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双月のヒナ 〜禁足地の戦乙女〜  作者: 哀川 とあ
1章  禁足地の少女
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第56話  ゼクト•ノクターン



 女神の湖は、

満月の光を静かに映していた。


 波一つない湖面。


 白い月だけが、

冷たく揺れている。


 その中央。


 コトハの身体が、

夜空へ縫い付けられるみたいに吊るされていた。


 細い糸だった。


 月光を受けるたび、

銀色にも、

青白くも見える無数の糸。


 コトハの細い手首へ絡み。


 首筋へ這い。


 足元まで静かに縫い留めている。


 白い肌へ食い込む糸は、

まるで生き物みたいに微かに脈打っていた。


 湖面を渡る風はない。


 それなのに。


 糸だけが、

ゆらりと揺れる。


 そのたび。


 水面へ映った満月も、

静かに歪んだ。


 まるで。


 女神の湖そのものが、

コトハを呑み込み、

逃がすまいとしているようだった。


⸻


 湖畔には、

静かな月光だけが落ちていた。


 白い光。


 冷たい水面。


 揺れる糸。


 その静寂の中へ、

黒い影だけが、

不自然に溶け込んでいる。


 湖畔の岩へ腰掛けるようにして、

男はコトハを見上げていた。


 笑っている。


 けれど。


 目は笑っていない。


 口元だけが、

裂けるみたいに歪んでいた。


 愉快そうに。


 楽しそうに。


 まるで。


 壊れる寸前の玩具を眺める子供みたいな目で。


「お前の姉、

 ちゃんと言われた通り一人で来てるよぉ?」


 湖畔へ響くゼクトの声は、

妙に愉快そうだった。


 その笑い声だけが、

静まり返った湖で不気味に響いている。


⸻


 コトハは何も答えなかった。


 答えたくなかった。


 声を出した瞬間、

心の奥まで震えてしまいそうだったから。


 細い身体は、

止められないほど小さく震えている。


 喉へ絡み付いた糸が、

呼吸のたびに微かに食い込んだ。


 痛い。


 熱い。


 なのに、

身体の芯だけが冷えていく。


 怖かった。


 どうしようもなく。


 息を吸うたび、

胸の奥へ冷たい水が流れ込んでくるみたいだった。


 泣きそうになる。


 今すぐ目を閉じて、

蹲ってしまいたくなる。


 けれど。


 それだけは嫌だった。


 俯きたくない。


 涙なんて、

絶対に見せたくなかった。


 震える瞳のまま。


 喉を締め付ける恐怖ごと睨み返すように。


 コトハは、

真っ直ぐゼクトを見つめ続ける。


 ――お姉ちゃんが来る。


 胸の奥で、

何度も繰り返す。


 きっと。


 きっと来てくれる。


 どれだけ怖くても。


 どれだけ苦しくても。


 その想いだけを、

小さな胸の奥で必死に抱き締めながら。


⸻


「っはは……」


 静かな湖畔へ、

ゼクトの笑い声だけが滲む。


 細い指先が、

ゆっくり持ち上がった。


 月光を受けた糸が、

ぴん、と小さく震える。


 それはまるで。


 獲物の喉元へ牙を当て、

反応を楽しんでいるみたいな仕草だった。


 ゼクトは細く目を細める。


「良い人間ほど、

 壊れる瞬間が綺麗なんだぁ?」


 愉快そうな声。


 けれど。


 その目だけは、

ひどく冷たい。


 その目は、

まるで壊れる瞬間だけを待っているみたいだった。


 恐怖も。


 痛みも。


 涙も。


 希望すら。


 全部、

砕け散る瞬間を見たくて堪らない――


 そんな歪んだ愉悦が、

月光の奥で静かに滲んでいる。


 ぴん――。


 不意に、

糸が小さく鳴った。


 月明かりを受けた細糸が、

生き物みたいに微かに震える。


 次の瞬間。


「っ……!」


 喉へ絡み付いていた糸が、

ゆっくりと食い込んだ。


 白い肌へ、

赤い線が細く走る。


 熱い。


 鋭い痛みなのに、

焼けるみたいな熱だけが残る。


 首筋を裂くような感覚に、

コトハの肩が小さく震えた。


 呼吸が乱れそうになる。


 怖い。


 苦しい。


 それでも。


 悲鳴だけは、

絶対に漏らさなかった。


 涙も流さない。


 震える唇を噛み締めたまま、

コトハは真っ直ぐゼクトを睨み返している。


 その姿を見て。


 ゼクトは、

喉の奥で嬉しそうに笑った。


「そういう顔、

 大好きなんだぁ」


⸻


 ゼクトの声が、

静かな湖畔へ粘つくみたいに滲む。


 ゆっくり立ち上がる。


 黒い外套が、

風もない夜の中で、

ぬるりと揺れた。


 コトハは小さく息を呑む。


 近付いてくる。


 一歩。


 また一歩。


 わざと足音を聞かせるみたいに、

ゆっくりと。


 逃げられない事を、

恐怖ごと身体へ刻み込むみたいに。


 月光を受けた糸が、

ぴん、と細く震える。


 ゼクトは見上げていた。


 怯えながらも、

必死に涙を堪えるコトハの顔を。


 その表情を味わうみたいに、

細く目を細めながら。


「そうだぁ……」


 ゼクトが、

楽しそうに呟く。


 ゆっくり。


 ゆっくりと。


 コトハの耳元へ視線を滑らせた。


 月光を受けた瞳が、

いやに濡れて見える。


「耳ごと陽輪を切り落としたら、

 どんな顔するかなぁ……?」


 コトハの肩が小さく震えた。


 けれど。


 視線だけは逸らさない。


 ゼクトは、

そんな反応すら愛おしむみたいに笑う。


「オマエと姉を並べてぇ……

 あのお方への土産にするのも綺麗だよねぇ?」


 ぞわり、と。


 湖畔の空気が冷えた。


 コトハは唇を噛み締める。


 怖い。


 身体が震える。


 それでも。


「……お姉ちゃんは、

 負けない……!」


⸻


 一瞬だけ。


 ゼクトの笑みが止まった。


 静寂。


 波一つない湖面へ、

満月だけが白く揺れている。


 やがて。


「っはは……!」


 喉の奥で、

愉快そうな笑い声が漏れた。


「やっぱり姉妹だねぇ」


 細い指先が、

また小さく揺れる。


 ピン――。


 糸が震えた瞬間、

今度は首筋へ浅い傷が走った。


「っ……!」


 コトハの身体が小さく強張る。


 それでも。


 俯かない。


 涙も見せない。


 ゼクトは、

そんな姿をじっと見上げていた。


 壊れる寸前の光を、

心底楽しむみたいに。


⸻


 不意に。


 ゼクトの笑みが止まった。


「……ん?」


 細く目を細める。


 視線が、

ゆっくり森の奥へ向いた。


 空気が揺れている。


 満月の夜。


 濃密な月側マナが、

湖畔一帯へ霧みたいに満ちていた。


 森も。


 湖も。


 地面の下すら。


 静かに脈打っているように感じる。


 その流れの中へ。


 ほんの僅か。


 小さな“ズレ”が混じった。


 ゼクトは首を傾げる。


「気配が滲む……?」


 月光を受けた糸が、

ぴん、と小さく震えた。


 索敵を広げている。


 森全体へ、

意識を薄く這わせるみたいに。


 だが。


 掴めない。


 満月によって増幅した月側マナが、

視界そのものを歪ませていた。


 女神の湖周辺特有の、

反転したマナ流。


 そこへ、

ヒナから溢れる異質すぎるマナまで重なっている。


 強すぎる月の気配が、

逆に細かな違和感を呑み込んでいた。


 数秒。


 ゼクトは黙ったまま、

森の奥を見つめていた。


 月光だけが、

静かな湖面で揺れている。


 やがて。


 ふっ、と。


 口元だけが吊り上がった。


「まぁ……

 いいかぁ」


 愉快そうに肩を揺らす。


 細い指先が、

また小さく糸を揺らした。


 ピン――。


 張り詰めた音が、

湖畔へ細く響く。


「待ってようと思ったけどぉ……」


 くすり、と。


 喉の奥で笑う。


「予定が変わることって、

 よくあるよねぇ……?」


 月光の下で、

黒い影がゆらりと揺れた。


「誰が隠れてたとしても、

 ボクには勝てないしねぇ?」


 その声は軽い。


 だが。


 そこにあるのは、

絶対的な自信だった。


⸻


 ゼクトはゆっくり振り返る。


 月光を背負った姿が、

黒く滲む。


「そろそろ、

 お姉ちゃんを迎えに行かないとぉ」


 楽しそうに笑う。


「ボク、

 こう見えて紳士なんだよぉ?」


 一歩。


 後ろへ下がる。


「レディは待たせちゃダメでしょぉ?」


 次の瞬間。


 ふっ、と。


 ゼクトの輪郭が、

夜へ溶けた。


 音もない。


 気配もない。


 ただ。


 そこにいた“影”だけが、

静かに消えていく。


⸻


 湖畔へ、

再び静寂が戻った。


 コトハは小さく息を呑む。


 震える身体を、

必死に押さえ込んだ。


(お姉ちゃん……)


 祈るみたいに、

小さく目を閉じる。


 どうか無事で。


 どうか――。

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