幕間
そこは花街遊郭の中でも中心に建ち、周囲の建物を飲み込むほどに建物も取り巻く敷地も一等大きい。花街を取り仕切る仁織の屋敷に他ならなかった。
仁織はその城としか表現しようもない建物の最上階の一室に居座る。
「随分と久しぶりやな、仁織」
「…………」
仁織の自室―と言ってもここは応接室や執務室に近い部屋だが―に入れる存在は限られている。
また、仁織の許可を得ずに堂々と入ってくる者も稀有だ。燈樹はその中の一人。仁織の許可を経ずに乗り込んでくる。
「……何しに来た」
ただ、それもいつものことだった。
眉をピクリともせず、ついでに花街を眺めて燈樹を一瞥もせずに、仁織はその場から問いかける。
「何も?ただ、お前さんとこの子らに連れてこられたんや」
「じゃあさっさと帰ればいいだろ、俺は別にお前に話すことはない」
「ふーん、ま、それはそれでいいんやけどな」
我が物顔でずか、と座り込む。
「あの子、どうする気や?」
燈樹の用件は今朝方あった、奇妙な出来事について。
音もなく、使用人の一人が燈樹にお茶を出すだけして退室する。いつものことだ。
「……あの子?」
「お前さんとこの子がわしと一緒に連れてきたんや。せっかく、わしが家に連れてくことになっとったのに」
関心がないのか、仁織は一切動かない。ただいつものように自身が作った花街を見下ろす。
そして、ああ、と記憶の片隅にあった報告を思い出した。
確か、花街に侵入者が出たとか何とか。確固たる証拠はないが、怪しい、と。昨晩、その侵入者が他所の人間に情報を流そうとしたとか。
そんなことを正直に言う必要はない。これはあくまでも花街の問題。
「……ここの内情を知った奴が外に出られるとでも?」
「記憶喪失やて」
「関係ねぇよ。ここを荒らす可能性を俺が見過ごすわけねぇだろ」
波風立てられることも我慢ならない。ましてや、その可能性があることも同様に。
逆に花街に関係ないことであれば、ほとんど関心などないに等しかった。ただ一つの例外―かつて仁織が討伐した真祖に関する全てを除いては。
燈樹と仁織は昔からの付き合いだった。
そんなことは燈樹も知るところだ。
そのはずが、余程気に入ったのか、燈樹はその内通者の話題をしつこく出してくる。
「あーあ、あの子、大怪我しとったのになぁ。手当て、してくれたんやろか」
「……さぁな」
仁織は聞く価値もないとでも言いたげだった。
「……お前さん、後悔せんか?」
「…………何のことだ」
「んー……ま、わしは別にいいんやけどな?何となくや、何となく」
「意味分かんねぇ……」
燈樹は時々、今となっては仁織には理解しがたいことを言うことがあった。それはほとんどが冗談で、時には燈樹なりの提案でもあった。
それが今回は何だか違うように思えた。
「するわけねぇだろ、んなことで」
「そうやったな、お前さんはもう、一生分の後悔しとったな」
「…………」
途端に空気がピリつく。
仁織は目だけを徐に動かし、燈樹を睨みつけた。
「今も後悔しとるんか?」
仁織は答えない。無言の時間が続く。
しかし、燈樹は止めなかった。
「なぁ、答えてーな」
「……殺すぞ」
「答えになってないなぁ」
明らさまに肩を落とす。
「もう五十七年経ったやん?もう十分やん」
糸が張った空気の中で、燈樹はあろうことか足を寛げた。
張り詰めているのは仁織だけだった。
「……何がだよ」
「はあ?その、うじうじしてる時間だよ」
「…………」
「そろそろ、動き出してもいい頃合いなんじゃないの?」
燈樹の言わんとしていることが仁織も察せられる。
何が、と問いかける前から既に検討はついていたことだったが。
仁織の中で不快感が増していく。
「……今更。何しろってんだ、もう終わってんだよ、何もかも」
「どう終わったんや?」
ギリ。
仁織の耳の下で音が鳴った。拳を握り締めた音か。歯を食いしばった音か。その両方だろう。
「お。参拝にでも行ったか、やっと?なぁ?会いに行ったんか?」
仁織の機嫌が悪くなっていく反面、燈樹の詰め寄ることが波に乗る。
「…………」
ざわりざわり、と神経を逆撫でされているようだった。
仁織の拳から滴り落ちた血が畳に染みていく。
それはまるで意思を持っているかのように、仁織の下から燈樹の方へ。鋭く。
「なあ、聞いとるやんか。なんや、願っとるって言ってもその程度かい」
燈樹は言い募る。
「なあ?ずっとこんなとこでうじうじして?『見守ってる』?どこがや」
一歩。また一歩。
ゆっくりと仁織へと近づいていく。
そして、仁織の顔に顔を近づけ、見下ろした。
燈樹の目の奥にあるのは侮蔑か、憐憫か。
「異変があったやろ?見に行きーよ、そんな大切な場所なら。何があって、何もないか、確かめに行きーな」
途端、仁織の前にあった机が大きな音を立てて勢いよく転がる。
仁織が蹴り飛ばしたのだ。
燈樹の胸ぐらを掴み、凄む。
「今更何があるっつーんだよ!何もねぇんだよ……何も!てめぇに何が分かる!俺の!何が!ずっと待った、ずっと待ってきた!それでも何も変わらなかった!!」
燈樹は仁織のこの五十七年間をずっと見てきた。隣ではないにしろ、仁織の選択を見守ってきた。
「…………今更、どうにもなんねぇんだよ……」
しかし、顔を歪め、俯き言い垂れる仁織には言いたいことがあった。
燈樹の胸ぐらを掴む手はそのままで。
仁織もまた、何かしらの思いがあるようだった。
「ふぅん?それで諦めるんか」
仁織だけではない。
この五十七年間、内なる思いを抱えていたのは。
「諦めて、何かなるんか」
そして同時に、仁織の思いをより近くで見てきた。何も思わないはずがない。
仁織が動かないのなら燈樹が動く。それくらいの覚悟が燈樹にはあった。
「……何もなかった。それが現実だ」
故に、仁織が選ばないと言うのなら、それはそれで構わなかった。
仁織は燈樹と目線を合わせることはしない。
胸ぐらを掴んでいる緩んだ手を燈樹は引き離した。
「じゃあもう、会えなくてもいいんだな」
廊下に繋がる襖へと歩みを進める。ここにはもう用事がないとばかりに。
今度引き止めたのは仁織の方だった。
「…………何だと?」
「何が?諦めたっていうことは会えなくてもいいっていうことやろ」
ガンッ、と鈍い音が響いた。
襖がくの字に歪み、一つは廊下に倒れる。
燈樹が言い終わらない内に、仁織は瞬時に燈樹との距離を詰め、更にそこから部屋の向かいまで押しやったのだ。
仁織の手には血が凝固した血のカッターナイフ。
そしてその背後には無数の血の刃が燈樹の急所を捉える。
「さっきからてめぇ何なんだよ!」
凄まじい威圧。
並の人間、いや吸血鬼でさえ気絶はおろか、果ては心肺停止までさせるほどの威圧が燈樹を圧迫する。
仁織と燈樹周辺の畳が凹む。
「会いてぇよ!会いてぇんだよ、いつまで経っても!でも会えねぇんだよ、もう!!ずっと後悔してる!ギオンの心臓に刃を入れた時から!ギオンがいなくなってから!俺の世界は何にも……何にもねぇ…………ずっと隣にいてぇんだ……もう、あんな…………」
少しずつ、仁織の勢いが弱まっていく。
揺れている。
仁織の心はもうずっと前から揺れていた。
「でももう、それも叶わねぇ。分かんだろ、てめぇなら。ギオンはもういねぇんだ……俺が殺したんだ、殺したんだよ……」
「……じゃあ、もう終わりだな」
仁織の心の中にある光は風前の灯火の如く。
何かに囚われたようにただただここ花街を守っていくだけ。
「ま。いいんやないの?終わったって決めたのはお前さんや」
燈樹はそう言い残して仁織の前から立ち去った。
ただ、仁織はその言葉を反芻するだけだった。




