15
花街の繁華街から少し外れた妓楼の一部屋。そこへ窓から音もなく黒い影が入る。
部屋の中には一人の女花魁が鏡台の前で身支度を済ませていた。
「っ!――ニィ様、お帰りなさいませ」
ニィに気づき、即座に女花魁はその場にひれ伏す。
それを横目にニィの方は特に反応はしない。
女花魁がニィにひれ伏すことは当たり前なのだ。それにわざわざ反応することがおかしい。
それが女花魁とニィの距離感だ。
「……何もなかっただろーなぁ?」
「は、はい!」
女花魁は声を震わせる。
ここでニィの不興を買ったらどうなるかは分からない。それこそ、殺されてもおかしくはなかった。
「チッ。ならいい」
ニィは我が物顔で女花魁の横を通り過ぎ、ドカ、と部屋にある椅子に腰かける。
いつもなら、これで終わりだ。
女花魁から話しかけられるなんてことはないし、ニィも声をかけるようなことはない。
そう、いつもなら。
それが今日はどうしてだか、女花魁がひれ伏したまま身体をニィに向け、何か言いたげにニィの様子を伺う。
「…………あの……それで……」
「あ?」
「そ、そちらの方は……?」
控えめに問いかけられた先。
ニィは顔を顰めてそちらに向く。
「……あ?」
そこにはいつの間にかニィの袖にぶら下がるイドがいた。
「……」
暫しの沈黙。
時間が止まったかのように。
ただ、イドだけがぱちくり、きょろきょろと動く。
そして、固まった時間を破る、ニィの怒号が部屋に響いた。
「なんっでついてきてんだよ!」
椅子から立ち上がり、イドを引き剥がす。
ペッと放り投げられたイドはコロン、と平然と床に座った。
「ついてきちゃダメって言われてないもん」
キリッと屁理屈を捏ねるその様は何とも形容しがたい。
「どっか行けっつったろ!」
「僕、いやって言った」
「テメェの言うことなんざ知らねーっつーの!」
イラつき過ぎてこめかみが痛い。
互いに一歩も譲らない主張にいつまでも平行線だ。
襟首を掴み、窓から追い出そうとするも、身体全体に力が込められており、動かせない。
ならば押し出すまで、と押しては引いてを繰り返す。
「さっさとどっか行けよ!」
それはもはや、懇願に近かった。
しかし、それでイドが譲歩してくれていたらこんなことにはなっていない。
案の定、イドはイドで何とかしてこの場に留まろうと精一杯重心を床に下ろす。
「いーやー!」
「だあーもぉぉおーー!」
泣き叫んで先に観念したのはニィだった。
椅子に座り込んで、顔全体を手で覆う。
「あ。おねーさん!僕、イドって言うんだよ!」
その隙を見計らって、イドは女花魁の方を向く。
それに面食らったのは女花魁だった。
ニィもイドに負けじと顔を上げて抗議する。
「あ……え?え、えぇ、はい」
「何、勝手に言ってんだ、おい!」
両者の顔色など、何のその。イドは相変わらず、マイペースに話を進めていく。
「あのね、僕ね、ニィと一緒にいるの」
「俺は許可してねーぞ」
イドにニィのツッコミは聞こえていない。
女花魁はイドのようにはいかず、ちらちらとニィの顔色を窺いつつ、イドの方へ向いた。
そして、おずおず、と返答する。
「…………そ、そうなのですね。私は二乃でございます」
びくびくしているのは仕方のないことだ。
「二乃!よろしくね!」
それに構わず、イドは二乃にぐいぐい近寄っていく。
にこーっと人当たりの良い笑顔を浮かべ、ブンブン、繋いだ手を振った。
「何、よろしくしてんだ!するんじゃねー!」
背後からうるさい声がするが、無視に決まっている。
――ニィは天邪鬼なんだからぁ、もう。
何でもかんでも拒否するのだから、それを一つ一つ真に受ける必要もない、とイドは認識している。
それを決定づけるかのように、イドは自分の気になることを、自分がしたいようにするのみ。
「二乃とニィって名前、似てるんだね?」
「確かに、そうでございますね?」
二乃の返答もスムーズになってきた。
「だからっ、おい!」
控えめながらも少しずつ、ニィの方を伺い見ることが少なくなっていた。
うんうん。嬉しくなってイドは何度も頷く。
一方、ニィはイドには何を言っても無駄だとこの短時間で身に染みるほど理解していた。ならばと、二乃へ睨みを利かすも、二乃が遠慮をしたところでイドが止まるわけがなく。虚しくも無駄に終わっていた。
「名前、一緒につけたの?」
「チッ」
何を言うのも、圧をかけるのも諦め、ニィは深く椅子に座る。
もう勝手にしろ、という境地。
その姿を見て、二乃はつい笑みが零れた。
ニィが来てからいつニィの機嫌が爆発するのかと戦々恐々とする毎日だった。それがどうして、イドという少年が来ただけでこうも落ち着くとは誰が予想できただろうか。
「ふ……うふふふ。可愛い禿さんでございますね」
まだイドのように好き勝手はできないものの、これまでに比べたら段違いだ。
つい、肩の強張りが緩んでしまう。
二乃の様子にニィは不満気な声を出す。
「おい、何テメェまでこいつ、歓迎してんだよ」
「も、申し訳ございません……」
やはり、ニィに無遠慮にいけることができるのはイドだけだ。二乃は心底そう思った。
イドは全くそんなこと自覚していないらしいが。
「もー、ニィ!そんなこと別にいいじゃん」
「あ?ったく。勝手にやってろ」
フンフン、とニィに向かって抗議するイドは何も考えていない様子だった。
そして、それに対するニィの反応も二乃からすれば異常。考えもつかなかった反応である。
二乃は呆気に取られ、イドを凝視した。
まさか、あのニィをこれほど気安く見えてしまう時が来るとは。
黙り込んでいる二乃を変に思い、イドは頭を横に傾けた。
「…………」
「二乃、ごめんね?」
「……あ、いえ……」
何に謝っているのか、ニィの代わりにやっているのか、イドも分からないが、何となく謝った方がいいのかと思う。
しかし、この感情を何とも言いがたい二乃は反応に困る。
逡巡してもどうしたらいいのか分からなかった。
「?どうかした?」
二乃本人でさえ分からないことをイドが察することなどできるはずもなく。
イドとニィを交互に見てはニィの顔色を窺いつつ、恐る恐る二乃はこの形容しがたい感情を口にしてみる。
「……いえ。その……ニィ様のあんなお姿、初めて見ました……」
「そうなの?」
二乃から見るニィは恐れの塊で、常に警戒していないといけない存在だった。
鬼は全て例外なく、欲望に忠実である。鬼それぞれで何を優先しているのかは異なるものの、全ての始祖の別名に欲望の名が当てはめられるほど、理性が意味を成していない。
そんな化け物に対し、何の抵抗もなく接することができるはずがない。
ただの鬼でさえ、欲望が強いと言われる吸血鬼に対して一線引いている。人ならば余計に、だ。
それに比べたら、イドがどれほど異常なのか、考えるまでもない。
「えぇ、まぁ。それだけあなたに心を許しているのでしょうね」
「?二乃には違うの?」
「……うふふ。私とニィ様はそんな関係ではございませんもの」
「へー……」
というか、あなたがおかしいのよ。
辛うじて、その言葉は二乃の喉奥で飲み込んだ。
「どんな関係なの?」
二乃のそんな内心を知らないイドは相変わらず、とんでもないことを尋ねてくる。
吸血鬼と人の関係性なんて、一つしかないでしょう。
また一つ、二乃は内心を心の奥に仕舞い込んだ。
この平和ボケた、能天気な、箱入り娘ならぬ息子に何と説明したらいいのか。二乃は頭を抱える。
「うぅーん、そうですねぇ……私がニィ様に脅されて部屋を提供しているというところでしょうか」
「ふぅん?」
質問攻めにされるかと思った二乃の予想に反して、イドの反応はそれだけだった。
分かりやすく言ったものの、二乃は決して事実は言っていない。
吸血鬼のみならず、鬼とはそこにいるだけで対抗できない人は言いなりになるしか選択肢はないと言っても過言ではない。対話できる、交渉できるなどとは思わない方が身のためだ。
それがイドには理解できないだろうことはたった数回やり取りしただけの二乃でさえ、分かっていた。
イドと二乃とでは感覚が違うのだ。イドでも理解できるように説明するには事実を言わず、例え話で答えた方が分かりやすいだろう。
さすが、嘘と本当が混在する花街で花魁をやっているだけあって、二乃のその感覚は合っていた。
「でも、ニィって優しいでしょ?いいなぁ、僕、ずっとニィと一緒にいたい」
数多くの人と接してきた二乃でも今聞こえた音を言葉に変換するのに時間を要した。
「…………優しい?」
聞き間違いであることを胸に、二乃は聞こえてきた音をオウム返しする。
信じられない、いや、信じたくない単語だった。
「うん、優しいでしょ!僕にも優しくしてくれたんだよ!」
「そ、そうなのですね……」
にこーっと。
それはもう、満面の笑みでイドは二乃が信じられないことを言う。
二乃はそぉっとイドから一歩、距離を取る。
イドと二乃が話す姿を見て、何を思ったのか、ニィはうんざりした様子で呟いた。
「……チッ。弱ェ奴ほど群れやがる……」
二乃はニィに初めて問い質したかった。
どこをどう見たら、イドと二乃が群れるほど意気投合したように見えるのか。距離を置いたのが見えていないのか。
二乃はニィの胸元を掴んで、懇々と言い含みたかった。
「ねぇねぇ、ニィ!これからどうするの?どこか行く?外!僕、外行きたい!」
ワクワク、とまるで提案が通らないことなど頭の片隅にもないような態度である。
キラキラ煌めく両目でニィを射抜いた。
その顔が眩しい。
ニィは一瞬、うっと目を細めた後、何でもないかのように顔を横へ背けた。
「……どこも行かねーよ」
「え?行かないの?」
しょぼーん。
途端にどこかの絵文字の如き表情を浮かべる。
本当に分かりやすい表情筋だ。
よくそんなにころころと変わるものだな、と一種の感心をしつつ、ニィは素気なくあしらう。
「外に行きたいんだったら一人で行ってそのまま帰ってくんじゃねー」
「えー?一人で行ってもつまんないだもん」
むぅ。頬を膨らませて、イドは不満を露わにする。
ニィは置いておいて、ちら、と二乃を見つめた。
「おねーさん、行く?」
「えっ、私でございますか?!」
声をかけられるとは思いもしていなかったらしい二乃は咄嗟のことに声を上げる。
外に行くことなど、いつもやっていること。何ら、難しくはない。ただ、今回はそんな日常と全く異なるのだ。
誰が好き好んで吸血鬼と遊びたいか。
外を出歩くなど以ての外。
そして、イドと二人きりの外出だとしても、御免こうむりたい。
価値観が違いすぎる。
何をしでかすか分かったものではない。
面倒事に巻き込まれる未来しか見えなかった。
「私は……これから稽古でございますので……ちょっと……」
二乃はしどろもどろに目線を泳がして答える。
嘘はついていない。例えその稽古とやらが夕方から始まるとしても、だ。疑われたとしても前倒しすればいいだけのこと。
ニィに引き続き二乃にまで断られると思っていなかったイドはまたしても頬を膨らませた。
「じゃあ、やっぱりここはニィでしょ!」
「だから行かねーっつってんだろが!」
気を取り直して、イドはニィに振り返った。
言葉だけの拒否をするニィの背中を押す。
やはり、ニィはイドに対して無理やり何かするということはないらしく、抵抗しながらもイドのなされるがまま窓に近づく。
「行っこー、行っこー」
「え、あ、ちょっ!ここ二階――」
二乃の注意も間もなく、ニィとイドは軽やかに窓から落ちる。
「じゃ、いってきまーす」
という、イドの阿呆みたいな声がその場に残った。
イドが眠っていた期間を変更しました。37年→57年
7月から完全不定期になります。
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