第48話 無へ還もの
ロイドは、
自然と姿勢を正していた。
神殿の外では、
まだ戦闘音が響いている。
だがここだけ、
空気が妙に静かだった。
揺れる灯り。
湿った石壁。
ミツキは少し迷うみたいに視線を伏せ、
それから静かに口を開いた。
「……ヒナの中に、
何かがいるって話はしたわよね?」
「ああ」
ロイドは短く頷く。
ユヅキが古文書へ指先を滑らせる。
「あの子の戦い……
貴方、
どこまで見えてる?」
ロイドは少し考え込んだ。
「……正直、
最初は全く見えなかった」
「でも最近は、
少しだけ追えるようになってきた」
「異常なくらい速い」
「それに……
被弾を極端に嫌ってる」
ミツキの目が、
ほんの僅かに揺れた。
「そうなるように、
育っちゃったのよ」
静かな声だった。
「ヒナは昔、
一度だけ死の淵を彷徨うような
大怪我をした事があるの……」
「……あのヒナが?」
ロイドは思わず目を見開く。
ミツキは静かに頷いた。
「その時にね……」
「あの子は……
何かに導かれるみたいに……」
「自分の血を……
舐めたの……」
神殿の空気が、
一瞬で冷えた気がした。
「六歳の頃よ」
「モンスターとの戦いで怪我をして……
口元へ流れた血を、
舐めてしまった」
ミツキは、
ゆっくり拳を握る。
「あの瞬間、
空気が変わった」
外の風が、
神殿の隙間を抜けていく。
「マナが暴走したとか、
そんな生易しいものじゃない」
「……“何か”が、
目を覚ましたの」
ロイドは息を呑む。
ユヅキも静かに続ける。
「あの子、
その時の事をほとんど覚えてないの」
「でもわたし達は見た」
「ヒナじゃない何かが、
あの子の中から現れた瞬間を」
ロイドの脳裏へ、
禁足地で感じた圧迫感が蘇る。
だが。
それとは違う。
もっと静かで、
もっと理解出来ない恐怖。
ミツキは小さく息を吐いた。
「だから、
わたし達はずっと言い聞かせてきた」
『絶対に、
自分の血を舐めるな』って」
ロイドはようやく理解する。
ヒナの異常な回避。
斬られない戦い方。
傷を恐れるみたいな戦闘スタイル。
全部。
“血を流さない為”だったのだと。
ユヅキが古文書を開く。
「《陽輪》は本来、
《月輪》と対になって初めて機能する装置なの」
「でもヒナの《陽輪》は、
片側だけで起動してる」
「古文書の記録が正しいなら……
本来ありえない事よ」
ロイドは低く呟く。
「それじゃあ……
ヒナの《光の剣》は……」
ユヅキは静かに頷いた。
「本来足りないはずの部分を、
中の“アレ”が補ってるなら説明はつく」
「恐らく……
例外的な起動状態なんだと思う」
灯りが揺れる。
ロイドの背筋へ、
冷たいものが走る。
ミツキは静かにロイドを見た。
「あの子はヒナよ」
「でも、
中のアレは違う」
その声には、
母親としての恐怖が滲んでいた。
「あれが何なのか、
本当は誰にも分からない」
「神でもない」
「神獣でもない」
「……全てを無へ還すもの」
ロイドは言葉を失う。
理解が追いつかない。
陽輪。
月輪。
無。
怪物。
だが。
それでも。
ロイドの中に浮かんだのは、
恐怖より先に、
ヒナの顔だった。
露天温泉で笑っていた姿。
村を走り回る姿。
スライム相手に泣きそうになっていた姿。
そして。
誰よりも先に、
自分を助けに来た少女。
ロイドはゆっくり目を閉じる。
禁足地のケルベロスよりも、
今の方が恐ろしかった。
それでも。
それでも、
ヒナを一人で行かせるつもりは無かった。
重い沈黙が、
神殿へ落ちた。
外では、
まだ遠くで戦闘音が響いている。
だが、
ロイドの耳にはもう殆ど入ってこなかった。
視線が、
無意識に自分の手へ落ちる。
ヒナの血。
暴走。
“無”。
あの少女の中に、
そんなものが眠っているなんて、
未だに現実感が無い。
ミツキは静かに目を伏せた。
「普段は大丈夫なの」
「ふーちゃん……
あの子がそう呼んでる存在も、
普段は表へ出てこない」
「でも」
そこで言葉が止まる。
神殿の灯りが、
小さく揺れた。
「満月の日だけは違うのよ」
ロイドが顔を上げる。
ユヅキが古文書へ視線を落としたまま、
静かに続けた。
「満月は、
《月輪》側の力が最も強くなる日」
「マナの均衡も崩れやすい」
「女神の湖は特にその影響が強い場所なの」
ロイドは息を呑む。
満月。
女神の湖。
ゼクト。
全部繋がっている。
ミツキが、
ゆっくりロイドを見る。
「ヒナは自分で制御してるつもりなのよ」
「傷付かないように」
「暴走しないように」
「だから、
あんな戦い方になった」
脳裏へ、
白銀の残光が蘇る。
超高速。
被弾を許さない動き。
敵へ近付き続ける異常な踏み込み。
全部。
“血を流さない為”。
ロイドは、
無意識に拳を握っていた。
「……もし、
満月の日にヒナが傷付けば?」
その問いへ、
ミツキはすぐ答えなかった。
代わりに、
ユヅキが静かに口を開く。
「分からないわ」
「でも、
わたし達は二度と見たくないの」
静かな声だった。
「あの時現れた“アレ”を」
ロイドの背筋へ、
冷たいものが走る。
ミツキは目を閉じる。
「ヒナは優しい子よ」
「家族思いで、
村のみんなが大好きで」
「本当は、
泣き虫なくらい優しい」
スライム相手に震えていた姿が、
ロイドの脳裏へ浮かぶ。
思わず、
小さく笑いそうになる。
だが。
「だからこそ危ないの」
ミツキの声は震えていた。
「コトハを助ける為なら、
あの子は迷わない」
「自分が壊れても、
絶対止まらない」
ロイドはゆっくり目を閉じた。
ヒナなら、
確かにそうする。
あの少女は、
自分より他人を優先してしまう。
静かな沈黙。
その時だった。
神殿の外から、
凄まじい衝撃音が響いた。
地面が揺れる。
直後。
「ヒナ!?」
ロイドが反射的に立ち上がる。
ミツキとユヅキも同時に顔を上げた。
空気が変わっていた。
外から流れ込んでくるマナが、
明らかに乱れている。
ロイドは、
反射的に《スヴェード・クシフォス》へ手を掛けた。
嫌な予感がした。
胸騒ぎが、
止まらなかった。




