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三妓楼の楼主の部屋にはそれぞれ、城主の屋敷と繋がる道がある。それは城主から許可を得て漸く使用できるもの。楼主と一部の者しか知らないその道は花街の重要機密のようなものである。
それだけでも、三妓楼が如何にこの花街において重要な立場にあるかは明確だ。
また、それを何の疑問もなく使える椿は特別だった。
楼主の部屋の奥に飾ってあった簾を上げるとそこは、血が壁に張り付いて凝固したかの如く真っ黒な世界が広がっていた。
しかし、そこへ足を踏み入れると全く異なる、赤を基色とした豪華絢爛な、和の要素が強い和洋折衷の廊下に出る。
日本でありながら、異なる異国。
そこはまるで幻想世界のようだった。
前世は戦争が主な時代で、現実を塗り固めたような世界だった。
そんな世界ばかり見てきたイドにとって、全てが目新しい。あちこち、目を奪われると言ったらいいか。
イドの気持ちはお上りさん。
今世で目を覚ましてからずっとお上りさんのような感覚だったが、ここは全てに圧倒される。
反対に椿はさすが慣れている様子で目の前の襖を開けた。
襖の先は廊下とはまた似て非なる空間だった。
廊下が全てで相手を威圧する場所としたら、ここは有無を言わさぬ空気。豪華絢爛なわけでも、何か特別な物があるわけでもなく、ただただ簡素。
その中で目を引くのがこの部屋に唯一存在する灰色の帳。
椿は部屋の中には入らず、襖の縁にもたれかかった。
「――やっとお出ましか、椿」
帳の向こう側から低く重量感のある声が張ってもいないのにこの広い部屋に響く。
「っ…………」
――…………なんで……
灰色の帳が風で凪いでも内にいる人物は見えない。
しかし、イドの脳裏にはその姿ははっきり映し出されていた。
聞いたことのある、聞き慣れた声。
黒い長髪を後ろで結び、鋭く落ち着いた竜胆色の瞳。
――何でここに、仁織が?
驚愕し、知られないように自然と隠れるも、イドの視線は帳から動かない。
心臓が速く鳴る。
頬を伝う水は冷や汗か。
前世でイドを殺した張本人が今、目の前に確かに存在していた。
「『お出ましか』じゃと?妾がわざわざ来てやったの間違いじゃろ」
椿は悪態をつく。
しかし、イドに二人の会話を聞いていられるような余裕はなかった。
イドの目がぎこちなく泳ぐ。
頭を占めるのは、早くここから逃げなければならないという思い。
目立つな。目立ってくれるな。
イドはできる限り影を薄くして息を潜める。
息が浅く、激しい。
落ち着け、落ち着け。イドはそう自分に言い聞かせた。
そう、イドの姿は前世とは異なっている。身体か子どもから青年へと成長している。顔も何もかもが違う。ただ一つ、髪色だけは前世と同じだった。白髪に一筋の黒いメッシュ。呪いのようなそれは憑依しても尚、付き纏っていた。しかし、それ以外はまるで異なる。
分かるはずがない。
知られるはずもない。
冷静に頭の中で巡らせたおかげか、少しずつ、落ち着きを取り戻していた。
幸い、仁織もイドへと話を振るつもりはないようだった。
「相変わらずだなぁ、明星」
く、と笑い、誰もを惹きつけるような声。
英雄には人望がある。そして、仁織は英雄でなくとも人望を得られるだけのカリスマ性があった。
それはいくら年月が経とうと変わらない。
しかし、どこか魂の片割れをなくしたような覇気のなさがあった。
「貴様が好き勝手やりたい放題やってることは聞いてる」
「……『好き勝手』?『やりたい放題』?」
椿は仁織の言葉を復唱した。そして――
「ハッ!どの口が」
そう、吐き捨てた。
イドに決して向けることのない軽蔑の表情を惜しみなく仁織へ向ける。
「妾が築き上げてきた遊郭を掻っ攫って好き放題やってるのはおぬしじゃろうて」
かつて、ここは小さな遊郭だった。
明星が密かに自分好みにしたくて作った小さな通りだった。今よりももっと無秩序で、色欲に塗れ、男女も愛憎も入り乱れる遊郭ははるか昔の吉原遊郭を思い出させるもの。
それを五十五年ほど前、協力という名で奪われた。
今となっては城主は仁織。椿はただの―ただのと言うには語弊があるが―花魁。
「さっさとあの黒蝶共を黙らせてくれんかのぅ」
不愉快だった。昔も今も。
気に食わなくて仕方がなかった。
「それは無理だな」
椿の訴えを仁織は一蹴する。
黒蝶は花街の所謂自警団。各妓楼で花魁や使用人として入ってはいるが、所属はあくまでも花街。城主である仁織の部下とも言える。
「最近、妙な奴らが出入りしてやがるからな」
言外に黒蝶を動かさないわけにはいかないと、そう伝える。
フゥ。
わざとらしく息を吐く音を大きくする。
「優しく言いすぎたかのぅ。無能のくせに出しゃばるなと言っておる」
如何にも不愉快だと扇子を取り出し、口元を隠す。
目を細め、帳の内にいる仁織を見つめた。
「妾は妾じゃ。妾のすることを邪魔すると言うのであれば、例えぬしでも容赦せぬぞ」
「例え俺でも?ははっ。貴様が言うと俺だからだと聞こえるなぁ?」
仲が悪い。
「ふむ。確かにの」
とんでもなく、すこぶる、壊滅的に仲が悪い。
「妾がぬしに手加減する必要などなかったの」
前世もこうだったか。
イドは思い返してみるも、確かに二人でいるところを見たことがない。
明星と仁織はイドが死んでから知り合ったのだろうか。
最初は明星が仁織を一方的に敵視していると思っていた。がしかし、これまでの会話を見るに、仁織もまた少なからず明星を意識している。もちろん、悪い意味で。
「妾が愛する欲に塗れる遊郭を、こぉんなつまらぬ場所にした恨みも。主様を殺した恨みも。おぬしを殺さぬ理由を見つける方が難しかったの」
「……」
まるで水と油。互いに互いを煽り合っている。
一方、イドは椿の言葉に肩を小さく震わせた。
椿はニヤニヤ笑ってはいるものの、目は全く笑っていない。殺気すら感じられる。
「気に食わぬ時はおぬしを真っ先に殺してやるからの、安心せい」
何を安心すればいいのか。
椿の矛先がどこにも向かないように祈っておけばいいのだろうか。
「ま。いい加減、黒蝶にはうんざりしておるがのぅ」
扇子をパタパタ振って、顔を顰めた。
「羽虫のようにうろうろと。目障りじゃ」
自警団なのだから仕方ないだろうなどという当然のことは椿を説得するには足りない。
昔からそうだ。
明星は自らの欲、快楽でしか動こうとしない。
周囲など気にも留めない。雑音に同じ。
色欲を冠する始祖とは正にこういう生き物だった。
椿が明星としてその気になれば国取りなど片手間のように済んでしまうだろう。
体裁どころの話ではない。
仁織は頭が痛くなった。
「はぁ……黒蝶からすれば明星の方にうんざりしてるだろうな」
独り言ちてしまうのも仕方がない。
椿と話をするのはかなり精神的に疲弊するものがあった。
仁織はふと、椿と共に呼び寄せた件の問題児に初めて視線を送る。
「後ろの。奴が何をしようとしていたのか、明星。知らねぇなんて言うんじゃねぇだろうな?」
「後ろの?イドのことかの?」
僅かに不快な感情が声色に乗った。
イドは気づかなかったが、仁織には十分気づけるほどの感情だ。敢えて、イドに向けなかったようにも見える。
仁織が言うように、椿もまた、四芭がしようとしていたことなどとうの昔に把握していた。それが仁織にとって許されざる行為だとも。
しかし。しかし、だ。
椿にとってイドが全てである。花街だろうと、遊郭だろうと、イドに取って代わるものでは到底ない。
仁織はイドを知らぬ。そして今、本来のイドは椿だけの存在。
そんな特別な地位をこんなところで投げ出すわけには椿はいかなかった。
ほんの少しの不快と牽制。
それだけで椿がイドを本気で気に入っていると仁織に思い知らせることは可能。
実際、椿の一言で仁織の中でほんの少し、一目置く存在となった。
「……イド?確か奴は四芭とか言わなかったか?」
「四芭のことなど、知らぬ。妾はイドのことを殊の外気に入っておるからの」
椿は仁織には―おそらく、誰にも―見せない、柔らかな表情でイドの頭を撫でた。
「四芭とイドが違うとでも?」
「さぁの?それこそ、黒蝶から聞いているのではないか?」
腹の探り合いは無駄か。
仁織と椿にとっては今更だったが、花街が絡んでいる以上、仁織としては椿にできる限り探っておきたかったのが本音だ。それも徒労に終わってしまったが。
「……記憶喪失、か」
「それ以外に何かあるかのぅ?」
椿はそれ以上喋るつもりはない、とでも言いたげに口を噤む。
四芭が何をしようとしていたのか、まだ分かっていない。それを知る四芭が記憶喪失となって、イドとして生活しているからだ。
ただ、四芭のしたことは事実。
何者かの手駒だったことは確実。
結局はイドと椿次第と言ったところだった。
「俺の領域に入ってくるのはいい。ただ、花街を少しでも乱すことがあれば……」
「分かっておる」
仁織が全てを言うより先に椿は言葉を遮った。
「話はそれだけかの。ならば帰るぞ、イド」
「……はい」
ここはしおらしく。目立たず。記憶の中でそんなやつもいたか程度に収まるように。
もはや、今更だったが、椿に囲われていることなど想像も気づきもしないイドは初心を貫いていた。
襖の縁から背中を離し、仁織に背中を向ける椿に仁織は確定事項のみを伝えた。
「明星。一人、監視は付けさせてもらう」
監視とは。あまりいい気がしない確定事項だった。
「夕霧のことかのぅ?あやつもイドにちょっかいかけすぎじゃ。鬱陶しいの」
椿は顔だけ振り向き、目を細める。
簡単な異議だ。
しかし、仁織もまた、ピシャリと言い放つ。
「乱す可能性がある者を俺は見逃せない。譲歩するのはここまでだ」
そう言い残して、椿とイドは元の竜胆楼楼主の部屋に戻されたのだった。




