13
きっちりと閉まった襖を確認して、イドは深々と息を吐いた。
「……ふぅ」
身を翻し、静かに元いた彼の枕元に座る。
椿を半ば強制的に下がらせたのはなんてことはない、ただの気まぐれだ。
別にそのままここに居座っても何ら問題はない。ただ、椿が口出しや手出しをしてくることにイドが頭を悩ませることになるだけで。
イドは彼を見つめ、赤茶髪をそっと触れてみる。
彼はまだ夢の中だ。
徐にイドは彼の掛け布団を捲って、傷だらけの身体を見る。
花街に来た際、イドも彼同様、傷だらけであった。それを治したのは他でもない椿。椿が言うには、イドは未だ神に近い存在だが、神力を使うことができていないらしい。この身体に入ってもう半月が経つ。そろそろ力が身体に馴染んできてもいいと言うのに、その気配はイドには感じられていない。
――血を飲めば、治るんだよね……
吸血鬼は人の血を飲めばある程度の怪我はすぐさま治る。鬼であれば人の血肉を喰らえば。
しかし、イドの身体が人とも鬼とも異なるものなのだとしたら、その血を飲んでどんなことが起こるか分かったものではない。それもあって、彼が襲ってきた時も今も血を飲ませないようにしているのだが、それもあくまでも可能性を鑑みた不確定要素でしかない。
それでも、イドが人の身体に入ったにもかかわらず鬼と人を区別できたことを考えると、身体が変化しているのは確実だと思われた。
もし、そうだとしてもイドの血を飲ませても構わないのだとしたら、それ以上簡単なことはない。
「…………うーん……悩みどころだ」
イドは顎に手を添えて首を傾げた。
神力を使えるようになってさえいれば、悩むこともないのだが。
イドは両手を天井に翳してみる。
――うんともすんとも……って感じ。
力が使えなくなっている時も何も感じなかったし、使えるようになったとしても変化があるとは思えない。
ならば、試してみるのもまた一興。
イドは両手を彼の身体の中心に置き、感覚を探る。
まずは椿に治してもらった時の温かさをイメージして目を瞑った。
――熱くもなく、冷たくもなく……ほんわか、ほんわか……
ややあって、ゆっくりと目を開ける。
変化なし。
「無理か……」
肩を落とすことはない。
イドはすぐに次のイメージを思い描いていた。
――傷が治る、治る……
前世で問題なく力を行使していた時のイメージだ。以前はここまで念じなくとも、そして思い描かなくとも力を使えたが、今はまだ初心者の段階。イドは自然と念じていた。
そして、再度ゆっくりと目を開ける。
包帯をするまでもない数多のかすり傷が一つも残ることなく消えていた。
「治った……!」
息を飲む。
本当に。
本当に使えたのだ。
喜びにガッツポーズをする。
――治った!治った!
そして、高ぶる感情のまま、くるくるぴょんぴょんと跳ね回る。
声を出していないだけ、理性で襲撃者が心地良く眠っていられるように一応の配慮はしている。
痛々しい包帯達を解いて傷を見てみるも、やはりそこには何もない。完全に成功だ。
「んふふふふ」
ついつい笑いが漏れ出てしまうも仕方のないことだろう。
全ての包帯を解き、捲ったままの布団を掛ける。
このまま順調にいけば、彼が目を覚ますのも時間の問題だ。
イドは額に乗せた布巾を水で絞り、また額に乗せる。
「……温くなってきたな」
水と彼を交互に見遣る。
彼が目覚める気配はまだない。
少し彼一人にしてもいいだろう。
「ちょっと、水変えてくるね」
彼に語りかけるように言って、イドは桶を持って一階の手洗い場へと急ぐ。
そこには思わぬ人物が先客として蛇口を使っていた。
「あれ?君は……えっと……」
イドは足を止め、じりじり流し台へ近寄りながら彼女の名前を必死に思い出そうとしていた。
以前、一度だけ椿が講師となったことがあった。確か、その時に他の禿達とは一線を引いていた禿だ。
いつか仲良くなりたいと狙っていたから顔だけは覚えていた。
「……桜華」
残念ながら、名前は全く憶えていなかったが。
「そうだった!ごめんね、名前なかなか覚えられなくって……」
えへえへ、と頭の後ろを掻く。
桜華はイドを一瞥するだけで、それからは手元の大量にある食器に視線を落とし、洗い続ける。
「別に。私も全員の名前、覚えてないから」
「!そうなんだ!」
――優しい子なんだなぁ。
しみじみ、イドは思った。
素っ気なく答えている様子でも、イドのフォローをしてくれたり、さりげなく身体をずらしてイドが入れるようにしてくれたり、心遣いに溢れている。
何だか心がポカポカしてきて、イドの頬がにんまり、緩んでしまう。
桜華が作ってくれた間に入り、温くなった水を捨て、新しい冷たい水を桶に入れる。
「僕はイドだよ!」
「……うん」
しかも、イドの名前は覚えてくれていたようだった。
それなのにイドが桜華の名前を憶えていなかったことをフォローしてくれたのだ。
桜華はイドを喜ばすことが得意なのだろうか。イドはまたしても嬉しくて両頬を手で包み込む。
言葉少なに食器洗いをしている桜華の横顔を盗み見た。
ふと、桜華の周りを見回す。
「……他の子達は?桜華だけで洗ってるの?」
ここに来るまでも禿達が互いに協力して妓楼の内外を行ったり来たりしている姿をよく見かけた。また、今日以外でも禿達が一緒になって花魁達の手伝いをしている様子を見た。
その中でも誰一人として一人で行動しているところを見たことがない。眼前の桜華を除いて。
偶然、桜華が一人でいる時に声をかけたのかとも思っただけだったが、予想外にも桜華はイドからも、洗い物からもスッと視線を逸らした。
「他の子も……忙しいから」
声色が少し沈む。
桜華自身はさっきと変わりなくいられているのだと思っており、表情こそ変わっていないものの、声は明らかに低く小さくなっている。
「でも、みんな、一緒にやってるみたいだよ?桜華は一緒にやらないの?」
「……」
桜華の返答はない。
ほんの少しの間手を止めていた洗い物も、いつの間にか再開し始めている。
「あ、でも、一人でやりたい子もいるか……」
いつの日だったか、誰かに『みんながみんな誰かと一緒にいたいって思わないで』と泣いて叫ばれたことがあった。
――あれは誰だったっけ……?
前世の遠い記憶。
その後どうしたのかすら憶えていない。
うーん、と首を捻って思い出してみる。
その時、ポツリと桜華が呟いた。
「……どうせ、みんな同じでしょ……」
「ぅ、え?」
全く違うことに思いを馳せていて聞き取りにくかったが、ちゃんと聞こえてはいるし、聞いてはいる。
その上で、何がどう同じなのか、桜華の言いたいことが何だったのか、イドには考える必要があった。
『同じ』。
何が、と直接聞こうかと思ったが、横を向いて、止める。
沈んでいる。
いや、寂しがっている。
悲しんでいる。
とても気安く尋ねられる雰囲気ではなかった。
いつか他の禿達が話していたことを思い出す。『追い出された』『継子から外された』桜華からしてみれば、それはつまり、見捨てられたとも言えるのではないか。
花街にいること自体、家族に見捨てられた子も当然存在する。
――それが、『同じ』?
頭に割り込んできた過去の記憶は置いておいて、少しの間、今世のことを思い返してみた。
「そうかな……?」
暫く考えた末、イドは首を傾げる。
「僕はみんな違ってて面白いと思うけど……」
「――……」
桜華がハッとしたかのように顔を上げ、まじまじとイドの横顔を見つめた。
今度はイドの方が思い出すように桶から水が溢れる様子をただただ眺めていた。
「みんな、とっても優しいし、それに桜華のことが好きだから、桜華がどういう風にしたいか言えばその通りにしてくれると思うよ!」
パッと言い終えると同時に桜華の方を向く。
桜華はただ黙ってイドの話を聞いていた。
暫くイドを見つめた後、徐に顔を元の位置に戻す。
そして、隣りにいるイドにも聞こえないくらいの声量で、誰にも聞かれないように独り言ちた。
「そんなこと……って知ってる……」
「え?なんて?」
「……」
案の定、イドには聞こえなかった。
それ以上喋る意思がなくなったのか、桜華は口を一文字に結び、一切、イドの方を見ようとしなかった。
しかし、イドはそれでも良かった。
蛇口を捻り、桶に入った溢れんばかりの水を少しだけ捨てる。
「それに、僕も桜華のこと大好きだよ!」
じゃあ、洗い物頑張ってね。
それだけ伝えて、イドはその場を立ち去った。
無表情ながらに目を見開いてイドの背中を真っ直ぐ見る桜華を置き去りにして。
部屋に戻る際も禿達がせっせと働いているところをすれ違う。桶を持ったイドに「どうしたの?」「どこに行くの?」「手伝おうか?」と声をかけてくる。イドはそれを制し、部屋へと速足で戻った。
襖を開け、すぐに閉じる。
誰か部屋の前を通るかもしれない。
「戻ったよー……って、まだ寝てるか」
僅かに声を抑え、彼の顔を覗き見る。
起きた形跡はない。
――この子が起きたらどうしよう……?どうすればこの子が話せるようになるかな……
イドは頭を悩ませた。
イド本人はそれほど社交的ではないと思っていることもあり、こういった場面は何度経験しても苦手なのだ。
「あ!確か……」
その時、いつもの光景を思い出す。
いつも、椿や夕霧と一緒に暇つぶしにボードゲームをして遊んでいるのだ。客ともやることがあり、何気に二人とも強い。
それらがこの部屋に常備されていた。
トコトコトコ、といつも椿が出してくる棚を探り見る。
「……っ」
その中には大量のボードゲームがごちゃ混ぜになっていた。
「うーん……」
初心者かつ初対面の人と遊ぶなら、とイドは漁り始める。
――トランプ?スティックゲーム?オセロもあるし……それともジェスチャーゲーム?うぅん……
手に取って見てみるものの、なんだかしっくりこず、また棚の中に放り投げる。それを何度も繰り返して思案した。
自己紹介ゲームもあるが、話下手の場合、あまり盛り上がらないと思われる。
何がいいやら。
棚の淵に肘をつき、迷う。
「――……あぁ?」
そんな時、背後から聞き慣れない低い声にびく、と肩を揺らした。
しかし、振り向き様すぐに襲撃者が起きたのだと落ち着き、駆け寄る。
思わず、イドの頬が緩む。
「起きた?どっか痛い?頭?」
滑り込むようにして目を覚ました彼のもとにちょこんと座った。
そして、彼を覗き込んで首を左右に傾ける。
「…………なんだ、テメェ」
怪訝な声と表情を浮かべて、彼は上半身を起き上がらせた。




