4 「仕事は楽しい?」
日常が戻ってきた。いつものように仕事に終われ、1日があっという間に過ぎていく。だから、忘れていられた。
しかし、1ヶ月後、また給料日がやってきた。
「舞原さん、これ会議用に人数分コピーして」
「はい!」
先輩からの指示に返事をして、デザイン画を受け取る。羨ましい、なんて思ってる暇はない。
「次のデザインに使う生地が届きました」
「ありがとうございます。受け取ります」
次から次に流れてくる仕事をこなしながら、昼休みには栄養ドリンクを片手に自分のデザインを進める。就業時間の仕事が多すぎて、デザインなんてしてる暇はない。わずかな隙間時間と、昼休みと終業後。時間を有効に使わなければいけない。
「舞原先輩」
後輩が駆け寄ってきた。
「この生地と同じものってまだありましたっけ?」
「確認してくるよ」
後輩も誰かから指示されたものだろう。美咲に求められているのは、後輩を導きながら先輩の手伝いをすることだけ。
仕事が終わる時間。憂鬱だった。
バッグの中には、お金が入った封筒。これでは完済するまで何ヶ月かかるか。もう嫌だ。
また会社前にいると困る。あんな危ない人たち、早く縁を切りたい。足早に廊下を歩いていると、
「舞原」
声をかけられた。同期の男性社員だった。
「もう帰るのか?」
「うん」
バッグを持つ手に力が入る。見えるはずなんてないのに。
「ちょっと、予定があって」
「そっか」
挙動不審には見えていないのか、彼は追求しなかった。
「最近、どう?」
その言葉に、ドキリとした。知っているのか。それとも気のせいか。答えに迷っていると、
「デザイン採用された?」
と彼が聞いた。なんだ、仕事の話か。
「ううん、まだまだ」
頑張って作った笑顔は、きっと上手くない。
「だよなぁ」
彼がつぶやく。
「森川くんも?」
「それはそう。この会社、デザイナーも多いし、3年目なんてまだ新人だよ」
よかった、と思ってしまった。同期の出世を喜べないような、足を引っ張っているような感じがして、自分が嫌だった。
「お互い頑張ろうな!」
眩しい笑顔で彼は去っていく。美咲が感じているような惨めで醜い感情は、ほんの少しも持っていないように。
彼はきっと明るい未来が見えているのだろう。いつかデザインした服が形になって、店頭に並ぶような未来。その未来を信じ続けることこそ、この世界で生き続けていく方法。
それでも、今の美咲には、そんな明るい未来なんて見えなかった。出しても出しても採用されないデザイン案。徹夜してまで書き上げても、あっさり捨てられる。そして、頑張って働いた給料さえ、今は怪しげな人たちに取り立てられる。
もう働きたくない。全て諦めたい。そう願うのに、頭の片隅には新しいデザイン案がある。これを形にするのを諦められなかった。
「やぁ」
会社の前にとまった高級車。それを背景に佇む外国人。
美咲はバッグから封筒を取り出した。今日はもう関わりたくない。これを渡すだけでいい。
「今月分です」
そう差し出すと、
「ご飯は行かない?」
と聞いてくる。封筒を胸ポケットに入れる温和な笑みに、
「行きません」
と短く答えた。
「残念。いい店を予約してるのに」
予約。そう聞くと、申し訳なくなった。キャンセル料だってかかるはずだし、きっとそれも安くない。
「……今回まで」
だから、告げた。
「次からは行きませんから」
彼はなぜか嬉しそうに笑った。
「お口に合うかな」
見るからに豪華なフレンチレストラン。こんな高いところに連れてこられても、怖い人を目の前にした食事なんて味もわからないのに。
この人は怖いのだろうか。毎月借金を取り立てにくるし、怖くないはずはないのに。一度も怒鳴られたことがないし、脅迫されたこともない。いつも綺麗な顔で穏やかに笑っていて、優しい声で喋りかけてくる。怖がっていいのかもわからなかった。
「仕事は楽しい?」
彼は世間話のように話しかけてくる。
「楽しくは……」
そう答えると、
「へぇ、楽しくないんだ」
彼は意外そうだった。
「仕事ってそうじゃないですか。全部楽しいことばかりじゃないですよ」
「そうなの?」
この人は明らかに普通の会社員ではない。一般常識なんてものは通じないだろう。
「ルカさんは楽しいことばかりなんですか?」
「どうだろうね。楽しめるようにはしてるよ」
あれだけたくさんの人を従えるような人。きっと自分が望まない仕事なんてしない。
この人の「楽しい仕事」はいったい何なのだろう。真っ当に生きている美咲がこんなに苦しくて、人を傷つけるようなこの人が楽しく生きている。残酷な世界だ。
「どうしてデザイナーになったの?」
その言葉は久しぶりだった。
「……服を作るのが好きだったから」
小さい頃、折り紙で作った人形の服。粘土をこねて作ったワンピース。そして、初めてかわいい服の絵を描いた日。布を切った日。それを縫い合わせた日。あの瞬間を忘れたことはない。
「ふぅん」
楽しそうな声に、ハッとした。自分は何を言っているのだろう。借金の取り立て屋にこんな話をするなんて。
「聞いてもおもしろくないでしょ」
特別な理由なんて何もない。子どもっぽい夢の延長だ。
「そんなことないよ」
それは、芯の通った声だった。ハッと見上げた先で、彼の冷静な目が美咲を見つめていた。
「夢を目指す理由なんてなんでもいいんだ。君はそのための努力をしてきた人だろう?」
その言葉が優しく響いた。
「努力なんて」
無意味だ、なんて言えなかった。言いたくなかった。どんなに実らなくても、それを否定しまったら、今までの自分の全てが無駄になってしまう気がした。
この人の言葉に救われそうになってしまう。今の美咲を追い詰めている人のひとりなのに。
その言葉が、胸の奥の柔らかい部分に消えない温もりを残した。
次話は5日夜頃更新予定です




