第19話「誇り高き記憶」
「絶対に守ってあげる。私は一人も見捨てたりはしない。信じてもらえる?」
アデリーナは膝をついて女の子の目線に合わせて言った。小さな女の子は袖で涙をぬぐい、それからようやく頭を縦に振った。「ありがとう、…おねえちゃん。」
アデリーナとリリーは女の子の手を引きながら制御室入口まで急いだ。ほとんどの人々が既に制御室へと進み、ブラックスとトレバーの先導に従って移動した後だった。ただ一人の衛兵が入口に立っており、アデリーナの顔を見つけるなり安心した表情をした。そして、「急いでください。」と二人に促した。
アデリーナは後ろを振り返り、周囲を見渡した。炎に包まれ、燃え盛る宮殿をみた。もうすでにあたりはデプリヴンの群れが占拠しているだろう、そして間もなくこの場所にも迫りくるだろう。
アデリーナは呟いた。
「お兄様・・・。」
涙が頬をつたった。こんな状況ではどのような者でも生きていくことはできないように思われた。そして、となりに立つリリーに声をかけた。
「必ず帰ってくる。そして、リリー。これからも一緒に戦ってほしい。」
リリーは静かに頷いた。
アデリーナはその返事に笑顔を見せた。「ありがとう。さぁ、行きましょう。」
――
ブラックスは逃げる人々を先導するためにトレバーとともに先陣を歩いていた。その先にデプリヴンが現れないとも限らないからだ。グレート・バリケードの制御室には、その大量のエレクタを送信するための巨大な管が通っており、その側面に整備を行うための空間が用意されていた。小さな金属製の扉を開けると人がやっと一人通ることができる程度の小さな空間がずっと先へと続いていた。中はひどく暗かった。少量の発光石はその通路を照らしていたが既に長年の時を経てためか微弱な光度だった。しかし目が慣れてくると十分に先が見通せるほどの明るさはあった。
ブラックスは先を進みながら、部下に確認した。
「女王様は?」
「はい、最後尾、リリー様と一緒のようです。」
「そうか。女王様はあいつにまかせておけば大丈夫だろう。それよりも私は安全にここから抜け出すことができるよう、注意せねばならないな。」
それからどれくらい先に進んだだろうか。トレバーが足を止め、制御道の少し開けた空間で何かを調べ始めた。すると小さな扉が外に向けて開く。その先は制御道よりもずっと明るい空間になっていた。壁面や天井が石を積み重ねて設けられた通路であり、それはずっと奥まで続いている。しばらくブラックスがその通路を確認していたが、そこに何者かが潜んでいる様子は感じられなかった。
しばらく細長い通路を歩いていくと行き止まりになっていた。壁面にはタラップがついており、上を見上げると垂直方向に空洞が広がっていた。
トレバーは言った。「ここから上へあがるとおそらく地上にでることができるでしょう。」
トレバーの推測した通り、タラップを掴み上まであがるとそこには鉄の板があり、小さく設けられた金具を押し上げることで外にでることができた。ブラックスは慎重に外側の音を確認した。かすかな風の音と、虫たちの音が聞こえてきた。顔を持ち上げ外の様子を確認した。周囲を見渡したがそこが最初どこかは分からなかった。周囲にデウリウンはおらず、シンと静まりかえっているようだった。体を起こし、その場に立って確認することでどこにいるのかをようやく理解した。
「ヴィクトリア・ローズガーデン。バラの庭園か。まさかこんなところに通じているとは…。」
周囲はエレクタが煌々と照らしており明るかった。その様子をみて後から上がってきたトレバーは言った。「まだエレクタが供給されて周囲のランプが点いていますね。おそらく補助装置が作動しているのだと思います。エレクタを一時的に蓄える装置まで用意されているなんて。」
ブラックスはタラップを登ってくる人々を先導すべく、部下達に命令をおこなった。兵士たちも声を掛け合って人々の誘導にあたった。
「ここから国境の町へはみちぞいにいけば たどり着くことができます。さぁ急いで。」
引率されていく人々の表情は一様に暗く、緊張していた。しかしようやく国境までの道筋がみえたことで安堵し、緊張がほぐれてきているものもいた。少なくとも、デプリヴンに囲まれ絶体絶命になったときよりは物事は好転していた。
ブラックスは人々が逃げる様子を見守りながら、視線を遠くに向けた。
そこは王都全体が見渡せる場所だった。エレクタの明かりは消え、グレート・バリケードが停止したことによりひどく暗くみえた。煌々としてまばゆいばかりの光を発していた、浮遊船とよばれた街並みの面影はどこにもなかった。宮廷の周辺は火が上がり、赤く燃え上がっていた。いたるところから煙が上がり、空に上空に灰色の煙を巻き上げていた。炎が発する光が、街並みや煙を照らし、紅色に染めていた。
ブラックスはその光景をみて茫然としていた。その場所はどうしても彼が守らなければならない場所だった。しだいに息遣いが荒くなっていった。腕にあらわれていた痣は急速に広がっていく。外側の音はきこえなくなり、そして目に映る光景はぼんやりと暗く沈んでいった。
――パパ・・。
ああ、わたしの愛娘が呼ぶ声だ。
――パパはこのお国を守っているの?
ああ、そうだ。なんだかひさしぶりに声を聴いた気がする。一体どこにいっていたんだろう。どうしてこんなにも長い間会うことができなかったのだろう?
――パパすごいね。えらいね。
そうだ、私はこの国を守らなければならない。この国から逃げるなんていうことはあってはならないのだ。それが私の生涯に与えられた使命なのだから。王はわたしに言った。国家とは家族や友人と同義であると。国を守ることが家族や友人を守ることに繋がるのだ、と。だから、私は国を守らなくてはならないのだ。
しかし、この国がなくなろうとしている、それでは私は一体、どうすればいいのだ…?
―
アデリーナとリリー、それに小さな女の子はようやくタラップを登り、薔薇の庭園に立っていた。見覚えのある場所にでてきたことに彼女たちは安心した。ここまでくれば、あとは庭園の傍を通る一本道を進み、国境付近の町までたどりつくことができる。
彼女たちが入口に向かって歩き出したとき、そこに立ちふさがる者がいた。
「お待ちいただきたい。どこへいこうというのですか?」
その男の様は人のそれではなかった。腕や足、体から奇妙な角が大きくいくつも生えていた。そしてその男の体は人の大きさをはるかに超えていた。筋肉質な体はエレクタの光に煌々と照らされていた。そしてその男の顔には目も耳もなかった。
しかしそれでもリリーはそれが一体だれであったのかをすぐに理解ができた。その体つき、剣のもち方、それに彼から放たれるエレクタには思い当たる人物が一人しかいなかった。「ブラックス・・・団長・・・。」
アデリーナはその様子に驚き、呟いた。「そんな、まさか…。」
だがすぐに何が起きたのかは理解ができた。彼の腕には多くの痣があったからだ。ジョエルから感染したであろう痣が無数に腕に残されていたからだ。
ブラックスはいつもと比べて思考がうまく働かないことに不思議に思っていた。まるで目の前にカーテンがかかっていてその先がほとんど見えないかのようだった。はっきりとしない意識の中で不思議に思うことがあった。
(目の前にいるのは誰だろう。何かを話している。彼女は何をいっているのだろう。幻聴だろうか…。)
そして、また頭の中にはっきりとした声が聞こえてきた。
―
「ブラックス、お前を頼りにしているのだ。お前は私の右腕だ」
「騎士団長か、さすがに早い出世だな、ブラックスは。」
「この国の防衛はお前に任せておけば何の問題もないな。」
「パパ、ママ、苦しいよ・・・」
―
「私が間違えたはずがない。私は正しく生きてきた。」
そう言いながら彼の体は大きく変化をしていった。自分の考えを肯定すればするほどその肉体は大きく膨れ上がって言った。体の体積は膨張し、それから鋭い角がより大きくなった。それはまるで人が獣に変わる過程をみているかのようだった。
「私は、国を守る。国を守らない者を許さない。」
その様子にアデリーナとリリーは立ちすくんだ。リリーは剣を手に取った。アデリーナも腰に下げた長剣を手にする。
「なぜ王がここにいる?国を守れ。責務を果たせ!」
ブラックスはそれから剣を手に取り、静かにそしてゆっくりと二人の前に向き直った。リリーにはその動きに見覚えがあった。ブラックスにつけてもらった稽古を思い出していた。その構えは間違いなくブラックスのものだったし、まるでそのうごきに隙を感じなかった。リリーは剣技の稽古で一度としてブラックスを打ち負かしたことはなかった。彼の構えにはまるで隙がなく、少しでも気を許せばこちらに致命的な打撃が打ち込まれるであろうことを肌で感じた。それに、おそらく今の彼が放つ斬撃はより強靭な力が加わるだろうと推測できた。
ブラックスはゆっくりとその剣を振り上げ、構える。彼の体や腕が大きくなったために剣が小さく見えた。そして、それはまるで稽古をつけてもらっていたときを想起させる動きだった。目も耳もない顔に人であったときのブラックスの顔が重なってみえた。
それから一瞬のうち間合いを詰めてきた。リリーは地面を蹴り後方に飛んだ。次にやってきたブラックスの一撃をかろうじて剣で受け止める、しかしその衝撃で勢いよく弾き飛ばされ宙に放り投げられた。ものすごい速度と力。リリーはずいぶんと鍛錬と経験を積んできたはずだった。しかしやはり彼には遠く及ばないのだということを今一度理解したのだ。その男は間違いなく、リリーの記憶の中の誰よりも強い男だった。
リリーは宙で体勢をととのえ、地面に着地する。その間、冷静に思考を巡らせていた。そしてブラックスが過去に言っていたことを思い出していた。
― 剣を振るう瞬間、エレクタを自在に使いこなし普段持っている能力以上の力を発生させている。それを知っているのか知っていないのか。お前は無意識のうちにやっているようだ。
ブラックスはその基礎を常に忠実に守っている。おそらくなんの小細工もしてこないだろう。純粋に卓越された剣技を行使する、あるべき姿を正々堂々と追求するのが彼のやり方だった。それは彼の美学であるということさえできた。
だがリリーはブラックスの動きをみて、一つだけ隙を見出していた。彼が剣を振るうために間合いを詰めてくる時、彼の斬撃を防ぐか避けることで精いっぱいだろう。しかし、その攻撃を避けた後には少しばかりの隙がある。その一瞬をつくことで勝機がある。
ブラックスが再度静かに剣を構えた。静から動への動き。急激な間合いが狭まる。リリーはやはり地面を蹴り、守りの体制をとる。
(今度こそ・・・)
ブラックスの繰り出された剣先の流れを最後まで読み切り、寸前のところで体をひねって避けた。それから宙で体勢を変え、剣を持つ手に力を込める。
(いまだ!)
それから彼の伸びきった腕めがけて剣を振り下ろす。リリーの想定ではうまく攻撃が当たるはずだった。しかしブラックスはまるでそうなることを狙っていたようだった。その隙は意図的に作られたものだったのだ。振り切った剣を真逆に返す強烈な一撃がリリーの体を突き刺した。小さな体は跳ね飛ばされて、地面に大きくたたきつけられた。何度か地面の上を回転して止まった。胸からは血があふれてきた。
(失敗した・・・はやく、はやくしないと・・・)
手を動かそうとしても動かなかった。ブラックスがアデリーナに振り返り、その距離をゆっくりと詰める様子だけが視界に入った。リリーができることはただそれを見守るだけだった。
アデリーナはその状況に愕然としていた。それでも剣を握り直し、ブラックスに向けた。
彼は自分の部下を手にかけることに何の躊躇もなくなってしまった。もはや思念だけで戦っており、相手が誰であるのかさえわかっていないのかもしれない。目も耳もない彼はただの殺戮者になってしまったように思われた。
「ブラックス。聞こえている?もうこれ以上やめて。あなたのこれまでの功績を汚すべきではないわ。」
その問いにブラックスは足を止める。足は僅かに震え立ちすくんでいた。それは彼が頭の中で、自らに浸食してきた思考と戦っていることを想わせた。そしてようやくの内側からひねり出すように、押し殺すような声を出した。
「アデリーナ様・・私を止めてください。これ以上家族を、友人を、仲間を失いたくはない・・・。」
「ブラックス。デプリヴンに負けてはいけない。あなたはいままで大切にしてきたものを手放すべきではない。」
アデリーナの声に、しばらく動きをとめたブラックス。しかし、それからゆっくりと彼は首をひねりながら言った。その声は既に彼の心が消え、デプリヴンに支配されているかのようであった。
「国は私の家族を守ってはくれなかった。一体私の家族は何のために死んだのか。王は言った。国のために奉仕することこそが国民を、友を、何よりも大事な家族を守ることに繋がるのだ、と。私はもう後戻りはできないのだ。せめて、記憶の中の家族を守るために、国を放棄しようとするものを許すわけにはいかないのだ。」
ブラックスは言いながら剣を構え直した。
アデリーナはその様子をみて咄嗟に剣を構え、そして、その声に反論するように胸の内側から声がでた。
「王は、国家のために家族や友人の命をないがしろにしろとは一言も言っていないはず。あなたは国のせいにしているだけなの!自分のミスを、過ちを国のせいにして生きてきただけ!」
手足に力が入る。角がそこに生えてくる。後ろには小さな子供がいた。女の子は恐怖で震え、怯えているようだった。どうにかして守らなくてはならない。そして、どうにかして、ブラックスを止めなければならなかった。
ブラックスが咆哮を上げて、剣を構え突進してくる。
その時、アデリーナの脳裏にふと、一つの考えが生まれた。それは自然と湧き上がってきた思考だった。このまま避けると小さな女の子が後ろにいる。彼女をおとりにしてブラックスを不意打ちすればいい。そうすればブラックスに打ち勝つことができるかもしれない。
鼓動が速くなった。しかし、一方で彼女は考えた。このまま私が避けるとどうなるだろうか。この娘は無事だろうか。もう一方の自分がしきりに促していた、そんなことはどうでもよい、と。
ブラックスが腕を振り上げ、剣が付きの光を反射させた。その時、兄の言葉が脳裏によぎった。
―絶対に負けるなよ。
アデリーナの足が地面を蹴ることはなかった。足をぐっとこらえ、剣をまっすぐに構えていた。その鋭い剣先がアデリーナに襲い掛かった。防いだはずの剣は叩き折れた。そしてその刃は体にゆっくりと刺さり、背中へと抜けた。ブラックスの剣先からゆっくりと血がしたたり落ちた。そして口元から血が湧き出てきて声を発することもできなかった。ブラックスが剣を抜くと、アデリーナはゆっくりと倒れ込み地面に転がった。
ブラックスは剣を手から離し地面に落とした。そして、自分の手をじっと見つめていた。まるでそれが初めて行った実践であるかのように、その感覚を入念に調べているかのようだった。それから目の前に横たわっているアデリーナをみた。アデリーナの口からは血が流れ、それから彼女の衣類はゆっくりと赤色に染まっていく。
そして、その先にいる小さな子供にゆっくりと視線を移した。地面にしゃがみこんだ小さな女の子は恐怖で顔が引きつり、震えていた。ブラックスはその視線の先にいるのが自分であることが信じられなかった。なぜこの子はこのような目で私をみているのだろうか。それは今の彼にとってとても不思議な事であった。
―
「隊長!よいのですか?南門付近に敵が多数攻めてきています。あの地区にはご家族がお住まいではないですか?よろしければ、我々だけでも向かいます。ご家族の身の安全を・・・。」
ブラックスは部下に向き直って、諭すように言った。
「我々の任務をいってみろ!敵の一個旅団を撃破することだ。そのことだけを考えろ。生ぬるい相手じゃないぞ。それにあちらにも別の部隊がいる。よけいなことを考えるな。」
「しかし隊長・・・。あの部隊では・・・。」
「国のために奉仕することこそが国民を、友を、何よりも大事な家族を守ることに繋がるのだ!そのように心得よ!」
―
ブラックスは考えていた。
その判断は正しかったのだろうか。その時の判断を変えていれば、娘も妻も救えたのかもしれなかった。私はどうしてそのように判断してしまったのだろうか。少なくとも、王は国家のために家族や友人の命をないがしろにしろとは一言も言っていなかったではないか。その自分の行いをいままで理解したくなかったのだ。だから王の言葉に固執していたのだ。自分を守るために。
だが私は間違ったことをしただろうか?
私がとった行動で守られた命もあった。それは決して間違った考えではなかったはずだった。なのに、どうしてこのような報いが待っているのだろう。それはとても理不尽なことだった。到底そのような仕打ちを許すことができなかった。この世界を・・。私は、私であり続けるために、いままでの自分を否定するわけにはいかなかった。
ブラックスはゆっくりと剣を振り上げた。
子供は怯えた声で言った。「怖いよ…助けて。」
剣を持つ手が震えていた。自分の考えのどこかにほころびがあるようだと、気づかざるを得なかった。
その時、背中に強烈な衝撃があった。体中に大きな角を生やした一人の騎士がいた。それは月夜で照らされて、まるでこの世のものではない、まったく新しい美しい生き物にみえた。リリーの全身の力を振り絞った突きはブラックスの心臓を捕らえていた。深く突き刺さり、その剣先は反対側の胸から突きでていた。ブラックスの心の言葉がリリーに流れ込んできた。
―リリー。ありがとう。
―そして、すまない。妻と娘よ・・・。
ブラックスの体はそれから人の姿へとゆっくりと戻っていき、体は地面に倒れ込んだ。胸にかけていたペンダントを開けた。そこには笑顔で笑う親子の写真があった。
そして彼は動かなくなった。その表情はもはや分からなかった。それが安らかだったのかそれとも苦悶に満ちていたのか、確かめるすべはなかった。
強烈な一撃を放ったリリーも地面に倒れ込んでいた。もはや一歩もあるく気力と体力は残されていない。それからアデリーナを見た。彼女もまた地面に仰向けに横たわっていた。
「アディ・・・」
リリーは這いつくばりながら彼女の元へと進んだ。前へと進む手は血と土で汚れていた。それからアデリーナの額に手を置いた。彼女はもう動かない。二人でこれから歩み続けることを誓ったというのに、彼女はその誓いを守るつもりがないようだった。
アデリーナはリリーの声にゆっくりと口を開いた。彼女の目は宙をとらえ、彷徨っていた。
「リリー。私は最後まで負けなかった。」
「なにを・・いっているの?」
リリーは問い直した。アデリーナの手を握りそして言葉を待った。彼女の唇が小さく動いた。
「もう私は歩くことができそうにない・・いままでありがとう。」
手を取ったアデリーナの手に力を感じられなくなった。そのエレクタの動きが急速に弱まるのをリリーは感じ取っていた。
「アディ・・・。一人ぼっちになったら、私はどうしたらいいか分からない・・。」
―
もう歩くことができない。足が疲れたら人は歩くことができないのだ。
眼の前の女の子はしゃがみこみ、もう歩くつもりはないようだった。
「もう無理だよ!」
そうつぶやくと、誰かが手を差し伸べて言った。
「大丈夫だよ。ほら早く立って・・・。僕はあっちに行きたいんだよ。なんでこんなところでしゃがみこんでいるの?」
誰だっただろうか、女の子よりも少し年上の男の子。私の兄だ。
でも女の子はついていきたくなかった。ここにいたかったのだ。まだやりたいことがあるのだ。
兄が言った。「もう、このバカ!」
バカ?バカっていう方がバカという言葉をしらないのだろうか。
「そっちの方がバカだ!」
そうして頭の中で思い浮かんだ言葉。―もう、バカだなんて。最初に言い出したのはだれ?お兄ちゃんでしょう?
でもそれは本当にそれでよかっただだろうか。
本当はもっと違う言葉を期待していたのかもしれない。なぜならきっとどっちも悪くなかったから。だから私はこう言った。
「どちらも悪くない。もう少しだけでいい。お互いの事を考えればいいの。」
ほどなくして女の子は言った。
「足が痛い。」
「僕はあっちで遊びたい…、じゃあ少し休んでいく?」
「うん。じゃあ休んでからいっしょに遊ぶ。」
彼は私の手を取った。
そして一緒に歩き始めた。
その先には父と母の顔があった。
みなが笑顔で笑っていた。




