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双月のヒナ 〜禁足地の戦乙女〜  作者: 哀川 とあ
序章  〜力の根源〜
3/12

特別編 エピソード2 ヒナ10歳「外側の限界と、内側の覚醒」①

エピソード2 主人公

10歳時の過去のお話

まだまだですけど、頑張って書いていきます



 朝の匂いが、先に届く。


 まだ目を開けていないのに、それが何なのかはっきりと分かる。味噌と出汁が混ざった柔らかな香りが、ゆっくりと部屋の奥まで満ちていく。その温かさに引かれるように意識が浮かび上がり、同時にお腹の奥がきゅうっと縮む。


「お腹減ったなぁ…」


 声がこぼれると同時に、身体の輪郭が戻ってくる。上体を起こし、足を床へ下ろす。足裏に触れた空気は思っていたよりも冷たく、その冷たさがじわじわと広がるにつれて、季節が確実に進んでいることを身体の方から教えられる。


 台所から、鍋が煮える音が聞こえる。一定のリズムで揺れるその音に、時折ぱち、と火が弾ける音が混じる。そのわずかな変化が、朝の静けさを形にしているようだった。


「ごはんできたわよー」


「はーい」


 返事を返すと、足が自然に動き出す。考えるより先に居間へ向かっている。


 父さんとコトハはすでに席についている。テーブルの上には湯気を立てるスープと焼きたてのパン。見慣れた光景のはずなのに、今日はその一つ一つの輪郭が妙にはっきりして見える。


「いただきます」


 声が揃う。その瞬間、コトハがにやりと笑う。


「ねぇね、これ」


 パンが持ち上がる。わずかに距離がずれる。


 指先を伸ばす。届く、と思った瞬間にほんの少しだけ遠ざかる。その小さなズレが、やけに大きく感じられる。


「ちょっと」


 もう一度手を伸ばす。今度は触れる直前で逃げられる。


「ふふっ」


 コトハの肩が揺れる。


「こら、コトハ」


 父さんの声で、パンが戻ってくる。受け取った瞬間、指先に残る軽さに思わず笑いがこぼれる。母さんも小さく笑っていて、その空気が確かにそこにある。


 スープを持ち上げる。器の熱が指に伝わる。湯気が立ちのぼり、表面がゆっくりと揺れている。


 その揺れが、ほんのわずかに変わる。


 ……ん?


 口元まで運びかけた手が止まる。


 視線を落とす。さっきまでとは違う波紋が広がっている。規則とは違う、外から押されるような揺れ。


 誰も気づいていない。


「……」


「気付いたか?」


 父さんの声が低く落ちる。


 顔を上げる。視線が合う。小さく頷いた、その直後。


 ガタッ――!


 窓ガラスが震える。


 振動が空気を伝って、皮膚にまで届く。


 風ではない。


 もっと重い何かが外から押し寄せてくる。


 思考が形になる前に、身体が動く。


 椅子がわずかに軋む感触を背中に残したまま立ち上がり、そのまま外へ向かう。扉に手をかける。木の冷たさが指に伝わる。一瞬だけ動きが止まるが、次の瞬間には押し開けている。


 朝の空気が頬に触れる。


 その冷たさに引かれるように、視線が上へ向かう。


 ――黒い影。


 空を横切る巨大な輪郭。


 竜。


 その存在が、視界の中で確定した瞬間。


 胸の奥がざわつく。


「なんで…」


 言葉が漏れる。


 怖い、と身体が先に理解する。


 それなのに、目が離れない。


 逃げるべきなのに、足が動かない。



「追いかけてはダメ」


 背中から届いた声で、ようやく身体の感覚が戻る。


 振り返る。母さんの視線が真っ直ぐに刺さる。


「危ないの。絶対に近づかないこと」


 言葉の重さが、胸に残る。


「……うん」


 頷く。


 理解している。


 でも、ざわつきは消えない。


 むしろ、形を持ち始める。







 



 温泉の湯に身体を沈めると、昼とは違う静けさが全身に広がる。水面は揺れているのに、音がほとんど届かない。遠くの虫の声も、どこか遠くに押しやられている。


 顔を上げる。


 月。


 はっきりとした輪郭。


 綺麗だと思った、その瞬間。


 昼の光景が差し込む。


 空を横切る影。

 揺れる空気。

 スープの波紋。


 呼吸がわずかに浅くなる。


 視線を水面へ落とす。


 落ち着こうとする。


 でも、また上を見てしまう。


 月。


 その向こうに、昼が重なる。


 逸らしても戻る。


 否定しても消えない。


 繰り返すほどに、それははっきりしていく。


 思い出しているわけではない。


 引かれている。



―――――



夜が深くなる。


 布団の中で、じっと身体を動かさないようにする。


 呼吸を整えながら、わずかな動きすら抑え込む。


 ほんの少しでも動けば気づかれてしまいそうで、まばたきひとつすら意識する。


 耳を澄ませば、家の中の音がやけに鮮明に聞こえる。


 父さんの寝息。

 母さんのかすかな衣擦れ。

 コトハの小さな呼吸。


 それが少しずつ、同じリズムに重なっていく。


 誰も動かない。


 何も変わらない。


 やがて、家全体が深い静けさに沈んでいった。


 ……今。


 ゆっくりと身体を起こす。


 足音を殺して歩く。


 扉に手をかけた、その時。


「ねぇね……むにゃ……」


 一瞬だけ、足が止まる。


 振り返れば、まだ戻れる。


 何も知らなかった朝に、そのまま戻れる気がした。


 コトハの寝息も、母さんの声も、父さんの背中も――全部、そこにある。


 ここでやめれば、それで終わる。


 何も起きなかったことにできる。


 それでも。


 胸の奥のざわつきが、消えない。


 逃げるみたいに戻るのは、違う気がした。


「……」


 小さく息を吐く。


 吐いたはずの息が、胸の奥に引っかかる。


 足はまだ動かない。


 扉にかけた手も、そのまま止まっている。


 振り返ろうと思えば、いつでも振り返れる距離だ。


 ほんの少し首を動かすだけで、全部が元に戻る。


 そのはずなのに――


 背中の奥で、何かが引き止めている。


 戻るな、と言っているわけじゃない。


 ただ、進めと押してくる。


 言葉じゃないのに、はっきりと分かる。


「……」


 無意識に、指先に力が入る。


 扉の感触が、やけに鮮明になる。


 木の冷たさ。


 表面のわずかな凹凸。


 そのすべてが、今ここにいることを強く実感させる。


 そして。


 ゆっくりと、手に力を込める。


 振り返らない。


 そう決めたというより、もう戻れないと分かった。


 扉を押す。


 軋む音が、静かな家の中にわずかに響く。


 外の空気が、隙間から流れ込んでくる。


 冷たい。


 頬に触れたその感触が、内側に残っていた迷いを一気に引き剥がした。


 月明かりが身体を照らす。


「……寒い」


 その温度差に、秋をはっきりと感じた。


 そのまま森へ足を踏み入れる。


本編開始に必要な情報とは言え…


小説って難しいですね笑



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