第13話 生きている感じ
しばらく。
部屋には、
穏やかな静寂だけが満ちていた。
柔らかな風が部屋を通り抜け、
窓辺へ吊るされていた薬草をかすかに揺らす。
淡い香りが、
静かな空気へゆっくり溶けていた。
木漏れ日のような朝日が、
木の床へ淡く広がっている。
外では、
小鳥達の鳴き声が遠く重なり合っていた。
静かだった。
あまりにも。
血と絶叫に満ちていた戦場が、
遠い夢だったみたいに。
ロイドは静かに目を伏せる。
胸の奥に沈んでいた重さは、
消えたわけではない。
第一騎士団を守れなかった事実も。
生き残ってしまった罪悪感も。
何一つ変わってはいない。
それでも。
張り詰め続けていた何かが、
ほんの少しだけ緩み始めている。
そんな感覚があった。
すると。
ヒナが、
ふと思い出したように瞬きをする。
「あ……」
小さく漏れた声に、
ロイドが視線を向けた。
「……?」
「そうだ。
ご飯持ってきてたんだった」
そう言ってヒナは、
入り口近くへ置いていた木盆を静かに持ち上げる。
木の器からは、
白い湯気がふわりと立ち昇っていた。
その湯気に乗って漂ってくるのは、
優しく温かな香り。
野菜をじっくり煮込んだ甘い匂いに、
香草の澄んだ香りが静かに混ざっている。
どこか、
胸の奥まで温まるような匂いだった。
戦場の血臭とは、
あまりにも遠い香りだった。
温かな匂いに、
腹の奥が小さく熱を持つ。
……空腹だった。
その事実に、
ロイド自身が一番驚いていた。
ついさっきまで。
自分の中にあったのは、
痛みと、
罪悪感と、
生き残ってしまった重さだけだったからだ。
なのに今は。
その香りに、
身体が静かに反応している。
ヒナはベッドの傍へ静かに腰を下ろすと、
木匙でゆっくりスープを掬った。
白い湯気が、
ふわりと二人の間へ広がる。
野菜の甘い香りと、
優しい熱が、
静かな部屋へ溶けていった。
「まだちゃんと動けないでしょ」
穏やかな声だった。
責めるような響きはない。
ただ、
当然みたいに言っている。
「……いや、
それくらい――」
ロイドは身体を起こしかける。
その瞬間。
全身へ、
鋭い激痛が走った。
「っ……!」
肺の奥から、
掠れた息が漏れる。
傷口が軋む。
骨が悲鳴を上げる。
視界がぐらりと揺れ、
身体から一気に力が抜けた。
まだ駄目だ。
身体が、
まともに動ける状態ではない。
するとヒナは、
小さく困ったように息を吐いた。
「だから言ったのに……」
どこか呆れたみたいな声だった。
けれど。
蒼い瞳が、
わずかに揺れていた。
月明かりみたいに静かなその視線には、
隠し切れない心配が滲んでいる。
ヒナは小さく眉を下げたまま、
木匙をそっとロイドの口元へ差し出した。
「大人しくして」
静かな声だった。
無理に押し付けるわけでもない。
強く命令しているわけでもない。
それなのに。
不思議と逆らいづらかった。
穏やかな水面の下に、
揺るがない芯だけが静かに沈んでいるみたいな声だった。
ロイドは僅かに眉を寄せる。
「……自分で食える」
掠れた反論。
だが。
「無理」
返ってきた言葉は、
驚くほど早かった。
ヒナは真っ直ぐロイドを見つめたまま、
小さく首を横へ振る。
白銀の髪が、
朝日を受けて淡く揺れた。
「今、
起き上がっただけで倒れそうだった」
「……大袈裟だ」
「大袈裟じゃない」
一歩も引かない声だった。
けれど。
そこに刺々しさはない。
ただ。
本当に心配しているだけなのだと分かる。
だからこそ。
ロイドは余計に調子を狂わされる。
第一騎士団長として、
命令を下す側には慣れていた。
誰かを守ることも。
前に立つことも。
傷付いたまま剣を振るうことも。
だが。
こうして当然みたいに世話を焼かれることには、
まるで慣れていない。
ヒナは木匙を持ったまま、
静かにロイドを見つめていた。
透き通る蒼い瞳は穏やかだった。
けれど。
その奥にある意思だけは、
不思議なくらい揺らがない。
「……冷めるよ」
小さな声だった。
責めるわけでもなく。
急かすわけでもない。
ただ。
本当にそれだけを気にしているみたいな声だった。
白い湯気が、
二人の間でゆっくり揺れる。
野菜と香草の優しい匂いが、
静かに鼻先を掠めていった。
ロイドはしばらく黙ったまま、
差し出された木匙を見つめる。
それから。
観念したように、
小さく息を吐いた。
「……分かった」
その返事を聞いた瞬間。
ヒナの表情が、
ほんの少し柔らかく緩む。
「うん」
静かな声だった。
ヒナは木匙をゆっくりロイドの口元へ運ぶ。
野菜を煮込んだ優しい熱が、
舌の上へ静かに広がった。
温かかった。
驚くほどに。
冷え切っていた身体の奥へ、
じんわり沁み込んでいく。
ロイドは僅かに目を伏せる。
王都では。
こんな風に、
誰かへ食事を食べさせてもらった記憶などない。
怪我をしても。
倒れても。
第一騎士団長である自分は、
常に“立つ側”だった。
弱さを見せることも。
誰かへ身を預けることも。
許されなかった。
だからこそ。
目の前の少女の距離感が、
どうにも調子を狂わせる。
ヒナはそんなロイドを見ながら、
ふっと小さく笑った。
「ちゃんと食べれてる」
その言葉は、
まるで。
それだけで十分だと言っているみたいだった。
ロイドは返す言葉を失ったまま、
静かに目を伏せる。
温かなスープが、
弱った身体へゆっくり沁み込んでいく。
それと同時に。
胸の奥へ張り付いていた冷たさまで、
少しずつ溶けていくような気がした。
不思議だった。
たったこれだけのことで。
誰かに食事を食べさせてもらう。
心配される。
“ここにいていい”みたいに扱われる。
それだけで。
張り詰め続けていた何かが、
少しずつ解けていく。
ロイドは小さく息を吐いた。
するとヒナは、
そんなロイドを見ながら、
どこか安心したように目を細める。
「さっきより顔色いい」
「……そうか」
「うん」
ヒナは小さく頷いた。
それから、
木匙を持ったまま少し考えるように首を傾げる。
「ロイド、
ずっと怖い顔してたから」
「……」
「今の方が、
ちゃんと生きてる感じする」
その言葉に。
ロイドの胸が、
僅かに揺れる。
ちゃんと生きてる。
そんな風に言われたのは、
いつ以来だっただろうか。
第一騎士団長になってからは、
常に“強くあること”ばかり求められてきた。
弱さを見せれば、
部下達を不安にさせる。
迷いを見せれば、
騎士団が揺らぐ。
だからロイドは、
ずっと張り詰め続けていた。
だが。
目の前の少女は、
そんな肩書きも、
立場も知らないまま。
ただ。
“生きているロイド”だけを見ている。
その事実は、
ロイドにはどうしようもなく眩しかった。
しばらく。
静かな時間だけが、
ゆっくり部屋を流れていた。
白い湯気が、
淡く揺れる。
窓から差し込む朝日が、
ヒナの白銀の髪を柔らかく照らしていた。
その光景を見つめながら。
ロイドはふと、
ある違和感に気付く。
「……ここは、
どこなんだ」
掠れた声だった。
ヒナは木匙を持ったまま、
小さく瞬きをする。
「ティーナ村」
「ティーナ……?」
聞き覚えのない名前だった。
少なくとも、
王国地図で聞いた記憶はない。
それどころか。
禁足地周辺に、
村が存在するなど聞いたこともなかった。
ロイドが僅かに眉を寄せると、
ヒナは少し考えるように視線を上へ向けた。
「森のずっと奥」
それから。
当たり前みたいに続ける。
「禁足地の近く」
その瞬間。
ロイドの視線が、
僅かに鋭くなった。
禁足地近辺に、
人が暮らす村など存在しない。
少なくとも、
王国ではそう認識されている。
高位モンスターの出現地帯。
騎士団ですら、
大規模遠征でなければ踏み込めない危険区域。
そんな場所の近くで、
普通に人が暮らしているなど有り得ない。
だが。
部屋へ漂う薬草の香りも。
穏やかな朝日も。
静かな空気も。
目の前で当然みたいにスープを持っている少女も。
どれも幻には思えなかった。
ロイドが黙り込んだまま視線を落とすと、
ヒナはどこか不思議そうに首を傾げる。
「ロイド、
ほんとに遠くから来たんだね」
「……?」
「その鎧、
見たことないし」
そう言いながら、
ヒナの視線がベッド脇へ向く。
そこには。
傷だらけになった白銀の鎧と、
砕けた剣が静かに立て掛けられていた。
第一騎士団の紋章。
王国ディドラスの象徴。
ロイドは小さく目を伏せる。
すると。
ヒナがその表情に気付いたのか、
少しだけ声を落とした。
「……ごめん」
「……いや」
ロイドは静かに首を振る。
「お前は悪くない」
その声は、
どこか酷く疲れていた。




