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双月のヒナ 〜禁足地の戦乙女〜  作者: 哀川 とあ
1章  禁足地の少女
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第12話   ヒナ・ソレイル

     ―――――


静かな沈黙が部屋を満たしていた。


窓から吹き込む風が、

白いカーテンをゆっくり揺らす。


遠くでは、

小鳥の鳴き声が聞こえていた。


あまりにも穏やかだった。


つい数日前まで、

血と絶叫の中にいたとは思えないほどに。


ロイドは浅く息を吐く。


その静けさが、

逆に現実感を薄れさせていく。


すると。


少女がふと思い出したように、

小さく首を傾げた。


「あ」


「……?」


「名前、

まだ言ってなかった」


そう言って、

少女は柔らかく笑う。


朝日が、

白銀の髪を淡く照らしていた。


「あたし、ヒナ。

ヒナ・ソレイル」


その名は、

不思議なくらい静かに耳へ残った。


ヒナ。


月明かりみたいな少女に、

妙に似合う名前だとロイドは思う。


ヒナは蒼い瞳を真っ直ぐ向けたまま、

ロイドを見つめていた。


「あなたは?」


ロイドは少し遅れて、

低く名を返す。


「……ロイド・ディドラスだ」


「ロイド」


ヒナはその名前を、

確かめるみたいに小さく繰り返した。


それから、

少し安心したように笑う。


「うん。

ちゃんと名前聞けた」


その言い方が、

妙に柔らかかった。


まるで。


目の前の男が、

ようやく“生きている人”になったみたいに。


ロイドは僅かに眉を寄せる。


その感覚が、

少しだけ分かってしまったからだ。


ついさっきまで。


自分自身ですら、

まだ生きている実感が薄かった。


第一騎士団は壊滅した。


部下達は死んだ。


自分も本来なら、

あの戦場で終わっていたはずだった。


だから。


こうして名前を呼ばれるだけで、

妙に現実へ引き戻される。


ロイドは浅く息を吐く。


その時だった。


ヒナの視線が、

ふとロイドの右腕へ落ちる。


白く細い指先が、

掛け布団の上からそっと腕の辺りを示した。


「でもほんと、

生えてよかったね」


穏やかな声だった。


まるで。


大怪我をした人へ、

当たり前の安心を向けるみたいに。


だが。


その何気ない一言に、

ロイドの呼吸が僅かに止まる。


ロイドも無意識に、

自分の右腕へ視線を落とした。


そこには確かに、

失ったはずの腕が存在している。


静かに指を動かす。


握る。


開く。


その動きは、

驚くほど自然だった。


違和感がない。


まるで最初から、

失ってなどいなかったみたいに。


だからこそ、

異様だった。


皮膚の感触。


筋肉の収縮。


指先へ流れる血の温度。


わずかに軋む関節の感覚まで、

何一つ欠けていない。


失った腕が戻るだけでも有り得ない。


なのにこの腕は、

“治った”というより――


最初からそこに存在していたものを、

そのまま繋ぎ直したみたいに自然だった。


ロイドは小さく息を呑む。


戦場で確かに見たのだ。


血飛沫と共に、

自分の右腕が宙を舞う瞬間を。


怪物の牙へ喰われ、

消えていった光景を。


それなのに。


今こうして、

指先は静かに動いている。


夢ではない。


幻覚でもない。


だが。


理解だけが、

どうしても追いつかなかった。


ロイドはゆっくり顔を上げる。


「……お前が治したのか」


掠れた問い掛けだった。


するとヒナは、

少しだけ困ったように眉を下げる。


「あたし、

霊薬飲ませただけ」


「霊薬?」


「村で作ってるやつ」


あまりにも自然な口調だった。


まるで、

風邪薬の話でもするみたいに。


だが次の瞬間。


ロイドの眉間へ、

深い皺が刻まれる。


「……待て」


低い声だった。


「霊薬で腕は生えん」


それは常識だった。


王国最高峰の治癒術師ですら、

失った四肢の完全再生など不可能。


どれほど希少な霊薬でも、

欠損部位の再生には限界がある。


だからこそ。


今ここに、

腕が存在していること自体がおかしかった。


だがヒナは、

少し困ったように笑う。


「でも生えたんだよね……」


「血だらけなのに、

急にもぞもぞ動き始めるし……」


「…………」


「……」


ロイドは言葉を失ったまま、

自分の右腕を見つめる。


理解が追いつかない。


常識が噛み合わない。


だが。


実際に腕は存在している。


夢ではなく、

幻覚でもなく。


確かに、

そこにあった。


するとヒナは、

どこか思い出すように視線を上へ向けた。


「口移しで霊薬飲ませたらさ、

急にニョキって……」


その瞬間。


ロイドの思考が、

ぴたりと止まった。


口移し。


その言葉と同時に。


ぼやけていた感覚が、

脳裏へ鮮明に蘇る。


柔らかな唇。


触れ合った熱。


口の中へ流れ込んできた、

温かな液体。


さらに。


頭を包み込むように支えていた、

柔らかな感触まで思い出してしまう。


膝。


いや。


太ももだ。


「――っ」


一瞬で耳まで熱くなる。


第一騎士団長として、

数え切れない修羅場を潜ってきた。


死地で心を乱したことなど、

ほとんど無かった。


なのに今は。


目の前の少女一人に、

完全に調子を狂わされている。


だがヒナは、

そんなロイドの変化に全く気付いていなかった。


「血だらけなのに、

急にもぞもぞ動き始めるし……」


「…………」


ヒナは少し思い出すように視線を逸らしたあと、

困ったように小さく笑った。


「最初、

モンスターの変異種かと身構えちゃったよ」


「やめろ……」


ロイドは低く呻く。


だがヒナは気付かないまま、

真面目な顔で続けた。


「だって急に、

腕のとこがニョキニョキ動き始めるんだもん」


「その表現をやめろと言っている……!」


思わず声が裏返る。


静かな部屋へ、

ロイドの叫びだけが響いた。


ヒナはぱちぱちと瞬きをしたあと、

少しだけ肩を竦めた。


「でもほんとに、

ちょっと怖かったんだから」


「……」


「途中で牙とか生えてきたらどうしようって」


「生えん!!」


即答だった。


するとヒナは、

ふっと吹き出す。


「ふふっ……」


鈴みたいな笑い声だった。


静かな部屋へ、

柔らかく広がっていく。


ロイドは顔を覆ったまま、

深く息を吐く。


……最悪だ。


禁足地の怪物相手ですら、

ここまで振り回された覚えはない。


なのに今は。


月明かりみたいに静かな少女一人に、

完全に主導権を握られていた。

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