8 「全部あなたのせいです」
あのデザインは結果的に採用されなかった。代わりに後輩のものが採用された。先輩たちに囲まれて祝福されて嬉しそうな表情と、自分の前では申し訳なさそうな表情。そんな後輩の目が、苦しかった。
食欲もなくて、寝ようとしても眠れなくて。あんなに頭の中に溢れていたデザインのアイデアも、空っぽになってしまった。
それなのに、仕事はできる。デザイン画のコピーも、会議の準備も、生地をまとめたり、モデルに着てもらう服の手入れも。任されている仕事は「デザイナー」ではなかったんだ、と思い知らされる。
でも、それに悔しいとも思わなくなった。だって、なんのアイデアもないのだから。
そんな毎日の中、ついに憂鬱な給料日が来た。
そこに高級車はなかった。彼の姿もなかった。
いつもの場所に立っていたのは、知らない女性だった。
「ルカさんのお知り合いですか?」
そう聞くと、彼女は頷いた。
「ボスから回収するように命じられています」
彼が何者なのか。もう知りたいとは思えなかった。
美咲の今の願いは、ただひとつだけ。
「あの人のところに連れて行ってください」
高級住宅街の一角、豪邸に案内された。
「ようこそ」
彼は忙しそうにすることもなく、優雅にワインを飲んでいた。
「座って。ゆっくり飲みながら話そう」
その言葉に従う気はなかった。
「もう会いたくありません」
はっきり告げる。
「お願いします。お金は必ず返すので、もう会いにこないでください」
彼の顔を見ることも無く、ただ頭を下げた。
怖かった。彼の意思を否定するのは初めてだったから。きっと彼は、美咲を殺すことはない。でも、どうにかして傷つけることはできる。この場にはたくさんの人がいるが、その誰一人として美咲の味方はしてくれない。
「……ふぅん」
彼の声がした。それは、冷たかった。感情がこもっていない声に、思わず手が震えた。
「いいよ」
怒っているのだろうか。でも、受け入れてくれた。
「もう二度と会わない。お金も返さなくていいよ。たった300万だろう」
美咲が一生懸命働いたって貯まらない金額。それを彼は「たった」と言った。
この人とは価値観が違いすぎる。万が一にも付き合った時、きっとその差から喧嘩することだって多かったはずだ。
これでいい。会社には事情を説明して、また次のチャンスがもらえるように頑張ろう。今はそう思うことしかできなかった。
「ありがとうございます」
深く一礼して、踵を返す。
「本当にこれでいい?」
背中に突きつけられた冷たい刃に、美咲は足を止めた。
「言いたいことはそれだけ?」
「……っ」
じゃあどうすればいいの。そう叫びたかった。涙で滲む視界で、数メートル先のドアを睨む。
「自分の気持ちも理解せず、ただ現状維持。それでおもしろい?」
「勝手なこと言わないで」
振り返る勇気はなかった。それでも、精一杯怒りを込めた。
「全部あなたのせいなんです。一生懸命描いたのに。あれ以外のもの全部捨てて、頑張って作ったのに」
わかっている。彼と出会う前から、うまくいってなかった。3年間も雑用のようなことをしてきて、せっかく作っても採用されなくて。そんな毎日が、「うまくいっていた」なんて言えるはずがない。
「うん」
彼は反論しなかった。ただ短く頷いただけ。
そのひとつで、美咲の中の何かが決壊した。バッと勢いよく振り返ると、そこにはただ平然と佇む彼がいた。
「人の夢を潰しておいて、よく平気な顔でいれますね」
自分の顔が歪むのがわかった。それはそれは醜い顔だろう。でも、もう止まらなかった。
「そうですよね。人の命だって簡単に奪えるんだから。わたしがどうなろうと、あなたには関係ない」
見なかったことにしたあの過去に触れた。
「わたしはずっと頑張ってきたのに。デザイナーになりたくて。服を作りたくて。いろんな雑誌を買って、テレビも見て、服飾の勉強だってしたのに。奨学金で学校に通うのも、それだけじゃ足りなくて勉強の合間に一生懸命バイトするのも、あなたにとっては小さなことなんでしょうね」
怒りと勢いに任せた言葉は、情けないほど震えていた。
「それで?」
それなのに、彼の声は冷静だった。
「君は何がしたいの?」
何がしたいのか。そう聞かれれば、答えはひとつだった。
「服が、作りたい」
そう吐き出した言葉に、一気に涙が溢れた。全身の力が抜けて、その場に座り込む。
「でも、もう……っ」
もう叶えられない。反社会勢力と関わりがある人物を避けるのは、この社会では当然のことだ。
「いいよ」
彼がそう言った。
「それが君の夢なら、叶えてあげる」
「……どうして」
これ以上何を求めるのだろう。美咲に差し出せるものなんて、もうないのに。
「今まで楽しませてくれたお礼」
「お金は」
「いらないよ」
彼が歩み寄ってくる。涙に歪む視界の中で、大きなシャンデリアを受けて輝くその立ち姿は、綺麗だった。
「その代わり、今の会社は辞めてもらう」
その言葉に、拒否感はなかった。
「僕の下で働いて。それが条件だ」
両手に力が入る。これが最後のチャンスだと、心はわかっていた。
次話は9日昼頃更新予定です




