第28話 月下の咆哮
月明かりが、
静かな湯面へ白く揺れていた。
ティーナ村外れの露天温泉。
夜風は冷たい。
だが湯は熱く、
芯まで沈み込むような温もりがあった。
ロイド・ディドラスは、
湯へ肩まで浸かりながら、
静かに目を閉じる。
脳裏へ浮かぶのは――
あの夜。
森の奥。
巨大な白い影。
金色の瞳。
そして、
肌へ突き刺さるようだった、
圧倒的な“何か”。
「…………」
思い出すだけで、
背筋が強張る。
あれは、
今まで戦ってきたどんな魔物とも違った。
理屈ではない。
本能が、
“逃げろ”と叫んでいた。
湯気がゆっくり漂う。
その向こうから。
「ロイ、大丈夫?」
不意に声がした。
ロイドは肩を震わせる。
視線を向けると、
湯煙の奥。
先に温泉へ浸かっていたらしいヒナが、
当然みたいな顔でこちらを見ていた。
月明かりに照らされた白い肌。
月明かりを受けた瞬間、
亜麻色の髪へ銀が浮かぶ。
濡れた髪が揺れる度、
まるで月光そのものを纏っているみたいに、
淡く煌めいていた。
蒼と金が混ざる瞳が、
静かにこちらを見ている。
「なっ――」
ロイドは思わず顔を逸らした。
ヒナはきょとんと首を傾げる。
「……?」
「い、いや、お前……っ」
「ん?」
「なぜ普通に入ってる!?」
「温泉だから?」
真顔だった。
ロイドは言葉を失う。
ヒナはそんな彼を気にもせず、
湯を掻き分けながら近付いてくる。
「大丈夫だって。
あたしも一緒に手伝うからさ」
軽い声。
まるで、
明日の畑仕事でも話しているみたいだった。
だが。
ヒナの瞳だけは、
静かに鋭い。
ロイドは後ろを向いたまま、
咳払いをする。
「……今日は、
あの特異個体に会えるのか?」
「うん」
即答だった。
「月明かりが強い日だし。
ふーちゃんもそう言ってる」
「……ふーちゃん?」
初めて聞く名前だった。
ロイドが振り返ろうとした瞬間。
ヒナが、
ふっと目を細める。
「――ほら、きた」
次の瞬間。
――ォォォオオオオオオオオオオオッ!!
三日月山の方角から、
空気そのものを震わせる咆哮が響いた。
湯面が揺れる。
空気が軋む。
ロイドの背筋へ、
冷たいものが走った。
あの時の白い影。
《ルクス・マンティス》。
その比ではない。
もっと濃い。
もっと重い。
殺気だけで、
肺が押し潰されそうだった。
ヒナは静かに立ち上がる。
ざばり――
と湯が流れ落ちた。
「…………」
ロイドは固まった。
月光の下。
白い肌が露わになる。
雫が鎖骨を滑り、
細い脚を伝って落ちていく。
ヒナは不思議そうに瞬きをした。
「なんで固まってるの?」
「お、おま、お前は少し羞恥心をだな……!」
「?」
全く分かっていなかった。
そのままヒナは、
ずるずるとロイドの腕を引っ張る。
「ほら、行くよロイ」
「待て!
せめて服を――!」
「着てる暇ないって」
月夜の静寂へ、
ロイドの悲鳴が吸い込まれていった。
◇
森へ入った瞬間、
空気が変わった。
温泉の熱が、
一気に夜気へ奪われる。
肌へ触れる風が冷たい。
だが。
それ以上に。
森そのものが、
何かを警戒しているようだった。
木々は静まり返り、
虫の音すら聞こえない。
聞こえるのは、
二人の足音と呼吸だけ。
ロイドは鉄剣を握り直す。
夜目は利いている。
遠くの気配も感じ取れる。
一ヶ月前では有り得なかった感覚。
だが今は、
暗闇の中ですら、
森の輪郭が薄く見えていた。
隣を走るヒナは、
夜の森へ完全に溶け込んでいる。
月白色のボレロ。
黒の軽装。
そして、
腰へ提げた双剣。
走る度、
銀の髪が月光を反射する。
まるで、
月そのものが駆けているみたいだった。
「……ロイ」
不意にヒナが呟く。
「どうした」
「近い」
その瞬間。
ゾクリ――
と空気が震えた。
咄嗟にロイドは足を止める。
重い。
空気が、
異常なほど重い。
殺気。
いや。
もっと原始的な、
“捕食者の圧”。
月明かりの中、
巨大な三日月山が見えてくる。
その稜線へ沿うように、
巨大な影が伸びていた。
ロイドは目を細める。
……山?
違う。
動いている。
ヒナが、
ふっと目を見開いた。
「あっ」
「どうした?」
ヒナは空を指差す。
「擬態してる」
「何――」
言葉が終わる前だった。
ギィィィィィィィィ――――ッ!!
金属を引き裂くような咆哮。
三日月山そのものが動いた。
否。
張り付いていた。
巨大な鎌。
白銀外殻。
山肌へ溶け込む異様な身体。
そして。
月光を反射する、
巨大な金色の瞳。
ロイドの背筋が凍る。
森で見た時より、
遥かに巨大だった。
特異個体。
《断月魔蟷/ムーン・ヘルサイズ》。
白銀の外殻から、
黒い靄が漏れている。
巨大鎌が僅かに動くだけで、
空気が裂けた。
「……っ」
ロイドは無意識に剣を構える。
身体が警鐘を鳴らしていた。
強い。
今まで戦ったどんな相手より、
圧倒的に。
ヒナが静かに双剣へ触れる。
「……本気出さないと、
ちょっとヤバいかも」
その声音だけで、
ロイドの喉が鳴った。
ヒナが、
“本気”と言った。




