特別編 エピソード2 ヒナ10歳「外側の限界と、内側の覚醒」①
エピソード2 主人公
10歳時の過去のお話
まだまだですけど、頑張って書いていきます
朝の匂いが、先に届く。
まだ目を開けていないのに、それが何なのかはっきりと分かる。味噌と出汁が混ざった柔らかな香りが、ゆっくりと部屋の奥まで満ちていく。その温かさに引かれるように意識が浮かび上がり、同時にお腹の奥がきゅうっと縮む。
「お腹減ったなぁ…」
声がこぼれると同時に、身体の輪郭が戻ってくる。上体を起こし、足を床へ下ろす。足裏に触れた空気は思っていたよりも冷たく、その冷たさがじわじわと広がるにつれて、季節が確実に進んでいることを身体の方から教えられる。
台所から、鍋が煮える音が聞こえる。一定のリズムで揺れるその音に、時折ぱち、と火が弾ける音が混じる。そのわずかな変化が、朝の静けさを形にしているようだった。
「ごはんできたわよー」
「はーい」
返事を返すと、足が自然に動き出す。考えるより先に居間へ向かっている。
父さんとコトハはすでに席についている。テーブルの上には湯気を立てるスープと焼きたてのパン。見慣れた光景のはずなのに、今日はその一つ一つの輪郭が妙にはっきりして見える。
「いただきます」
声が揃う。その瞬間、コトハがにやりと笑う。
「ねぇね、これ」
パンが持ち上がる。わずかに距離がずれる。
指先を伸ばす。届く、と思った瞬間にほんの少しだけ遠ざかる。その小さなズレが、やけに大きく感じられる。
「ちょっと」
もう一度手を伸ばす。今度は触れる直前で逃げられる。
「ふふっ」
コトハの肩が揺れる。
「こら、コトハ」
父さんの声で、パンが戻ってくる。受け取った瞬間、指先に残る軽さに思わず笑いがこぼれる。母さんも小さく笑っていて、その空気が確かにそこにある。
スープを持ち上げる。器の熱が指に伝わる。湯気が立ちのぼり、表面がゆっくりと揺れている。
その揺れが、ほんのわずかに変わる。
……ん?
口元まで運びかけた手が止まる。
視線を落とす。さっきまでとは違う波紋が広がっている。規則とは違う、外から押されるような揺れ。
誰も気づいていない。
「……」
「気付いたか?」
父さんの声が低く落ちる。
顔を上げる。視線が合う。小さく頷いた、その直後。
ガタッ――!
窓ガラスが震える。
振動が空気を伝って、皮膚にまで届く。
風ではない。
もっと重い何かが外から押し寄せてくる。
思考が形になる前に、身体が動く。
椅子がわずかに軋む感触を背中に残したまま立ち上がり、そのまま外へ向かう。扉に手をかける。木の冷たさが指に伝わる。一瞬だけ動きが止まるが、次の瞬間には押し開けている。
朝の空気が頬に触れる。
その冷たさに引かれるように、視線が上へ向かう。
――黒い影。
空を横切る巨大な輪郭。
竜。
その存在が、視界の中で確定した瞬間。
胸の奥がざわつく。
「なんで…」
言葉が漏れる。
怖い、と身体が先に理解する。
それなのに、目が離れない。
逃げるべきなのに、足が動かない。
⸻
「追いかけてはダメ」
背中から届いた声で、ようやく身体の感覚が戻る。
振り返る。母さんの視線が真っ直ぐに刺さる。
「危ないの。絶対に近づかないこと」
言葉の重さが、胸に残る。
「……うん」
頷く。
理解している。
でも、ざわつきは消えない。
むしろ、形を持ち始める。
⸻
温泉の湯に身体を沈めると、昼とは違う静けさが全身に広がる。水面は揺れているのに、音がほとんど届かない。遠くの虫の声も、どこか遠くに押しやられている。
顔を上げる。
月。
はっきりとした輪郭。
綺麗だと思った、その瞬間。
昼の光景が差し込む。
空を横切る影。
揺れる空気。
スープの波紋。
呼吸がわずかに浅くなる。
視線を水面へ落とす。
落ち着こうとする。
でも、また上を見てしまう。
月。
その向こうに、昼が重なる。
逸らしても戻る。
否定しても消えない。
繰り返すほどに、それははっきりしていく。
思い出しているわけではない。
引かれている。
―――――
夜が深くなる。
布団の中で、じっと身体を動かさないようにする。
呼吸を整えながら、わずかな動きすら抑え込む。
ほんの少しでも動けば気づかれてしまいそうで、まばたきひとつすら意識する。
耳を澄ませば、家の中の音がやけに鮮明に聞こえる。
父さんの寝息。
母さんのかすかな衣擦れ。
コトハの小さな呼吸。
それが少しずつ、同じリズムに重なっていく。
誰も動かない。
何も変わらない。
やがて、家全体が深い静けさに沈んでいった。
……今。
ゆっくりと身体を起こす。
足音を殺して歩く。
扉に手をかけた、その時。
「ねぇね……むにゃ……」
一瞬だけ、足が止まる。
振り返れば、まだ戻れる。
何も知らなかった朝に、そのまま戻れる気がした。
コトハの寝息も、母さんの声も、父さんの背中も――全部、そこにある。
ここでやめれば、それで終わる。
何も起きなかったことにできる。
それでも。
胸の奥のざわつきが、消えない。
逃げるみたいに戻るのは、違う気がした。
「……」
小さく息を吐く。
吐いたはずの息が、胸の奥に引っかかる。
足はまだ動かない。
扉にかけた手も、そのまま止まっている。
振り返ろうと思えば、いつでも振り返れる距離だ。
ほんの少し首を動かすだけで、全部が元に戻る。
そのはずなのに――
背中の奥で、何かが引き止めている。
戻るな、と言っているわけじゃない。
ただ、進めと押してくる。
言葉じゃないのに、はっきりと分かる。
「……」
無意識に、指先に力が入る。
扉の感触が、やけに鮮明になる。
木の冷たさ。
表面のわずかな凹凸。
そのすべてが、今ここにいることを強く実感させる。
そして。
ゆっくりと、手に力を込める。
振り返らない。
そう決めたというより、もう戻れないと分かった。
扉を押す。
軋む音が、静かな家の中にわずかに響く。
外の空気が、隙間から流れ込んでくる。
冷たい。
頬に触れたその感触が、内側に残っていた迷いを一気に引き剥がした。
月明かりが身体を照らす。
「……寒い」
その温度差に、秋をはっきりと感じた。
そのまま森へ足を踏み入れる。
本編開始に必要な情報とは言え…
小説って難しいですね笑




