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双月のヒナ 〜禁足地の戦乙女〜  作者: 哀川 とあ
1章  禁足地の少女
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第58話  見透かすもの



 満月だった。


 空に浮かぶ白い月は、

異様なほど近い。


 森全体へ、

濃密な月マナを静かに降らせている。


 風は弱い。


 けれど、

空気は重かった。


 肺の奥へ入り込むたび、

夜そのものを飲み込んでいるような感覚がある。


 ヒナは一人、

暗い森の中を歩いていた。


 足音はほとんど鳴らない。


 月光だけが、

白銀混じりの髪を淡く照らしている。


 静かだった。


 あまりにも静かで、

森そのものが息を潜めているようにすら感じる。


 その時だった。


「……お姉ちゃん」


 小さな声が、

木々の奥から響く。


 ヒナは足を止めた。


 暗い森の隙間。


 月明かりの下へ、

一人の少女が立っている。


 コトハだった。


 服は破れ、

怯えたように肩を震わせている。


 涙で濡れた瞳が、

助けを求めるみたいにヒナを見上げていた。


「……助けて」


 か細い声。


 どう見てもコトハだった。


 月明かりの下へ立つ小さな影。


 肩を震わせる癖も。


 不安そうに指先を握る仕草も。


 怯えた時に少しだけ浅くなる呼吸も。


 全部、

コトハそのものだった。


 泣きそうに揺れる声まで、

違和感がない。


 普通なら、

見抜けるはずがなかった。


 けれど。


 ヒナは静かに目を細める。


 違う。


 決定的に違う。


 その身体の奥で渦巻いている“何か”だけが、

あまりにも異質だった。


 冷たい。


 湿っている。


 粘つくように月夜へ溶け込みながら、

どこか輪郭が歪んでいる。


 生き物の流れじゃない。


 鼓動も。


 熱も。


 命の揺らぎもない。


 ただ、

形だけを真似している。


 満月だった。


 濃密な月マナが、

森全体へ深く満ちている。


 夜の気配が濃い。


 月光が差し込むたび、

世界そのものが青白く脈打って見えた。


 ヒナの感覚は、

異常なほど研ぎ澄まされていた。


 皮膚へ触れる風。


 葉擦れ。


 空気の流れ。


 血の温度。


 マナの揺らぎ。


 森の呼吸すら、

手に取るみたいに分かる。


 だからこそ、

誤魔化せない。


 “形”はコトハでも。


 その奥にいるものだけが、

決してコトハではなかった。


 ヒナは一歩も動かない。


 ただ静かに、

双剣へ指を掛ける。


 月光が、

白銀の刃を淡く照らした。


「……無駄なことはやめなよ」


 その瞬間。


 空気が変わった。


 ヒナの両手へ、

双剣《スウィフトネスブレイズ》が滑るように現れる。


 白銀の刃が、

満月の光を鋭く反射した。


 コトハだったものが、

ぴたりと動きを止める。


 ヒナの瞳が、

ゆっくりと赤く染まっていった。


 溢れ出したマナが、

周囲の空気を軋ませる。


 月が、

呼応するみたいに淡く脈打った。


 風向きが反転する。


 ざわり――と。


 草木が、

一斉にヒナ側へ引かれた。


 森そのものが、

彼女へ跪いているみたいだった。


「……見えてる?」


 その声が響いた瞬間。


 森の空気が、

ぬるり、と歪んだ。


 コトハの唇は笑っている。


 けれど。


 そこから漏れた声は、

もう少女のものではなかった。


 低い。


 湿っている。


 喉の奥へ泥を流し込まれるみたいな、

粘ついた男の声。


 ヒナは黙ったまま、

赤い瞳でそれを見つめている。


 次の瞬間だった。


 ぐしゃ――……と。


 コトハの首が、

内側から潰れるみたいに崩れた。


 細い喉が裂け。


 白い皮膚が波打ち。


 肉が、

生き物みたいに蠢き始める。


 骨が軋む音が、

静かな森へ湿っぽく響いた。


 ばき。


 みし。


 ぐちゅ、と。


 人間の形そのものが、

ゆっくり壊れていく。


 月光の下で、

少女の輪郭が溶けていく。


 頬が崩れ。


 腕が裂け。


 皮膚の下から、

黒い糸みたいな何かが無数に溢れ出した。


 どろり、と落ちた肉塊は、

地面へ触れる前に絡み合う。


 まるで巨大な蜘蛛が、

空中で巣を編み直しているみたいだった。


 糸が絡む。


 肉が引き攣る。


 骨格が無理矢理組み替わる。


 その中心で。


 ゆっくり。


 本当にゆっくりと、

一人の男の輪郭が形成されていく。


 長い腕。


 異様に細い身体。


 曖昧な境界。


 人間なのに、

どこか“人間として固定されていない”。


 顔だけが、

不気味に笑っていた。


 満月の光を浴びながら、

ゼクトは静かに首を傾ける。


 その笑みは、

まるで誰かの顔を貼り付けた仮面みたいに、

薄く、

気味が悪かった。


「妙なマナだぁ……」


 湿った声が、

静かな森へ溶けた。


「なんなんだ、

 オマエ」


 ヒナは何も答えない。


 笑いもしない。


 呼吸すら、

驚くほど静かだった。


 肩は揺れず。


 視線も動かない。


 まるで、

最初からそこに立っていた“夜”そのものみたいに、

ただ静かにゼクトを見つめている。


 けれど。


 その静寂の奥だけが、

異様だった。


 濃い。


 重い。


 空気へ滲み出した殺意が、

満月の森そのものをゆっくり侵食していく。


 月光が冷たい。


 風が止まっている。


 葉擦れすら、

もう遠い。


 世界から音だけが抜け落ちて、

ヒナの赤い瞳だけが、

暗闇の中で静かに揺れていた。


 ゼクトはその目を見る。


 瞬間。


 背筋の奥を、

冷たいものが撫でた。


 嫌な感覚だった。


 獣に見られている感覚に近い。


 違う。


 もっと深い。


 “見透かされている”。


 そんな感覚だった。


 ゼクトの笑みが、

ほんの僅かに薄れる。


 そして無意識に、

視線を逸らしていた。


 ――まともに見続けたくない。


 本能が、

そう告げていた。


 静寂が落ちる。


 満月の光だけが、

二人の間を青白く照らしていた。


 その時だった。


「あははっ」


 不意に。


 ヒナが笑った。


 唐突だった。


 肩を揺らすほどでもない。


 腹を抱えるような笑いでもない。


 ただ、

息が零れるみたいに小さく笑っただけ。


 なのに。


 静まり返った満月の森では、

その僅かな笑い声だけが妙に鮮明だった。


 月光へ薄く刃を滑らせたみたいに、

冷たく響く。


 ゼクトの眉が、

ぴくり、と揺れた。


 笑われる理由が分からない。


 見透かされているみたいで、

気味が悪い。


 湿った夜気が、

急に肌へ張り付く。


 ゼクトは笑みを貼り付け直すみたいに、

ゆっくり口角を吊り上げた。


「……何がおかしい?」


 ヒナはすぐには答えない。


 赤い瞳だけを細めながら、

ゼクトを見つめ続けている。


 まるで。


 面白いものでも見つけたみたいに。


 その笑みが。


 ゼクトには、

どうしようもなく不気味だった。


 馬鹿にされている訳じゃない。


 余裕を見せ付けられている訳でもない。


 もっと違う。


 目の前の存在が、

自分を“敵”としてすら見ていないような感覚。


 ぞわり、と。


 背筋の奥を、

冷たい悪寒が撫でていく。


 ゼクトの口元から、

僅かに笑みが消えた。


 それを誤魔化すみたいに、

湿った声で笑う。


「……その目、

 気持ち悪いなぁ」


 ヒナは静かに返した。


「そっちこそ」


 短い言葉。


 なのに。


 森の温度が、

一気に下がった気がした。


 ヒナは不意に、

左耳へ触れた。


 白い指先が、

赤い片耳飾りを静かに弾く。


 ――キン。


 澄んだ音だった。


 小さい。


 なのに。


 満月の森へ落ちた瞬間、

その音だけが異様なほど遠くまで響いていく。


 その瞬間だった。


 風が止まる。


 木々の揺れが、

ぴたりと消える。


 虫の声も。


 葉擦れも。


 全て。


 森から音だけが、

ゆっくり消えていく。


 静寂だった。


 耳が痛くなるほどの、

深い静寂。


 満月だけが、

白く世界を照らしている。


 その中心で。


 ヒナだけが、

静かに立っていた。


 ゼクトの笑みが、

僅かに固まる。


「……その音、

 嫌いなんだよねぇ」


 ヒナは答えない。


 ただ、

双剣を静かに構えた。


 次の瞬間だった。


 ゼクトの指先が、

ぬるり、と揺れる。


 同時に。


 無数の《月刃糸》が、

満月の森へ解き放たれた。


 銀色の細糸。


 月光を受けるたび、

青白く妖しく光る。


 細い。


 あまりにも細い。


 けれど。


 その一本一本から滲む殺気だけが、

異様に濃かった。


 ひゅ――……と。


 空気が裂ける。


 木々が断ち切られる。


 幹が滑るみたいに崩れ落ち、

地面へ細い裂傷が走った。


 糸が通った場所だけ、

世界そのものが切り取られていく。


 森全域が、

斬撃へ侵食されていった。


 逃げ場はない。


 普通なら。


 だが。


 ヒナだけは静かだった。


 赤い瞳が、

張り巡らされた死の糸を淡く映している。


 次の瞬間。


 白銀の残像だけを残し、

ヒナの姿が消えた。


 速い。


 あまりにも速い。


 けれど。


 音がない。


 地面を蹴ったはずなのに、

葉一枚揺れない。


 風すら遅れて追い掛けてくる。


 ヒナは、

無数の糸の隙間を滑るように駆け抜けていた。


 紙一重。


 本当に紙一重で、

首元を掠める糸を避けていく。


 白銀の髪が揺れる。


 月光が流れる。


 その姿だけが、

静かな満月の森を裂いていた。

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