第八話 屋根から見えるもの
爺さんの仕事場へ鉋を返しに行くと、先客がいた。店で使う樋の継ぎ目から、水が漏れるのだという。
「板金屋には頼んである。だが、その前に外して下ろすのがな」
爺さんは腰を軽く叩き、俺を見た。
「高い所は平気か?」
「大丈夫だよ」
「ならあっちの梯子を持ってくれ」
鉋を返して木を買うだけのつもりが、梯子も運ぶことになった。ナギと顔を見合わせてから、壁の梯子を肩へ載せた。
*
樋があるのは、通りに面した二階の軒下だった。仕立屋より少し先の、乾物を売る店だ。下から見るとそうでもないが、上がってみると隣の煙突がよく見える。
梯子を固定し、屋根の端へ足を置いた。古い瓦を踏まないよう梁の位置を確かめ、腰を落ち着ける。
振り返ると、ナギが隣の低い塀から物置の屋根へ跳び上がっていた。新しい厚板で葺いた、低い屋根だ。あいつはそこへ座り、こちらを見上げている。
「お前はそこで待っててくれ」
尻尾の先が動いた。下で誰かが小さく声を上げた。
「猫も上がるんだねえ」
猫と言われれば猫だが、あいつは俺より安定している。
道具袋を梁へ結び、樋の中を覗いた。枯れ葉と泥が詰まり、小さな草まで生えていた。土を落としてから金具を外し、用意した縄で少しずつ下ろす。
「そこ、もう少し右へ。そう、受け取ってくれ」
下では爺さんが店主と一緒に待っていた。人通りが切れるのを見て、最後のひと押しをする。樋が無事に下りると、爺さんが手を上げた。
残った枯れ葉を袋へ集めているうち、通りの向こうにマリーが見えた。買い物籠を抱え、こちらを見上げている。
「シュウジさん?」
「おう」
「今日はそちらなんですね」
「帰りに寄ったんだ」
説明すると、マリーは頷いた。店主の脇にある木箱へ目を向け、少し離れた軒下へ移している。梯子から下りるときに、邪魔になりそうな位置だった。
礼を言いかけたところで、枯れ葉が一枚、風に浮いた。物置の屋根へ舞い下り、見上げたナギの鼻へ張りつく。
盛大なくしゃみと一緒に葉が飛んだ。
「お前の方へ捨てたわけじゃないぞ」
ナギは屋根の上から、しばらく俺を見ていた。
*
下りる前に、屋根の反対側へ少しだけ顔を出した。
いつもの通りの裏に、細長い庭が並んでいる。薪を積んだ壁、洗濯物の揺れる紐、小さな畑。パン屋の奥には、ジョゼットが座っていたあの庭も見えた。
二階の窓から眺めていたときには、屋根に隠れていた場所だ。
「何が見える?」
下から爺さんが聞いた。
「畑。あと隣の庭に鶏がいる」
「その店のだ。朝はうるさいぞ」
言い終わる前に、鶏が鳴いた。随分と遅い朝らしい。
通りへ下りると、マリーがまだ店先にいた。今日はこの店で豆を買うつもりだったという。
「籠、持とうか」
「まだ空いていますよ」
「いや、手が空いたから」
受け取ると、店主が取り外した樋の中から小さなものを拾い上げた。色の褪せた木の実の殻だった。真ん中に穴があり、紐の切れ端がついている。
「うちの子が去年飛ばしたやつだ」
「飛ばした?」
「屋根より上まで投げるって聞かなくてね。行ったきり、帰ってこなかった」
爺さんが笑い、物を包む紙を一枚出してやった。
マリーが、俺の持つ籠へ豆の袋を入れる。ナギはようやく鼻が落ち着いたらしく、店主の手元を嗅いでいた。
「樋が戻ったら取りつけも頼む」
「ああ。次は落とさないよう、言っといてくれ」
「言ってあるよ。去年もね」
*
家への帰り道で、マリーが隣の塀の向こうを見た。
「上からだといろいろ見えるんですね」
「この辺は庭が多いんだな。思ったより緑があった」
「春先はあの裏のお宅の花がきれいですよ。表からはあまり見えませんけど」
次に通るとき、少し奥を覗いてみようと思った。
坂へ差しかかったところで、マリーが俺の肩を指した。
「葉っぱがついています」
「まだあったか」
「じっとしていてください」
取ってもらう間、ナギが先へ歩いていった。あいつの背中にも、一枚ついている。
呼び止めたが、振り返らなかった。




