
「去年からずっと見てるんだから。少し見ればわかるわよ」
その言葉に、蓮の視線が一瞬だけ止まる。
試合中に渡された一本のボトル。
最後まで思考を止めなかった一手。
それを支えたのは、間違いなく目の前の存在だった。
「そういえば、今日の、助かった」
蓮の言葉に、椿は少しだけ目を瞬かせる。
「ハーフタイムの」
「ああ、あれね」
一拍の沈黙。
それから椿が小さく息を漏らした。
「当然よ」
何でもないことのように言う。
「あなたが考え続けられるようにするのが、私の役目なんだから」
その言葉が、味噌汁の湯気と一緒に静かに胸へ沈んでいく。
優勝した。
全国の頂点に立った。
それでも最後に戻ってくるのは、この部屋で、この食卓で、この温度だった。
椿が立ち上がり、空になった味噌汁の椀を自然に手に取る。
その指先が、ほんの一瞬だけ蓮の手に触れた。
それだけなのに、不思議と胸の奥が少しだけ温かくなる。
窓の外では、夏の夜が静かに更けていく。
食卓の向こうで椿が味噌汁の椀を下げる音だけが、小さく部屋に残っていた。
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