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双月のヒナ 〜禁足地の戦乙女〜  作者: 哀川 とあ
1章  禁足地の少女
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第55話  聞かれる森



 満月が森を照らしていた。


 白い月明かりが、

木々の隙間を静かに流れている。


 冷たい夜風。


 湿った土の匂い。


 なのに。


 森は妙なほど静かだった。


 虫の声が無い。


 枝も揺れない。


 何かが潜んでいる――

そんな気配だけが、

夜の奥に沈んでいた。


 その森を、

ヒナとロイドは並んで歩いていた。


 向かう先は、

女神の湖。


 満月の夜だけ、

“月側”へ傾く場所。


 ヒナは隠れない。


 むしろ、

わざと気配を出している。


 ゼクトへ見つけさせるための囮。


 一方で、

ロイドの存在は薄かった。


 首元の《影縫いの首飾り》が、

気配もマナも、

夜の影へ溶かしている。


 隣を歩いているはずなのに、

視線を外すと、

時々どこにいるかわからなくなるほどだった。


 不意に、

ヒナが小さく呟く。


「……見られてる」


 ロイドが周囲を見る。


 だが、

何もいない。


 木々の奥も、

闇の中も、

ただ静かだった。


「ゼクト?」


 ヒナが頷く。


「うん」


「森全体に索敵張ってる感じ」


 軽く言ったその声とは裏腹に、

空気は張り詰めていた。


 さらに湖へ近付く。


 その瞬間だった。


 ふ、と。


 世界から音が消えた。


 風が止む。


 葉が揺れない。


 さっきまで微かに聞こえていた虫の音も、

いつの間にか途切れている。


 静か。


 あまりにも静かだった。


 まるで、

森そのものが呼吸を止めたみたいに。


 ヒナのブーツが土を踏む。


 ザリ――


 その小さな音だけが、

妙に大きく夜へ響いた。


 ロイドは思わず眉を寄せる。


 耳が痛いほどの静寂。


 普通の“無音”じゃない。


 何かに包まれているような、

押さえ付けられているような感覚。


 湖へ近付くほど、

空気が重くなっていく。


 月光だけが白く滲み、

森の奥は底無しみたいに暗い。


 ロイドが低く呟く。


「……静かすぎる」


 するとヒナは、

ゆっくり首を横へ振った。


「違う」


 一瞬。


 白銀混じりの髪が、

月明かりを流した。


 ヒナは湖の奥を見たまま、

静かに言う。


「“聞かれてる”」


 その声は小さかった。


 けれど、

静まり返った森の中では、

妙に鮮明に耳へ残った。


 ロイドの背筋を、

冷たいものがゆっくり撫でていく。


 満月。


 女神の湖。


 この場所は今、

完全に“月側”へ傾いていた。


 空気そのものに、

濃い月神系マナが滲んでいる。


 重い。


 湿っている。


 肌へまとわり付くみたいに、

夜そのものが粘ついていた。


 本来なら、

索敵能力は極限まで鋭くなる。


 月側マナは、

気配や感情の揺れを拾いやすい。


 呼吸。


 鼓動。


 視線。


 殺気。


 そういう“生き物の輪郭”を、

夜の中から浮かび上がらせる。


 だからゼクトは、

森全体を“聞いて”いた。


 目じゃない。


 耳でもない。


 空間へ広げた月側マナそのものが、

侵入者を探している。


 だが。


 今夜の女神の湖は、

逆に月側マナが濃すぎた。


 空間そのものが歪んでいる。


 距離感が狂う。


 方向感覚が揺らぐ。


 気配の輪郭が滲む。


 森と影と月光の境界が、

曖昧になっていた。


 まるで、

水面へ墨を落としたみたいに。


 だからこそ、

《影縫いの首飾り》が噛み合う。


 ロイドの気配は、

“消える”わけじゃない。


 夜へ溶ける。


 境界が曖昧になるこの空間では、

存在そのものが背景へ紛れていく。


 ヒナの強い存在感へ重なる事で、

なおさら輪郭が薄くなる。


 実際、

ヒナですら時々ロイドを見失っていた。


 隣を歩いている。


 足音も聞こえる。


 気配だって、

完全に消えているわけじゃない。


 なのに。


 視線を外した瞬間、

そこにいたはずの存在が、

夜へ溶ける。


 認識だけが滑るのだ。


 月光。


 木々の影。


 揺れる闇。


 その全部へ、

ロイドの輪郭が滲んでいく。


 《影縫いの首飾り》。


 あれは単純に気配を消す道具じゃない。


 “存在を背景へ紛れ込ませる”。


 そんな異質さを持っていた。


 まして今夜は満月。


 女神の湖周辺は、

月側マナで空間そのものが揺らいでいる。


 境界が曖昧になる。


 光と影。


 距離と方向。


 存在と空間。


 その全部が、

少しだけズレていた。


 だからロイドは、

森へ溶け込んでいた。


 夜そのものみたいに。


 ヒナが前を歩く。


 濃いマナ。


 強い存在感。


 月光の下でも異様なほど目立つその気配へ、

ロイドが静かに重なる。


 強い光の隣ほど、

影は深くなる。


 視線を外した瞬間、

ロイドの輪郭は森へ沈み、

どこにいるのかわからなくなる。


 ヒナは一度だけ後ろを見た。


 月明かりの中。


 ロイドはそこにいる。


 けれど、

ぼやけて見えた。


 白い月光へ、

その存在が薄く滲んでいる。


 まるで、

夜が人の形をしているみたいだった。


 数秒だけ見つめる。


 そしてヒナは、

小さく息を吐いた。


「……大丈夫」


 不安は無い。


 確認でもない。


 ロイドなら、

必ずコトハへ辿り着く。


 そう信じているからこそ、

ヒナは前を向いた。


 その時だった。


 ――ドクン。


 不意に、

ヒナの鼓動が大きく跳ねた。


 足が止まる。


 白い月光の中で、

ヒナだけが僅かに動きを止めていた。


 ロイドがすぐ声を潜める。


「どうした?」


 返事は無い。


 ヒナはただ、

湖の奥を見つめていた。


 静かな水面。


 月を映した白い湖。


 風も無い。


 波紋一つ無い。


 世界そのものが、

凍り付いているみたいだった。


 なのに。


 胸の奥だけが、

嫌にざわつく。


 視線の先に、

“何か”がいる気がした。


 ロイドにはわからない。


 殺気も無い。


 気配も感じない。


 ただ静かな夜が広がっているだけだ。


「何がだ?」


 ヒナは小さく眉を寄せた。


「……わかんない」


 本当に、

わからなかった。


 敵の気配じゃない。


 殺意でもない。


 もっと曖昧で、

もっと嫌な何か。


 月光の下で、

空間そのものが歪んで見える。


 湖の奥。


 あの静寂の向こう側に、

“触れてはいけない何か”がある。


 そんな感覚だけが、

肌へまとわり付いていた。


 ヒナは無意識に、

左耳の《陽輪》へ触れかける。


 だが途中で止める。


 今は、

そっちじゃない。


 優先するべきは、

コトハの救出だ。


 立ち止まっている暇は無い。


 ヒナは小さく息を吐く。


 長く。


 静かに。


 そして目を伏せた。


「……今はいい」


 その声だけが、

やけに静かだった。


 再び歩き出す。


 ザリ――


 白い月光の下、

二人の足音だけが森へ沈んでいく。


 満月だけが、

何も言わず、

静かにその背を見下ろしていた。

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