26 もっと
風が肌を撫でる。
ニィの身体が少しずつ、霧となって消えていった。
「あーぁ」
いつの間にかイドのすぐ隣にやって来た椿が頭を掻きながらため息をついた。
「殺してくれると思ったんじゃが。ま。あんな雑魚には無理か。のぅ、イ……ド……?」
「――……ニィ……」
仁織達を覆っていた結界が解かれ、イドとニィの間に隔てるものはなくなったが、イドはその場から動けなかった。
その背後から影が近寄る。
「……これは、どういうことか、説明してくれますよね?」
珀人が徐に口を開いた。
イドを追って、珀人達はニィが仁織を襲う少し前にここへ来ていた。
つまり、仁織の戦闘を終始見ていたということである。珀人の言う、『これ』とは、仁織が独断でニィを討伐したことではない。仁織が見せた、人間では実現不可能な魔法に、血色の刃、そしてニィが言い放った『始祖』。それらについてである。
魔力を持っている人間は四割もいないが、更に魔法を行使する者は一割程度で、特別視される。使役者であればそのほとんどが魔法師なのだが、あくまでも人間は自身に宿る魔力で魔法を使う。故に上限があり、魔法に限りがあり、ほとんどの魔法師は肉体強化に留まっている。ただ、鬼はその上限さえ存在しない。空気中に漂う魔素を扱い、魔法を発現させる。人間とはその供給量に違いがあり、魔法も操れるだけの技量があれば自由自在なものだ。上級となれば、魔法は手足を動かすに等しい。
正に、仁織が用いた空間魔法やニィが放った風魔法など、人間からしたら夢の産物に他ならない。
仁織も珀人達が見ていたことは最初から気づいていた。故に、人並みに力を抑えて戦っていたのだが、考えていたよりも今の使役者の基準は低いらしい。
珀人の視線は真っ直ぐ、仁織に向けられている。
「…………」
身体を動かし、仁織はそれと向き合った。
とは言え、何も言うことはない。
そんなことよりも仁織はイドの様子が気になった。
珀人達の手前に佇むイド。
イドの表情は俯いていて窺い知れない。
「……」
ニィが倒れていた場所にはもう何も残されていない。全て、霧となって消えてしまった。
イドはただただ、その場所を見続ける。
「何か、言ったらどうですか」
視線を鋭くして、珀人は言い募った。
腰にある拳銃に手を構え、遥か格上の始祖と思しき吸血鬼から目を離さない。震える手は恐怖からか、武者震いか。
心臓が嫌な音を立てて警告する。
眼前の吸血鬼は悠々と珀人達の様子を伺っている。
花街に始祖がいるという噂は一部の界隈では有名な話だった。使役者である珀人達も例に漏れず知っていた。
世界には八十年前から始祖の支配を許した国が存在する。六連星の中でも最も強いとされる傲慢の始祖。彼は帝国を創り、今も皇帝として君臨している。世界使役者連盟においても唯一その帝国は手出し不可能として扱われ、公式で人は誰一人として立ち入らない、鬼による完全支配領域となっている。ただ一つの例外――そのはずだった。
花街の噂はあくまでも確証のないもので、噂は噂に過ぎなかった。故に、これまで政府が花街に介入したことなど一度たりともなかった。
しかし今。
噂でしかなかった話が使役者の目の前で証明されてしまったのだ。
珀人は銃を出し、娜月は牙を露わにする。
「言うことはないとでも」
「君達には、君達の理念がある」
珀人の言葉に被さって、イドの口から無機質な声が響いた。
椿は予想していたかのように、一歩引いて、珀人達を見据える。
「それを正義と呼ぶことを僕は止めないし、否定もしない」
珀人の視界もまた、イドを捉える。
項垂れていた顔がゆっくりと上がり、振り返る。
何故だか、イドの動きに合わせて視線が動く。目が、イドから離れない。
「さぁ、件の吸血鬼は消えた。なれば、今ここに君達がその正義を行使する意義は消滅した。これ以上の介入に……君達の掲げる正義はあるのかい?」
どくん、どくん。
心臓の音が耳元で鳴り響く。これは、警告か、恐怖か、はたまた畏怖か。
今にも漸く、待ちに待った戦闘の予感に頬が緩み、飛び出して行きそうな娜月の襟元を無意識に掴んだ。
この決定に他の使役者達からは臆病者だと謗られるだろう。
また、既にない評判が更に地に落ちる。
想像は容易だが、珀人には確かにこれ以上関わる道理はない。
「……」
見切りは早かった。
今、ここでことを構えても珀人達に何のメリットもない。ただ一つ、イドが認識を間違えていることがある。
珀人に使役者としての正義はない。
イドと、仁織を見る。そして、さっきまでニィがいた足下を一瞥して、珀人は踵を返した。
「ちょっ」
襟首を掴まれていた娜月が不満に声を上げるも、珀人の意思に変更はない。
頬を膨らませて渋々、娜月も珀人の後についた。娜月としてはご褒美が据え膳になったようなものだ。つい、イドを見返して舌打ちしてしまうのも仕方ない。
遠ざかっていくのをじっと見つめるイドに、珀人は最後、こう言い残した。
「使役者の目がこれから先、花街にも及ぶことを覚悟しておきなよ」
◇◆◇
今日、花街では城主邸に程近い大通りで吸血鬼事件の被害者達の葬式が行われていた。
花街中の住人も、外の客達も大勢が参加し、初めての花街での行事にもかかわらず、大通りには人でごった返している。それほど、犠牲者の死を惜しむ人がいるということだ。
その中には桜華の姿もあった。
仁乃の棺桶に触れて、暫く動かなかった。
竜胆楼の禿達からイドが聞いた話では、竜胆楼に来る前、桜華は仁乃と一緒の妓楼で働き、仁乃のことを『ねぇ様』と呼んでいたそう。事実、仁乃の訃報があった日から桜華は今日まで寝込んでいたらしい。禿達が今日の葬式に行けるのか心配していたが、あの様子では無理に身体を引き摺って参加しているのだろう。
厳かな雰囲気が覆う大通りを一望できる、城主邸の一室。
イドは大きな壁一面のガラスに手を当て、下の様子を見ていた。その後ろには椿と、仁織と。
「――――っはっ!」
そして、ニィがいた。
鬼は息絶えると塵になって跡形もなく消えてなくなる。また、吸血鬼には自身の身体を自由自在に霧化させることができる。それらの特性を仁織は利用したのだ。銀の杭を打つ寸前、強制霧化と仮死魔法を併用し、ニィの死を偽装。その後、霧がどこかに行く前に空間魔法で拘束し、持ち帰る。一瞬でそれらを行い、使役者に気取られることなく、吸血鬼事件の終息を演出したというわけだ。
それを知らないニィは死んだと思った衝撃から荒い息を吐きながら、信じられないとばかりに暫く周りを見渡した。
一方、イドは仁織が突き刺す時も、その後も、遠目からでもニィが死んでいないことを見ていた。てっきり、仁織は構わず殺すものだと思っていたイドは仁織の選択を自分の目で見ていながら、信じられなかった。何故。イドは疑問で頭がいっぱいになった。今でもその問いに答えてくれる者はいない。
放心状態からややあって、取り敢えず現状を飲み込めたニィは視界の端に仁織の姿を捉えると、血相を変えて立ち上がった。
「し、始祖……!テメェ!!」
ガアァンッッ!
刹那、爆発音のようなものが城主邸を揺らす。仁織がニィの頭を掴み、床にめり込ませたのだ。
「ぐっ……!」
ニィの口から苦し紛れの声が漏れた。
起き抜けで、更に身体が万全ではないにしろ、違和感があった。
敗北を期したのはさすがに内心認めるが、ここまで圧倒的だとは感じなかった。剰え、ニィが仁織に傷をつけるまで、あと少しとも思っていた。
こんな、触れられないほどではない。
「俺は始祖じゃねぇ」
頭上から仁織の否定が降ってきた。
ニィはカッとなって堪らず声を張り上げる。
「ああ?!始祖じゃなかったら何なんだよ!上級より遥かに上なら始祖じゃねぇのかよっ!」
「そうだな。上級の中でも更に上級。俺は高貴なる者だからな」
「は……はぁ?!なんっだよ、それ!」
そんなもの、聞いたことがないし、感じたこともない。
鬼と言えば、ただの鬼、下級、中級、上級、始祖が人の間では常識中の常識である。そして、使役者であれば、真祖も知られている。それ以外の存在など同じ吸血鬼でさえも知らない。
しかし、花街においては異なる。
花街に長年住まう者達は上級の上に位置する高位という存在も身近なものだった。始祖ではないが、始祖と同等の力を持つ彼らは自身のことを『高貴なる者』と称している。
「じゃ、じゃあテメェは……?!」
ニィは思わず、椿へと視線を投げた。
「む。妾は嫉妬の始祖、明星じゃ。そやつと一緒にせんでくれぬか。不快じゃ、不愉快じゃ」
心外だと椿は眉を顰める。
始祖としての明星。花魁としての椿。椿はその両方の顔を使い分け、なかなかにその状況を楽しんでいた。とは言え、明星の名を出したのは実に数十年振り。出し惜しみしていたわけではないのに、久しく使っていなかった。事実、椿の正体を知っているのはごく一部。片手で足りるほどだ。
「しっと……テメェがっ!」
滑らかに暴露されたために呆気に取られていたニィは正気に戻るとすぐに椿へと飛びつこうとした。
途端、天井や壁から伸びてきた蔓がニィに巻きつき、宙に浮かべる。
「こ、この……!」
「暴れんでくれるかのぅ」
片目を瞑って、椿は口を尖らせた。
それを合図に巻きついた蔓が全身を縛り上げる。
「ぐぅっ!」
くふ。
「……殺してしまいそうになる」
「殺すな」
「っ」
椿を遮った仁織の忠告にも耳を貸さず、蔓は今にも肌を食い破りそうなほど殺気が込められている。
しかし、本気で殺す気はないらしく、ギリギリ、と締め上げられる程度に許されていた。
ニィが動こうとする度、締めつけが強くなるのは錯覚ではないだろう。
「……なんで、オレを殺さない……?」
息絶え絶えに、ニィは眼光鋭く問いかけた。
それに対する反応は薄い。椿は言わずもがな無関心で、仁織ははぁ、と面倒くさそうに肩を搔く。
「殺したところで意味がない。それに……」
「?」
仁織の目が窓に貼りついて釘づけになっていたイドに流れる。
「あぁ、イド!勿論、イドの願いを叶えんわけないじゃろう?」
「や……やっぱりテメェか!何する気だ!」
あの時、イドが使役者達と一緒にいるところを目撃し、裏切ったと思った。売られたと思った。それから、ニィはもうどうでもよくなった。悲しむだろうかと、躊躇っていたことも馬鹿馬鹿しい。ニィは目的のために誰かを犠牲にすることも厭わなくなった。
イドに感じていたことも紛い物で、錯覚で、無意味なものだった。そのはず、なのだ。
「何も。何もしないよ」
イドの目は相変わらずニィには直視し難いものだった。
「でもニィ……僕はニィのその、心の底にある悲しみを失くしたいんだ」
「あ?オレは別に」
「あるよ」
断言する。
ニィが否定しようとも、イドはずっと感じていた。
「ずっと、ずっと、苦しそう」
イドはニィに向かって手を伸ばし、一歩一歩、確かな足取りで近寄った。
痛ましい者を見る目。ではない。
眉尻を下げ、同情的な表情を浮かべるも、目は何も語らない。同情も共感も、何もない目。ただ、あるがままのニィの姿を映す。
「……テメェに何が」
イドの瞳の中のニィが困惑に怒っている。
現実のニィはイドを見下ろして不愉快げに顔を歪めている。
「…………僕はニィを愛してる」
「は、あ?」
虚をつかれたような声が漏れた。
「ニィはさ、僕を利用してよ」
ゆっくりと、イドがニィに触れる。躊躇いはない。あるのは気遣いだけ。
イドは丁寧に、じっくりと言葉を紡いだ。
「僕にニィのことを手伝わせてほしい」
「…………」
ニィの瞳が揺れる。
開口しては閉じて、また開口してを繰り返す。
まるで心の奥底をイドに撫でられているみたいに。
そのまま身を委ねてしまいそうになる感覚にニィは動揺を隠せなかった。これまで、感じたことのない感覚。なのに、全く不快ではない。
「……利用するだけだからな」
暫しの迷いの後、ニィは口を開いた。
そして――
チッ。
「信頼とかはねぇから。利用するだけだから」
「うん!うんっ!」
捲し立てるように言われた言葉にパアァァァッ、とイドは笑顔を見せた。
ニィは何となく目を逸らし、息を吐いた。
「もっと、もっと……ニィのこと、教えて」
ここまで読んで頂き、ありがとうございます!
これで一旦、区切りとします。
また少し経ってから再開しますので、それまでどうぞお待ちください。




