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双月のヒナ 〜禁足地の戦乙女〜  作者: 哀川 とあ
1章  禁足地の少女
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第50話  誰も傷つけさせない



 その瞬間。


 《エクリプス・ドラグ》が咆哮した。


 音というより、

“侵食”だった。


 黒く淀んだ月色のマナが、

波みたいに周囲へ広がっていく。


 空が軋む。


 大地が震える。


 そして。


 世界から、

音が消えた。


 侵食の波が、

空間そのものを軋ませる。


 ロイドの膝が崩れた。


 肺へ入り込む空気が重い。


 視界が揺れる。


 耳鳴りみたいな低音が、

頭蓋の奥で不快に響いていた。


 温度が下がる。


 遠くで、

村人達が苦しそうに耳を押さえていた。


 マナそのものが悲鳴を上げている。


 だが。


 異変は、

ヒナにも起きていた。


 僅かに呼吸が乱れる。


 動きが、

ほんの一瞬だけ鈍った。


 コトハを攫われた焦燥。


 ゼクトへの警戒。


 陽輪。


 月輪。


 神殿で突き付けられた真実。


 積み重なった疲弊が、

静かに精神を削っていた。


 そして。


 その“一瞬”を、

特異個体は見逃さない。


 空気が爆ぜた。


 黒い残光。


 次の瞬間には、

《エクリプス・ドラグ》がヒナへ喰らいついていた。


 ヒナは反射的に身体を捻る。


 紙一重。


 牙が頬先を掠め、

ボレロの端を噛み裂いた。


 布が裂ける。


 白い肌が覗く。


 薄く、

赤い線が走った。


 だが。


 血は出ていない。


 その瞬間。


 ヒナの視線が、

裂けた布地へ吸い寄せられた。


 無意識だった。


 ロイドの脳裏へ、

神殿で聞いた言葉が蘇る。


『絶対に、

 血を流させるな』


 背筋が冷えた。


 もし、

今ここでヒナが傷付けば。


 もし、

血が流れれば。


 胸の奥で、

本能みたいな恐怖が警鐘を鳴らしていた。


 胸の奥で鳴り続けていた恐怖が、

一気に熱へ変わる。


 思考が焼ける。


 理性より先に、

身体が動いていた。


「――おおおおおおっ!!」


 ロイドが地面を砕きながら踏み込む。


 怒り。


 恐怖。


 守らなければならないという衝動。


 その全てへ呼応するみたいに、

《スヴェード・クシフォス》が眩く唸った。


 剣身から、

制御し切れない光が溢れ出す。


 白い斬光。


 暴風。


 本来なら狙わないはずの方向へまで、

圧縮された光刃が無数に飛び散った。


 荒れている。


 剣も。


 ロイド自身も。


 ほんの一瞬。


 その暴走で生まれた隙を、

特異個体は見逃さなかった。


 黒い尾が、

空気を裂く。


 視認した時には、

もう遅い。


 轟音。


 ロイドの身体が横殴りに吹き飛ばされた。


 肺から空気が抜ける。


 景色が回転する。


 だが。


 次の瞬間。


 白い影が、

視界へ割り込んだ。


「――ロイ!!」


 ヒナだった。


 ロイドを庇うみたいに、

強引に身体を差し込んでくる。


 直後。


 凄まじい衝撃。


 二人まとめて、

民家の外壁へ叩きつけられた。


 木材が砕ける。


 壁が崩れる。


 砂煙が一気に吹き荒れた。


「――ロイ!!

 大丈夫!?」


 崩れた木材の隙間から、

ヒナの声が響く。


 近い。


 耳元で直接呼ばれているみたいだった。


 視界はまだ揺れている。


 肺が熱い。


 全身へ鈍い痛みが走っていた。


 だが。


 何か柔らかい感触が、

頬と胸元へ触れている。


 妙に近い。


 温かい。


 ロイドは重い瞼をゆっくり開けた。


「……っ」


 目の前。


 至近距離に、

ヒナの顔があった。


 白銀混じりの亜麻色の髪。


 乱れた呼吸。


 薄く汗を滲ませた白い肌。


 そして。


 自分は、

ヒナへ覆い被さる形になっていた。


 ロイドの下で、

ヒナがキョトンとした顔をしている。


 しかも。


 ロイドの手は、

しっかりとヒナの胸を押していた。


 柔らかい感触の正体を理解した瞬間。


 ロイドの思考が停止する。


「…………」


 ヒナは数秒ほど瞬きを繰り返し。


 それから、

少し困ったみたいに笑った。


「うんと……

 どいてくれるかな?ロイ?」


「――っ!?」


 ロイドの顔が一瞬で真っ赤になる。


 慌てて飛び退く。


「す、すまん!!」


 声が裏返った。


 だが。


 ヒナは胸元を軽く払っただけで、

すぐ真顔へ戻る。


 青と金の瞳が、

再び特異個体を睨んだ。


 遠くで。


 黒い咆哮が、

再び空気を震わせていた。


 次の瞬間。


 崩れた家屋の向こう側を、

黒い残光が高速で駆け抜ける。


 轟音。


 村の外壁が抉り飛んだ。


 土煙。


 衝撃波。


 ヒナが小さく舌打ちする。


「……速い」


 しかも。


 特異個体は、

先程より明らかにマナ出力を上げていた。


 空間そのものが軋み、

黒い月色マナが周囲を侵食していく。


 地面へ降り立った《エクリプス・ドラグ》が、

低く唸る。


 砕けた石畳を爪で削りながら、

濁った黄金の瞳が、

真っ直ぐヒナだけを見据えていた。


 まるで。


 “陽輪”そのものへ反応しているみたいに。


 次の瞬間にも、

喰らいついてきそうな殺気。


 このまま長引けば、

村そのものが持たない。


 ヒナは静かに《陽輪》へ触れる。


 ――キン。


 だが。


 すぐには動かなかった。


 青と金の瞳が、

僅かに揺れる。


「……光の剣なら、

 仕留められる」


「だけど……

 詠唱時間が足りない」


 ロイドはゆっくり息を吸った。


 肺が熱い。


 全身が痛む。


 だが。


 目の前のヒナの方が、

遥かに消耗している事だけは分かった。


 呼吸。


 汗。


 揺れる視線。


 それでも。


 ヒナは、

一歩も退こうとしていない。


 ロイドは《スヴェード・クシフォス》を握り直した。


 剣身が低く唸る。


 まるで。


 こちらの覚悟を試しているみたいだった。


「……どれくらい必要だ」


 ヒナがロイドを見る。


「数秒」


「ちゃんと詠唱出来れば、

 今度こそ終わらせられる」


 その瞬間。


 特異個体が地面を砕いた。


 爆音。


 黒い残光が、

一直線にヒナへ迫る。


 速い。


 さっきより更に。


 ロイドは反射的に前へ出た。


「ヒナ!!

 下がれ!!」


 《スヴェード・クシフォス》を振り抜く。


 白い斬光。


 だが。


 特異個体はそれを紙一重で回避した。


 黒い尾が唸る。


 ロイドは咄嗟に剣で受ける。


 凄まじい衝撃。


 足元の石畳が砕け散る。


 腕が痺れる。


 重い。


 速い。


 だが。


 退けない。


 背後には、

ヒナがいる。


 その瞬間だった。


 《スヴェード・クシフォス》が、

再び眩く発光する。


 守りたい。


 傷付けさせたくない。


 その感情へ呼応するみたいに、

白いマナがロイドの周囲へ溢れ始めた。


 風が吹く。


 白い残光が、

翼みたいに背後へ広がった。


 ヒナが目を見開く。


「……ロイ?」


 ロイド自身も、

何が起きているのか理解出来ていなかった。


 ただ。


 身体だけが異様に軽い。


 景色が遅い。


 マナの流れが、

手に取るみたいに見える。


 次の瞬間。


 ロイドは消えた。


 否。


 速過ぎて、

見えなかった。


 白い閃光。


 超高速斬撃。


 《エクリプス・ドラグ》の巨体へ、

無数の光条が叩き込まれる。


 空気が裂ける。


 衝撃波が村中を揺らした。


「――この光は、

 誰も傷付けさせない!!」


 《光翼連斬》。


 白い残光が翼みたいに広がり、

暴風のような連撃が特異個体を押し返していく。


 特異個体が初めて後退した。


 地面を削りながら、

低い咆哮を漏らす。


 その隙。


 ヒナが静かに目を閉じる。


 左耳の《陽輪》へ触れる。


 ――キン。


 澄んだ音が、

夕暮れの空気へ静かに溶けた。

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