5 「言霊ってあるじゃないですか」
心に余裕ができた。それは決して大きなものではなくて、ほんの少しの溝のようなもの。それでも、心が大きく揺らされる瞬間、その溝が揺れを消してくれた。
『夢を目指す理由なんてなんでもいいんだ。君はそのための努力をしてきた人だろう?』
落ち着いて考えれば、何を知っているんだ、なんて怒ることもできた。まだ数回しか会っていない人に、しかも借金を取り立ててくるような人に、美咲の感情を理解できたなんて思われたくない。
でも、そこで怒りを抱かないくらいには、あの時の美咲はその言葉が嬉しかった。あの言葉を求めていた。
そして現に、その言葉は美咲の心を軽くしてくれた。
「先輩、彼氏できました?」
仲のいい後輩にそう聞かれるくらいには、浮かれていた。
「ううん」
「じゃあ、いいことでもありました?」
「どうだろうね」
嬉しいなんて認めたくない。でも、思わず緩んでしまう口元や、どこか浮かれたような軽い足取りは隠せない。後輩にまで指摘されてしまったのは恥ずかしかったが、嫌でもなかった。
「いいなぁ。楽しそうで」
「ユカちゃんは楽しくない?」
「まぁ……。頑張って描いても、通ったこと一度もありませんし」
スケッチブックだけが増えていく現実は、気持ちのいいものではない。それは美咲にだってわかる。
「頑張るしかないよね」
美咲はそう言った。描き続けるしかない。いつか通ると信じるしかないのだ。
「美咲先輩、ほんと尊敬します」
「そう?」
「だって、デザイナーなんて言えない仕事ばっかりで3年間も頑張ってるじゃないですか」
「しがみついてるだけだよ」
夢を諦めたくない、なんてもっともらしいことを言って、今さら転職する勇気がないだけ。
「それでもすごいですよ!」
「ユカちゃんも、毎日いろんなデザイン考えてるじゃん。センスもいいし」
「そんなのまだまだですよぉ」
なんて、そんな会話が楽しかった。
「舞原さん、田辺さん」
その時、先輩に声をかけられた。
「来月の会議の時、ひとつずつデザインを提出してください」
それはすごいチャンスだった。今まで一度もなかった。会議にかけられる前に、上司に却下されていた。
「はい!」
元気に返事をした後、2人は目を合わせて微笑みあった。
また給料日がやってきた。憂鬱なはずなのに、先月ほど気分は沈んでいない。会社を出る足取りも、少し軽かった。
「こんばんは」
同じ場所に彼が立っていた。いつものような胡散臭い笑顔も、どこか優しく見える。
「今日は行きませんから」
そう言って、封筒を差し出す。
「今日は鉄板焼きなんてどうかなと思ったけど」
「……先月も行かないって言いましたよね」
「そうだっけ」
嘘つき。絶対聞いていたはず。とぼけたような笑みを恨めしく見つめ、
「今日までですから」
と言って車に乗り込んだ。
「忙しいんです」
この人に気を使うのも馬鹿らしい。幸い殺すつもりも害するつもりもなさそうだからと、車の中でスケッチブックを取り出した。
「仕事?」
「はい。デザインを考えなくちゃいけなくて」
「へぇ、いいね。見せてよ」
隣に座った彼が、軽く手を差し出す。断る理由もなくて、美咲は大人しくスケッチブックを見せた。
「綺麗な服だ」
「わからないでしょ」
彼はこの業界の人ではないのだから、デザインの善し悪しなんてわかるはずがない。もしわかっていたら、美咲のデザインなんて褒めるはずがないのだ。
「これ、自信はある?」
残酷な問いだ。その答えが見つからなくて、黙り込んでしまった。
「どうせ無理、とは言わないんだね」
彼は意外そうだった。
「言いたくないです」
美咲は答えた。
「言霊ってあるじゃないですか。全面的に信じるってわけじゃないですけど、落ちる可能性は潰しておきたくて」
そういえば、彼は日本語に詳しいのだろうか。「言霊」って外国にもある言葉なのだろうか。つい使ってしまったが、理解できないのではないか。
そう思ったところで、
「言葉に宿る魂か」
彼が興味深そうに呟いた。
「だったら、僕から言ってあげよう」
スケッチブックを返しながら、彼が言う。
「君ならやれるよ。この案は、必ず通る」
その言葉が、胸に優しく広がる。
「……何も知らないのに」
ほんの少し毒づいた言葉に、彼は楽しそうに笑った。
次話は6日夜頃更新予定です




