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「――っはあ?!なんであいつ立ってんだよ!」
イドが目を覚まし、あちこちを歩き回っている時、その数キロ離れた木の上でその男はイドを見つめ、声を荒げる。
「あれで死なねーとかありえねーだろ!と、取り敢えず指示を仰がねーと」
男は急いで通話を繋ぐ。応答がすぐに返ってきたのは僥倖。
通話の相手からは無言の圧力があった。男と通話の相手では立場に差がありすぎ、緊張しないなんてありえないことで、男は戦々恐々としながら口を開く。
「申し訳ございません!奴が、奴が起き上がりました、どういたしますか」
『はあ?……どういうことよ』
聞こえてくるのは怪訝な声色。
「どう、どうと言われましても……」
それは男だって知りたいくらいだ。目にしている光景すら信じられないというのに、標的であるイドは平然と過ごしている。
イドは昨夜、死んだはずだった。
通話の相手が殺し、吸血鬼の仕業に見せかけるように偽装工作だってした。
生きていればその時にわかったはずであるし、例え生きていたとしても朝になるまでに大量出血で死ぬはずだ。
それがどうしてこうなったのか。
「本当に起き上がったんです!今、普通に歩いて……」
身体はあまりの意味不明さに後退りつつあるが、男の視線はイドに釘付けだった。
『……はぁ……まあいいわ。だったらアナタが殺しなさい。さっさとしなさいね、あの老人が来るまで時間がないんだから』
「しょっ、承知いたしました!」
通話が切れる。
男は急いでサイレンサー付きの銃を構える。息を止め、照準をイドに合わせた。
そして。引き金を引く。
「っ!!」
乾いた音がわずかに響く寸前、男は更に息を詰めた。
くるりとイドの顔が男を向き、目が合ったのである。
引き金を引いたのは無意識だった。突如襲ってきた恐怖に思わず身体が動いたのだ。
イドは小さく「いったぁ」とよろける。だが、イドは倒れない。数歩、よろけて、それだけだった。
確かに男が打った弾はイドの心臓部分を的確に命中していた。
「な、なんなんだよ、なんなんだよなんなんだよ」
男の顔には焦りが露わになる。
鼓動が早まる。
遥か前から―起き上がったイドを見た時から―男に焦りはあった。動揺し、恐怖すら感じていた。
引き金を引くことを止められない。
今度は、イドにかすりもしない。全てハズレていた。
「なんで当たってねーんだよ!」
男はイドが走って逃げる方に木々を移動しながら銃を連射した。
「おかしいだろ! なんで当たんねーんだよ、くそっ」
焦燥が男を駆り立てる。
狙いは合っている。距離も問題はない。
なのに、弾が外れる。
イドが全ての弾を避けているのか。弾がズレているのか。それとも当たる直前で軌道が狂うのか。訳が分からなかった。
「クソ、クソクソクソクソ!」
無我夢中に引き金を引き続けるも、イドに当たる気配はない。
冷や汗が頬を流れたことにすら気づかなかった。
「――――!っと」
男の口の中で「あっぶなぁ」という声が響いた。
イドもややあってから気づいたようだった。
イドの前に老人が現れる。
この山の唯一の例外。
『状況は』
耳元の声に男は息を詰める。
「いえ……申し訳ございません。殺す前に例の老人が来ました」
男は連絡相手の次の言葉が来るのを一日千秋の思いで待った。
『ふぅん……まあ、分かったわ。殺せないなら別の方法を探すしかなさそうね』
「申し訳ございません」
『いいわ。老人が来たんならさっさと離脱しなさい。ここで私達の関与がバレたらそれこそ大失態よ、命懸けで遂行しなさい』
「は!」
男は迷わず離脱した。
残されたのは、撃たれたはずのイドだけだった。
――――いなくなった。
木の上にいたはずの人影の気配が、きれいに消えている。
逃げたのか、はたまた――
「お前さん、なんやこの大怪我は?!」
「へ?」
いきなり両腕を掴まれ、まじまじと見られる。
数メートル前にいたはずだが、いつの間に間近にやってきたのか。あっという間だった。
老人のては強く、妙に慣れた手つきでイドの腕や身体をひっくり返す。まるで、壊れ具合を確かめるように。
「気づいとらんのか?!首んとこもなんか、吸血鬼に吸われたみたいな傷もあるで」
ありえん、とまるで異常者かのような顔つきである。若干、呆れも含んでいることはイドの勘違いではなさそうだ。
しかし、どう言ったものか。イドはやや頭を悩ました。
何やら追手らしき人もいたし、人目につかないようにイドを―というか、この器を―狙って始末しようとしているみたいだし。そんなことを馬鹿正直に老人に言えるはずもない。
うーん、イドは何か気を逸らせるような言い訳を振り絞る。
「あ、い、いやぁ……ちょっと、記憶になくて……」
「記憶が……?!やもんでこんな傷だらけなんか!」
これでよかったようなよくなかったような気もしたが、イドはそれ以上考えないことにした。
「お前さん、名前は?」
声を落ち着かせて真剣味を帯びた声色で、真剣な目をした老人はイドの身を案じている様子だった。
イドの中の良心が抉られ、何だか申し訳がなくなってくる。
「ん、んーと……イド、かな?」
この器の名前は知らない。
「名前もあやふやなんか?!記憶ってどっからどこまでがないんや」
「んー……んふ、あは?」
首を傾げた。イド自身、何を誤魔化したらいいのか分からない。苦肉の策とも言える。
途端に老人の顔色が悪く、青くなっていく。
「記憶喪失っちゅうやつか!大丈夫なんか?!」
イドは目を瞬いだ。別に間違えてはいないのだが、何かが少し違う。
「取り敢えずわしの家行くぞ。その怪我、手当しなあかん。どうせワケアリやろ?」
「ワケあり?」
「あぁ、記憶がないから分からんか」
記憶がないということもないが、この器の記憶がないのだから確かに記憶はない。
何とも言えず、イドは首を傾げながら頷いてみた。
「お前さんの格好、花魁やん?花魁はなー、ワケありで病院に行けれん奴ばっかなんよ――ん?そう思うと遊郭に連れてった方がいいか?んー……ま、いいか。わしの家に連れてってもそんな怒る奴はおらんやろ!な、それでいいか、イド?」
「え?あ?うん?たぶん……!」
是非を問われたところでよく分からないイドは一応、頷いておく。
「あっはっは。自分のこともあやふやなんやもんなぁ!そんなこと聞かれても答えられんよな」
自分で言って自分で納得したらしい老人はひとりでにうんうん頷いた。
イドは内心、設定を咄嗟ではあるものの、記憶喪失ということにしておいてよかったと安堵のため息を吐く。
花街やら、花魁やら、ワケありやら訳の分からないことばかりだ。
「どうせ、ここに来た理由も分からんのやろ?」
それは本当にそう。
イドが生前、こんな山に来た記憶はない。大して山などに興味のないイドからしたら、どの山でも同じなのだが、山の奥に祠がある山に入ったことは断じてない。
身体の器は本当にどうしてこんな人気のない山奥の祠に来たのか。
花街や花魁という老人の言葉からすると、足抜けという言葉が思い浮かぶが、早計に他なからなかった。
「こんなとこ、わしぐらいしか来んのやけどなぁ。お前さん、ほんと、どうしてこんなとこに来たんやろなぁ?」
「そうだね……何でだろ」
そして何故、身体の器は命を狙われることになったのか。
ふぅん…、とイドは視線を周りに向けながら考える。
そういえば――
「お参りに来たのかも?」
「お参り?」
「うん。僕が来た方向に祠があったからさ、何か願い事でもしたのかも」
――何故か生き返る羽目にもなったし。
「はっはっは。あそこは願い事をするところじゃあない。そもそも願い事をしに来たとしてもあそこはあんまり知られてないからなぁ、来んやろ」
「そうなの?」
逡巡して、老人は続ける。
「この山は神が御降誕された山とここでは昔から言われておる。その祠はそれが理由で建てられたものなんやよ」
「神が生まれた山だって?」
「そうやな、まあ、正確に言えば、神を産んだ際の胎盤がこの山にあると言われとる」
「胎盤?」
吸血鬼や鬼が跋扈する今、二百年前より遥かにどこの神かはさておき、神を信じている人間は多い。
故に、神が誕生した、或いはそれに関連するものに祠が建てられることも珍しくなく、どちらかと言えばそんな祠がこんな人気のない、忘れ去られたものになることの方が珍しい。
「うむ。胎盤は命を宿し、力を与えるもの。あそこの祠は……祠の中で眠る人間が再び生まれることを願って建てられたんや。この山に眠ることで神の力を授けてくれってな」
まあ、そうしてでも死んだ人間と再び会いたいらしいな。
老人はそう言って口を噤んだ。
言い伝えなのか、事実なのか、老人の感情はイドには感じられなかった。ただ、言い伝えと言うにはあまりにも感情が込められており、事実と言うには淡々とした、他人事かのような物言いだった。どちらにせよ、老人には無関係な話だったからなのかもしれない。
死んだ人を埋葬した祠。
復活を望まれて建てられた祠。
イドが思っていたような、神を祀る祠ではなかったわけで。だからだろうか、こんなにも寂れた、もの悲しい印象を受けたのは。
そのためイドは気づかなかった。まるで品定めをするかのような目でこちらを見つめる老人に。
「――それで、おじいちゃんはどうしてここに?」
わざわざ老体に鞭を打ってまで参拝をしに来るほどの祠ではないかのような気がした。まさか復活を望んだ人が老人なわけがないだろう。あれほど冷静に山と祠について話していた老人が。無関係かのような口調だった老人が本人ということはないだろう。
祠が建てられた意味を知った今、ここに来ることが参拝と言えるかどうかも怪しいところだ。それよりも監視と言った方が余程しっくりくる。
「どうして?そんなもん、参拝しに来る以外にあるんか?」
ところが、老人の口から出た言葉はイドが予想していたものとは異なるものだった。
「えぇえ?ほんとに?死者に参拝するの?何を祈るのさ」
「おぬし、さては墓を参拝したことがないな?死んだ人間に祈りを捧げる。ただそれだけやよ」
「いやいやいや、え?おじいちゃんが?」
「おかしいか?」
そう尋ねる老人は笑っているのに、目だけが笑っていなかった。
腑に落ちない。
納得できない。
イドの老人への正直な返答はまさにこれだった。
「うん、ちょっと……変だよ、それ」
老人の言葉は死者に祈る、というよりも何かを待っているように聞こえた。




