3 「逃げなかったね」
それから数日。あのビルのそばで倒れていた男性の顔がニュースに出ることはなかった。
助かったのか、助からなかったのか。事故で処理されたのか、事件になったのか。ただの一般市民にわかるはずがない。
美咲にできるのは、きっと助かったと信じることだけだった。
やがて給料日がやってきた。
美咲が彼について知っているのは「ルカ」という名前だけ。住所も振込先も知らない。連絡先も渡していない。どうやってお金を渡せばいいのだろう。
いっそ忘れてくれれば。そう思いながら一日の仕事を終え、会社を出た時だった。
「こんばんは、美咲ちゃん」
会社の前に高級車が止まっていた。そして、ルカとかいう美形の男。
やめてほしい。ルカは悪人というより穏やかな紳士のような佇まいだが、彼がいかに危険な人間か美咲はわかっているのだ。そんな人物が会社の前で待ち伏せなんて、いい気分はしない。
が、美咲は借金している側。そんなお願いなんてできるはずがなかった。
「逃げなかったね」
彼が言った。
「逃げても無駄でしょう」
獲物を見つけた肉食動物のような目から逃げられる気がしないのは、草食動物にでもなった気でいるのか。
「乗って」
こんな路上でお金のやり取りをしてる方が不自然だし、彼の言葉を否定できるはずもない。仕方なく車に乗りこむと、車は動き出した。
連れてこられたのは、高級料亭だった。まるで恋人をエスコートするように、彼は美咲を連れていく。個室に綺麗に並べられた料理に、美咲は固まるしかない。
「食べていいよ。毒なんて入ってないから」
確かに美味しそう。これが大好きな恋人とのデートなら。気を許した友人とのお食事会なら。喜んでその味を楽しめただろう。
今、美咲の感情は、この状況を楽しめる状態にない。当然橋が進むはずもなかった。
「いくら渡せばいいですか」
お金だけ渡して早く帰りたい。今日も帰ったらデザイン案を考えたいし、本当なら食事の時間さえも惜しいくらいなのだから。
「味気ないな。食事の席で金の話なんて」
「……すみません」
つい謝ったが、彼の声は決して不機嫌ではなかった。むしろ嬉しそうな、楽しそうな、そんな明るい声。彼が何を考えているのか、美咲には全く理解できなかった。
「渡せるだけでいいよ。君の給料事情なんて知らないしね」
そんなことを言いながら、給料日をしっかり把握しているではないか。金額が知られていてもおかしくないと思う。
それでも、美咲にだって生活がある。精一杯切りつめて渡せる金額を封筒に入れていたため、そのまま差し出した。
彼は中身を確認することなく、ジャケットの胸ポケットに入れた。
「和食は嫌い?」
「いえ……」
「じゃあ食べよう」
箸を持つ手が綺麗だった。これは逃げられないらしい。
箸に触れた指先が震えていたのを、美咲は気づかないふりをした。
次話は4日夜頃更新予定です




