第59話 影縫いの湖
満月の森を抜けた先。
ロイドは、
静かに女神の湖へ辿り着いていた。
空気が違う。
森を渡っていた夜風は、
湖畔へ近付いた途端、
まるで息を潜めたように消えていた。
音が無い。
木々の揺れる気配も。
虫の羽音も。
水のさざめきすら存在しない。
ただ、
白い月だけが、
鏡のような湖面へ静かに沈んでいる。
空と湖の境界が曖昧になるほど、
異様に澄み切った光景。
美しい。
なのに。
胸の奥が、
本能的な嫌悪で軋む。
ロイドはゆっくりと湖畔へ踏み込む。
その瞬間だった。
ぞわり、と。
肌を撫でる空気が変わった。
視線が細まる。
月明かりの中。
地面へ落ちた影だけが、
不自然に逆方向へ伸びていた。
「……影が逆だ」
低く零れた声が、
静まり返った湖へ沈んでいく。
ロイドは静かに目を細める。
月明かりが、
ふ、と揺れた。
その瞬間だった。
何も無かったはずの空間へ、
細い銀光が滲む。
糸。
いや。
あまりにも細過ぎて、
視線を逸らせば、
次の瞬間には見失ってしまいそうだった。
月光だけが、
その輪郭をかろうじて浮かび上がらせている。
一本。
二本。
そして、
気付けば無数。
森と湖。
木々と水面。
空間そのものを縫い留めるように、
銀色の線が静かに張り巡らされていた。
美しい、とすら思った。
だが。
肌へ触れる空気が告げている。
あれに触れれば終わる。
切断されるのは、
肉か。
骨か。
あるいは命そのものか。
ロイドは瞬き一つしなかった。
灰色の瞳だけが、
静かに湖畔をなぞっていく。
糸の位置。
僅かな空気の歪み。
月光の乱反射。
水面へ沈む影。
その全てを、
呼吸するように拾い上げていく。
踏み込めば斬られる。
触れれば終わる。
だが。
ロイドの足は止まらない。
恐怖ではなく、
思考だけが研ぎ澄まされていく。
どこなら抜けられる。
どこなら届く。
どこなら、
コトハを傷付けずに断てる。
計算。
判断。
選択。
それらが、
凄まじい速度で積み重なっていく。
そして。
ふ、と。
ロイドの呼吸が消えた。
肺の音すら、
夜へ溶ける。
気配が薄れる。
いや。
薄れたのではない。
周囲の静寂へ、
完全に同化した。
月光の中で、
ロイドだけが異様に静かだった。
生き物の温度も。
焦りも。
揺らぎも無い。
あるのはただ、
守るべきものへ辿り着くためだけの鋭さ。
その静けさは、
怯えでも迷いでもない。
守るべきものへ辿り着くため、
極限まで研ぎ澄まされた騎士の静寂だった。
その時だった。
湖の中央で、
何かが微かに揺れた。
月光に滲む、
小さな影。
ロイドの視線が細まる。
静かな湖面の上。
細い身体が、
まるで標本のように空中へ縫い留められていた。
両腕を吊り上げられ、
幾本もの銀糸が、
白い肌へ食い込んでいる。
風は無い。
なのに。
拘束された少女の髪だけが、
かすかに揺れていた。
コトハだった。
淡い月明かりが、
衰弱した横顔を静かに照らしている。
呼吸は浅い。
小さな肩が、
弱々しく上下するたび、
銀糸が微かに軋んだ。
胸の奥が、
嫌な音を立てる。
遅れれば、
壊れる。
ロイドは無意識に、
剣の柄を強く握っていた。
銀糸の中で、
コトハの呼吸が微かに揺れる。
浅い。
今にも途切れそうなほどに。
ロイドは、
一本の糸へ意図的に触れる。
ロイドの指先が、
銀糸へわずかに触れた。
瞬間。
ギィン――ッ!!
耳障りな金属音と共に、
月光そのものが弾ける。
空間を裂くような斬撃が、
一直線に走った。
速い。
視認した瞬間には、
既に首へ届いている。
だが。
そこに、
ロイドの姿は無かった。
半歩。
ただ、
それだけ。
水面を滑るように身体を流し、
斬撃の軌道から静かに外れていた。
遅れて。
白い飛沫が、
湖面へ細く散る。
切断された空気だけが、
静かな夜へ余韻のように残っていた。
斬撃を外した瞬間だった。
ロイドは、
微かな違和感に気付く。
息が乱れない。
胸を圧迫するような重さも無い。
むしろ。
この異様な湖へ踏み込んでからの方が、
感覚が鋭く澄み渡っていた。
月光が、
やけにはっきり見える。
銀糸の揺れ。
空気の流れ。
水面へ落ちる影。
その全てが、
異様なほど鮮明だった。
「……馴染んでいる?」
低く漏れた声。
本来なら。
こんな場所へ踏み込めば、
身体は鈍る。
感覚は狂い、
呼吸すら乱されるはずだった。
だが。
ロイドの身体は、
この異常な空気を拒絶していない。
それどころか。
まるで、
最初から知っていた景色のように、
静かに順応していた。
ティーナ村で過ごした日々。
月夜の戦闘。
幾度も浴び続けた、
あの村の空気。
知らぬ間に、
身体そのものが変わり始めていたのかもしれない。
ロイドは静かに目を細める。
だが、
今は考える必要は無かった。
助ける。
ただ、
それだけだった。
コトハの呼吸が、
さらに浅くなる。
ロイドは静かに息を吐いた。
「……失敗したら、
助からない」
呟きは、
白い月光の中へ静かに溶けていく。
迷いは無かった。
焦りも。
恐怖も。
ただ、
助けるという意志だけが、
研ぎ澄まされた刃のように胸の奥へ残っている。
ロイドの指先が、
《スヴェード・クシフォス》へ触れた。
瞬間。
白銀の光が、
静かに刀身を流れる。
まるで。
月光そのものが、
剣へ宿ったようだった。
淡い輝きが、
湖面へ細く反射する。
守りたい。
助けたい。
その感情へ呼応するように、
剣が微かに脈打った。
応えるように。
寄り添うように。
《スヴェード・クシフォス》は、
静かな共鳴音を夜へ滲ませていく。
そして。
ロイドが踏み込んだ。
湖面が弾ける。
次の瞬間には、
残光だけが夜へ置き去りにされていた。
速い。
否。
速過ぎる。
水飛沫が、
白い線となって宙へ舞う。
空気が裂ける。
王国流精密剣術。
そこへ、
《スヴェード・クシフォス》の異常な追従性が重なる。
白銀の斬光が、
空間を縫う銀糸だけを正確に切り裂いていく。
一筋も外さない。
一瞬も止まらない。
流れるような連撃。
まるで、
最初からそこに“断つべき線”だけが見えているようだった。
ギィンッ――!!
最後の拘束糸が断たれる。
その瞬間。
コトハの身体が、
ふわりと湖へ落下した。
月光。
飛沫。
白銀の反射。
静かな世界が、
一瞬だけ砕け散る。
だが。
次の瞬間には、
ロイドが湖上へ飛び込んでいた。
水面すれすれを滑るように加速し、
落下するコトハへ手を伸ばす。
白い飛沫が舞う。
そして。
ロイドは、
壊れ物を抱えるみたいに、
静かにコトハを抱き止めた。
ロイドの腕の中へ、
コトハの身体が落ちてくる。
軽かった。
驚くほどに。
抱き止めた瞬間、
腕へ伝わったのは、
少女一人分の重さではなく、
壊れかけた小鳥みたいな頼りなさだった。
胸の奥が、
鈍く軋む。
拘束されていた時間。
削られていた体力。
その全てが、
この異様な軽さへ滲んでいた。
コトハの身体は冷たい。
長く月光へ晒され続けていたせいか、
熱がほとんど残っていない。
濡れた指先は、
氷みたいに白かった。
ロイドは眉を寄せる。
無意識に。
抱き抱える腕へ、
わずかに力が籠もる。
「……コトハ」
呼び掛ける声は、
ひどく静かだった。
返事は無い。
ただ、
腕の中の少女は微動だにしない。
一瞬だけ、
胸の奥が冷える。
だが。
次の瞬間。
長い睫毛が、
かすかに震えた。
本当に、
わずかだった。
月明かりの揺らぎと見間違えるほど小さな反応。
それでも。
ロイドの張り詰めていた呼吸が、
ほんの少しだけ緩む。
まだ、
意識は残っている。
ロイドは小さく息を吐いた。
そのまま湖面を蹴る。
白い飛沫が、
月明かりの下で細く散った。
静まり返っていた湖へ、
遅れて波紋だけが広がっていく。
一歩。
二歩。
水面を滑るように駆け抜け、
ロイドは湖畔へ降り立つ。
土を踏み締めた瞬間だった。
――ぞわり。
空気が軋む。
ロイドの視線が鋭く細まった。
静かだった湖が、
ゆっくりと呼吸を始めている。
月明かりが揺れる。
断ち切ったはずの銀糸が、
水面の上で微かに震えていた。
嫌な感覚だった。
まるで。
湖そのものが、
目を覚まし始めているような。
ロイドはコトハを抱えたまま、
静かに湖中央へ視線を向ける。
その瞬間。
水面へ沈んでいた影が、
ゆっくりと黒く滲み始めた。
粘つくような闇。
月光を呑み込みながら、
それは静かに広がっていく。
ぞわり、と。
空気そのものが冷える。
肌へ絡み付くような悪寒。
ロイドの灰色の瞳が細まった。
そして。
月光の中心で。
“何か”が、
笑った気がした。




