第20話 静寂の月夜
夜のティーナ村は静かだった。
特に、
月明かりが強い夜ほど。
家々の灯りは早く消え、
外を歩く人影も少なくなる。
理由は単純だった。
――危険だからだ。
ここ数年、
ティーナ村周辺では異常な強さのモンスターが現れるようになっていた。
本来なら森の深部にしか現れないような個体が、
村の近くにまで降りてくる事も珍しくない。
だから村人達は、
夜になると不用意に外へ出ない。
見回り役以外、
森へ近付く事はない。
特に、
月の強い夜は。
それが、
ティーナ村の暗黙のルールだった。
ロイドは、
ヒナの家の縁側へ腰を下ろしていた。
夜風が静かに吹き抜ける。
遠くでは、
村の灯りがぽつぽつと揺れていた。
その隣で。
ヒナが静かに空を見上げている。
淡い銀髪が、
月光を受けて揺れていた。
普段と変わらない。
……ように見えた。
だが。
――ォォォオオオオオオ……
低く重い咆哮が、
夜の森から響いた。
空気が震える。
ロイドは反射的に顔を上げた。
遠く。
月明かりに照らされた森の奥。
その瞬間だった。
周囲の空気が変わる。
家々の窓が閉まり、
村人達が急ぐように戸を閉めていく。
ざわめきはない。
だが、
皆分かっていた。
“近い”。
ロイドが隣を見る。
ヒナが、
森を見つめていた。
普段の柔らかな雰囲気は消えている。
蒼い瞳が、
静かに細められていた。
「……近い」
小さな声。
だが、
その一言だけで背筋が冷えた。
ヒナは静かに立ち上がる。
縁側から降り、
そのまま家の中へ戻っていった。
「……ヒナ?」
ロイドが呼ぶ。
少しして。
家の扉が開く。
ヒナは、
淡い月白色のボレロを纏っていた。
短い丈のそれは、
動く度に長い袖が夜風へ揺れる。
腰の左右には双剣。
月光を反射した刃が、
静かに揺れていた。
表情は静かだった。
だが。
纏う空気が違う。
まるで、
月明かりそのものが鋭くなったようだった。
ヒナはそのまま外へ出る。
「待て」
ロイドが立ち上がる。
ヒナは足を止めない。
「少し見てくるだけ」
それだけ言った。
だが。
その声には、
普段の穏やかさがほとんど残っていなかった。
ロイドがさらに声を掛けようとした瞬間。
ヒナの姿が消えた。
「――っ」
風だけが遅れて吹く。
速い。
いや。
本当に、
人間の動きだったのか。
ロイドは目を見開く。
月明かりの森へ、
ヒナは一瞬で溶け込むように消えていた。
残されたのは、
静寂だけ。
ロイドはしばらく、
その方向を見つめていた。
森が静かだった。
あまりにも、
静かすぎる。
風もない。
虫の音すら薄い。
まるで、
森そのものが息を潜めているようだった。
脳裏へ焼き付いて離れない。
ヒナの動き。
走った、
というより―― 消えた。
そして、
あの空気。
ヒナが動いた瞬間、
周囲そのものが変わった。
ロイドは無意識に胸元を押さえる。
……熱い。
鼓動が妙に早い。
禁足地から生還して以降、
ずっと続いている違和感。
呼吸をする度、
何かが身体の奥へ流れ込んでくる感覚。
傷の奥が脈打つ。
視界は妙に鮮明で、
遠くの葉擦れの音まで聞こえた。
確実に、
身体が変わり始めている。
理解はできない。
だが、
確かに“何か”が起きていた。
ロイドは小さく息を吐き、
視線を森から外した。
……追うべきか。
そう考えた瞬間だった。
ぞわり――
背筋を撫でるような感覚が走る。
森の奥。
先程の咆哮とは別の、
重く濁った気配。
本能が告げる。
――行くな。
ロイドは無意識に拳を握った。
ヒナは、
あの気配の中へ迷いなく飛び込んでいった。
普通ではない。
改めてそう思う。
あの細い身体のどこに、
あれほどの力があるのか。
そして。
何故、
自分はそれを追おうとしているのか。
ロイドは眉を寄せる。
胸の奥が熱い。
鼓動が、
先程よりさらに強く脈打っていた。
呼吸と共に、
冷たい夜気が肺へ流れ込む。
だが。
ただの空気ではない。
身体の奥へ、
何かが染み込んでくるような感覚。
傷の奥が疼く。
熱い。
……いや。
違う。
熱と冷たさが、
同時に流れている。
ロイドは片手で額を押さえた。
その時だった。
ふと、
妙な感覚に気付く。
……静かだ。
視線が自然と村外れへ向く。
木々の奥。
月光だけが、
不自然なほど濃く差し込んでいる場所。
ティーナ村の空気とは違う。
冷たく、
澄み切った静寂。
まるで、
空気そのものが洗い澄まされているようだった。
張り詰めているのに、
不思議と嫌な感じはない。
むしろ―― 神聖。
そこを見るだけで、
胸の熱が少し落ち着く。
導かれるように、
ロイドは歩き出していた。
草を踏む音だけが、
夜へ小さく響く。
やがて木々が開ける。
そこにあったのは。
巨大な石柱だった。
月明かりを浴びた、
白銀色の古代遺跡。
崩れた門。
地面へ刻まれた巨大紋章。
半壊してなお、
圧倒されるほどの威圧感を放っている。
石柱の表面には、
見た事もない文字が刻まれていた。
曲線と円環で構成された、
古代文字。
今の時代では、
誰にも読む事は出来ない。
ティーナ村では、
ただ“月遺跡”と呼ばれている場所だった。
だが。
何故か、
ここへ来てから呼吸が楽だった。
胸の脈動が、
少しだけ静まっている。
ロイドが遺跡を見上げた時。
「……へぇ」
不意に、
声が落ちた。
ロイドが即座に振り向く。
崩れた石柱の上。
そこに、
一人の女が腰掛けていた。
長い髪が、
月光を受けて揺れている。
気怠げに脚を組みながら、
どこか面白そうにロイドを見下ろしていた。
「もうそこまで流れてるんだ」
意味の分からない言葉。
ロイドは目を細める。
「……誰だ」
女は小さく笑った。
「そんな怖い顔しないでよ」
「まぁ、
ヒナとは家族みたいなもの」
「ユヅキ」
その瞬間。
ロイドは僅かに違和感を覚えた。
……似ている。
空気が。
ヒナと同じ、
静かな月夜の気配。
けれど、
ヒナよりもっと澄んでいた。
まるで、
神域そのものが人の形を取ったような、
静かで神聖な存在感だった。




