第60話 冥月鎧鬼
風が、止んでいた。
満月に照らされた女神の湖は、
不気味なほど静かだった。
波音すら無い。
森を揺らしていた夜風も、
いつの間にか消えている。
世界そのものが、
息を潜めているようだった。
湖中央。
銀色の拘束から解放されたコトハを支えながら、
ロイドはゆっくりと顔を上げる。
冷たい水が、
足元で静かに揺れた。
――異常だ。
先程まで漂っていた、
あの月色の拘束術式とは、
明らかに違う。
もっと重い。
もっと深い。
まるで、
湖の底から巨大な“何か”が、
ゆっくりと浮かび上がってくるような圧迫感。
空気が沈む。
肺が重い。
皮膚の上を、
粘つくような悪寒が這っていく。
ロイドは無意識に、
《スヴェード・クシフォス》の柄を強く握った。
騎士として、
幾度も死線を越えてきた。
禁足地。
ケルベロス。
王国最前線。
数え切れないほどの戦場を潜ってきた本能が、
静かに警鐘を鳴らしている。
――来る。
その瞬間だった。
⸻
チャリ……
⸻
小さな金属音が、
静寂へ落ちた。
だが。
その音だけが、
異様なほど鮮明だった。
ロイドの灰色の瞳が、
湖面を捉える。
揺れていた。
静まり返った湖の奥で、
何かが脈打っている。
月を映していた水面へ、
円を描くように波紋が広がっていく。
一つ。
また一つ。
まるで湖そのものが、
巨大な鼓動を刻み始めたかのようだった。
ゆっくりと。
息苦しくなるほど、
ゆっくりと。
湖中央の闇が、
底から浮かび上がってくる。
黒。
ただ色が黒いのではない。
月明かりすら沈めてしまうような、
底の見えない深淵色。
水を滴らせながら、
それは次第に輪郭を持ち始める。
最初に見えたのは、
巨大な肩。
次に、
歪な兜。
そして、
墓標のような黒剣。
やがて、
“それ”は湖面へ立ち上がった。
人型。
だが、
人間などという尺度で測れる存在ではない。
五メートル近い漆黒の鎧。
肩が僅かに動くだけで、
湖面が重く沈む。
黒銀色の装甲表面を、
月光が鈍く滑っていく。
その度に、
まるで棺桶の蓋を擦るような、
低い金属音が夜へ響いた。
生気は無い。
呼吸も。
鼓動も。
ただ、
巨大な“死”だけが、
満月の湖へ静かに立っていた。
「……なんだ、あれは」
ロイドの掠れた声が漏れる。
その瞬間だった。
《スヴェード・クシフォス》が、
低く震える。
白銀の刀身へ、
黒い波紋が静かに走った。
「……?」
直後。
脳裏へ、
断片的な情報が流れ込んでくる。
⸻
《ネクロ・ガルディオン》
SS級。
月神守護兵装。
高位殲滅型。
⸻
「……っ!?」
ロイドの目が見開かれる。
流れ込んできた情報。
SS級。
高位殲滅型。
そこまでは、
まだ理解出来た。
だが。
⸻
月神守護兵装。
⸻
その単語だけが、
異様な重さを持って脳裏へ残る。
「……月神、だと……?」
掠れた声が、
無意識に漏れた。
背筋を冷たいものが走る。
月神。
それは、
この世界で最も深い禁忌の一つ。
ティーナ村で聞かされた神話。
月輪。
終焉残滓。
日蝕。
月神影響変異種。
そして、
ヒナの内側に眠る“何か”。
全てが、
一瞬で脳裏を過った。
目の前にいるのは、
ただの巨大鎧ではない。
神代から続く“月側”の兵器。
その事実だけで、
空気がさらに重く沈んだ気がした。
⸻
チャリ……
⸻
再び、
金属音。
《ネクロ・ガルディオン》が、
ゆっくりと黒剣を持ち上げる。
重い。
ただ持ち上げるだけの動作なのに、
まるで湖全体が軋んだようだった。
黒剣は、
あまりにも巨大だった。
剣というより、
墓標。
あるいは、
誰かの終焉そのものを削り出したような黒。
滴る湖水が刀身を伝い、
月光を鈍く歪めていく。
その動きには、
一切の迷いが無かった。
生者の剣ではない。
感情も。
殺意すらも超えた、
“処理”のためだけの動作。
ゆっくりと。
静かに。
黒剣が振り下ろされる。
音は無い。
風も鳴らない。
ただ。
空間だけが、
紙のように裂けた。
次の瞬間。
ロイドの本能が絶叫する。
視認より先に、
身体が動いていた。
コトハを抱えたまま、
横へ飛ぶ。
直後。
⸻
――――ッッッッ!!!!
⸻
轟音。
遅れて、
衝撃が炸裂する。
湖面が裂けた。
巨大な水柱が夜空へ噴き上がり、
岸辺の樹木がまとめて吹き飛ぶ。
圧縮された斬撃風が、
ロイドの頬を掠めた。
皮膚が裂け、
鮮血が散る。
「っ……!」
速い。
いや、
速過ぎる。
斬撃の後に、
音と衝撃が追い付いてくる。
視認より先に、
攻撃が到達している。
ロイドはコトハを抱えたまま着地し、
低く息を吐いた。
その時だった。
空気が、軋む。
次の瞬間。
湖周囲の空間へ、
黒銀色の紋様が静かに浮かび上がっていく。
幾重にも重なった術式。
月光を受けながら、
それはまるで巨大な檻のように、
湖全体を包み込んでいた。
ロイドの瞳が細くなる。
「……逃走阻害か」
低く漏れた声が、
静かな湖面へ沈んだ。
転移阻害。
空間封鎖。
侵入遮断。
空間そのものが、
歪められている。
踏み込んだ瞬間から、
ここは既に“閉じられていた”。
逃げ場は無い。
外へ出る事も。
外から侵入する事も出来ない。
満月の湖そのものが、
巨大な処刑場へ変えられている。
ロイドはゆっくりと周囲を見渡した。
黒銀の結界は、
まるで獲物を囲う牙のように、
静かに脈打っている。
理解する。
ゼクトが用意していたのは、
単なる待ち伏せではない。
“獲物の包囲網”。
救出されようが。
逃げられようが。
何か一つでも想定が崩れた瞬間、
全てを殺し切るための檻。
その中心へ置かれているのが――
月神守護兵装。
《ネクロ・ガルディオン》。
まるで最初から、
誰一人生かして返すつもりなど、
無かったかのように。




