第56話 ゼクト•ノクターン
女神の湖は、
満月の光を静かに映していた。
波一つない湖面。
白い月だけが、
冷たく揺れている。
その中央。
コトハの身体が、
夜空へ縫い付けられるみたいに吊るされていた。
細い糸だった。
月光を受けるたび、
銀色にも、
青白くも見える無数の糸。
コトハの細い手首へ絡み。
首筋へ這い。
足元まで静かに縫い留めている。
白い肌へ食い込む糸は、
まるで生き物みたいに微かに脈打っていた。
湖面を渡る風はない。
それなのに。
糸だけが、
ゆらりと揺れる。
そのたび。
水面へ映った満月も、
静かに歪んだ。
まるで。
女神の湖そのものが、
コトハを呑み込み、
逃がすまいとしているようだった。
⸻
湖畔には、
静かな月光だけが落ちていた。
白い光。
冷たい水面。
揺れる糸。
その静寂の中へ、
黒い影だけが、
不自然に溶け込んでいる。
湖畔の岩へ腰掛けるようにして、
男はコトハを見上げていた。
笑っている。
けれど。
目は笑っていない。
口元だけが、
裂けるみたいに歪んでいた。
愉快そうに。
楽しそうに。
まるで。
壊れる寸前の玩具を眺める子供みたいな目で。
「お前の姉、
ちゃんと言われた通り一人で来てるよぉ?」
湖畔へ響くゼクトの声は、
妙に愉快そうだった。
その笑い声だけが、
静まり返った湖で不気味に響いている。
⸻
コトハは何も答えなかった。
答えたくなかった。
声を出した瞬間、
心の奥まで震えてしまいそうだったから。
細い身体は、
止められないほど小さく震えている。
喉へ絡み付いた糸が、
呼吸のたびに微かに食い込んだ。
痛い。
熱い。
なのに、
身体の芯だけが冷えていく。
怖かった。
どうしようもなく。
息を吸うたび、
胸の奥へ冷たい水が流れ込んでくるみたいだった。
泣きそうになる。
今すぐ目を閉じて、
蹲ってしまいたくなる。
けれど。
それだけは嫌だった。
俯きたくない。
涙なんて、
絶対に見せたくなかった。
震える瞳のまま。
喉を締め付ける恐怖ごと睨み返すように。
コトハは、
真っ直ぐゼクトを見つめ続ける。
――お姉ちゃんが来る。
胸の奥で、
何度も繰り返す。
きっと。
きっと来てくれる。
どれだけ怖くても。
どれだけ苦しくても。
その想いだけを、
小さな胸の奥で必死に抱き締めながら。
⸻
「っはは……」
静かな湖畔へ、
ゼクトの笑い声だけが滲む。
細い指先が、
ゆっくり持ち上がった。
月光を受けた糸が、
ぴん、と小さく震える。
それはまるで。
獲物の喉元へ牙を当て、
反応を楽しんでいるみたいな仕草だった。
ゼクトは細く目を細める。
「良い人間ほど、
壊れる瞬間が綺麗なんだぁ?」
愉快そうな声。
けれど。
その目だけは、
ひどく冷たい。
その目は、
まるで壊れる瞬間だけを待っているみたいだった。
恐怖も。
痛みも。
涙も。
希望すら。
全部、
砕け散る瞬間を見たくて堪らない――
そんな歪んだ愉悦が、
月光の奥で静かに滲んでいる。
ぴん――。
不意に、
糸が小さく鳴った。
月明かりを受けた細糸が、
生き物みたいに微かに震える。
次の瞬間。
「っ……!」
喉へ絡み付いていた糸が、
ゆっくりと食い込んだ。
白い肌へ、
赤い線が細く走る。
熱い。
鋭い痛みなのに、
焼けるみたいな熱だけが残る。
首筋を裂くような感覚に、
コトハの肩が小さく震えた。
呼吸が乱れそうになる。
怖い。
苦しい。
それでも。
悲鳴だけは、
絶対に漏らさなかった。
涙も流さない。
震える唇を噛み締めたまま、
コトハは真っ直ぐゼクトを睨み返している。
その姿を見て。
ゼクトは、
喉の奥で嬉しそうに笑った。
「そういう顔、
大好きなんだぁ」
⸻
ゼクトの声が、
静かな湖畔へ粘つくみたいに滲む。
ゆっくり立ち上がる。
黒い外套が、
風もない夜の中で、
ぬるりと揺れた。
コトハは小さく息を呑む。
近付いてくる。
一歩。
また一歩。
わざと足音を聞かせるみたいに、
ゆっくりと。
逃げられない事を、
恐怖ごと身体へ刻み込むみたいに。
月光を受けた糸が、
ぴん、と細く震える。
ゼクトは見上げていた。
怯えながらも、
必死に涙を堪えるコトハの顔を。
その表情を味わうみたいに、
細く目を細めながら。
「そうだぁ……」
ゼクトが、
楽しそうに呟く。
ゆっくり。
ゆっくりと。
コトハの耳元へ視線を滑らせた。
月光を受けた瞳が、
いやに濡れて見える。
「耳ごと陽輪を切り落としたら、
どんな顔するかなぁ……?」
コトハの肩が小さく震えた。
けれど。
視線だけは逸らさない。
ゼクトは、
そんな反応すら愛おしむみたいに笑う。
「オマエと姉を並べてぇ……
あのお方への土産にするのも綺麗だよねぇ?」
ぞわり、と。
湖畔の空気が冷えた。
コトハは唇を噛み締める。
怖い。
身体が震える。
それでも。
「……お姉ちゃんは、
負けない……!」
⸻
一瞬だけ。
ゼクトの笑みが止まった。
静寂。
波一つない湖面へ、
満月だけが白く揺れている。
やがて。
「っはは……!」
喉の奥で、
愉快そうな笑い声が漏れた。
「やっぱり姉妹だねぇ」
細い指先が、
また小さく揺れる。
ピン――。
糸が震えた瞬間、
今度は首筋へ浅い傷が走った。
「っ……!」
コトハの身体が小さく強張る。
それでも。
俯かない。
涙も見せない。
ゼクトは、
そんな姿をじっと見上げていた。
壊れる寸前の光を、
心底楽しむみたいに。
⸻
不意に。
ゼクトの笑みが止まった。
「……ん?」
細く目を細める。
視線が、
ゆっくり森の奥へ向いた。
空気が揺れている。
満月の夜。
濃密な月側マナが、
湖畔一帯へ霧みたいに満ちていた。
森も。
湖も。
地面の下すら。
静かに脈打っているように感じる。
その流れの中へ。
ほんの僅か。
小さな“ズレ”が混じった。
ゼクトは首を傾げる。
「気配が滲む……?」
月光を受けた糸が、
ぴん、と小さく震えた。
索敵を広げている。
森全体へ、
意識を薄く這わせるみたいに。
だが。
掴めない。
満月によって増幅した月側マナが、
視界そのものを歪ませていた。
女神の湖周辺特有の、
反転したマナ流。
そこへ、
ヒナから溢れる異質すぎるマナまで重なっている。
強すぎる月の気配が、
逆に細かな違和感を呑み込んでいた。
数秒。
ゼクトは黙ったまま、
森の奥を見つめていた。
月光だけが、
静かな湖面で揺れている。
やがて。
ふっ、と。
口元だけが吊り上がった。
「まぁ……
いいかぁ」
愉快そうに肩を揺らす。
細い指先が、
また小さく糸を揺らした。
ピン――。
張り詰めた音が、
湖畔へ細く響く。
「待ってようと思ったけどぉ……」
くすり、と。
喉の奥で笑う。
「予定が変わることって、
よくあるよねぇ……?」
月光の下で、
黒い影がゆらりと揺れた。
「誰が隠れてたとしても、
ボクには勝てないしねぇ?」
その声は軽い。
だが。
そこにあるのは、
絶対的な自信だった。
⸻
ゼクトはゆっくり振り返る。
月光を背負った姿が、
黒く滲む。
「そろそろ、
お姉ちゃんを迎えに行かないとぉ」
楽しそうに笑う。
「ボク、
こう見えて紳士なんだよぉ?」
一歩。
後ろへ下がる。
「レディは待たせちゃダメでしょぉ?」
次の瞬間。
ふっ、と。
ゼクトの輪郭が、
夜へ溶けた。
音もない。
気配もない。
ただ。
そこにいた“影”だけが、
静かに消えていく。
⸻
湖畔へ、
再び静寂が戻った。
コトハは小さく息を呑む。
震える身体を、
必死に押さえ込んだ。
(お姉ちゃん……)
祈るみたいに、
小さく目を閉じる。
どうか無事で。
どうか――。




