第六話 水門の向こうの大きな背中
昼飯のあとで茶を飲んでいると、日に焼けた男が戸口で足を止めた。泥のついた長靴を揃え、俺とナギを交互に見てから遠慮がちに帽子を取る。
「修理のできる人が越してきたってパン屋で聞いたんだが」
「物によるけど。何が壊れた?」
「畑へ引く水路の、水門が動かなくてな。いつもの爺さんに聞いたら、あんたに見てもらえって」
水路を見ている男だという。今は脇の溝から水を逃がしているが、このままでは下の畑へ十分に届かないらしい。俺は工具を袋へ入れ、外へ出た。ナギも起きてついてくる。
男はナギを見て一歩よけたが、足元を通り過ぎると、少し安心した顔になった。
「そっちも手伝うのか?」
「気が向けばな」
ナギの尻尾が、俺の脚に当たった。
*
町を出ると麦畑が広がっていた。川から分かれた水路が、その端を緩く曲がって流れている。水門の前では、もう一人の男が長い棒を手に待っていた。
「駄目だ。引っ掛かってる木が、どうやっても動かん」
門を上げ下げする腕木は傾いていた。だが、先に見るべきものがある。
上流側の水面に、太い枝と泥が盛り上がっている。その下に丸い背中があった。岩にしては、形がよすぎる。
「棒はもう入れない方がいい。そこから離れてくれ」
「何かいるのか?」
水面が揺れて枝の下から平たい頭が現れ、黄色い目がこちらを向いた。男が棒を抱え直した。
「……亀か?」
「泥甲亀だな。山の沼なんかにいるやつだ。上で雨が降ったときに、木と一緒に流されてきたのかもしれん」
甲羅の幅は荷車ほどある。普段は泥に潜っておとなしくしているが、追い立てると面倒だ。水門に挟まった倒木が、ちょうどよい屋根になっていたらしい。
「ギルドへ知らせるか。これじゃ修理どころじゃない」
「ああ、報告はしておく。先にどかそう」
袋を土手へ置き、上着を脱いだ。ナギが一度だけ水面を見て、俺の上着の横に座る。
「そっちを見ててくれ」
魔法で水を押し分け、川底の見える浅さにしてから降りた。流木を持ち上げ、門板に当たらないよう脇へずらす。屋根を取られた亀が、こちらへ顔を向けた。
甲羅の脇へ回り込むと首が伸びてきたので、顎の下へ手を添えて横へ向けた。
「悪いな。引っ越しだ」
甲羅の縁をつかんで持ち上げると、腹の下から大量の泥水が落ちた。太い脚が宙を掻き、尾が残った水を叩く。土手の二人へ飛びそうになったしぶきを、風で川側へ返したが、足元までは間に合わなかった。
長靴の縁から泥水が流れ込む。亀を下ろして履き直すわけにもいかず、そのまま両腕で抱え直した。
「ナギ、上へ」
ナギが駆け出した。その先へ亀を抱えて上がる。重さより、持つ場所が少ないのが厄介だった。甲羅は滑るし、頭はこっちを向きたがる。
「分かったから。噛むなよ」
声をかけると、ナギが振り返った。
「お前じゃない」
*
水路から離れ、川沿いを少し上った所に、岩に囲まれた深みがあった。畑や道も近くにはない。亀を水辺へ下ろすと、一度こちらを睨んでから、自分で水へ入っていった。
背中が沈むのを待って周囲を確かめ、元の水門へ戻る。
二人は、俺の袋から離れた所で立っていた。ナギは上着の上に座っている。
「そいつを持っていったのか」
「ああ。人の来ない方へ移した。道具、濡れなかったか?」
「道具は濡れてないが」
「よかった」
上着には黒い毛がついていた。それはあとで取ることにして、水門の手前へ戻った。
倒木を引き上げると、片側の支えがずれているのが分かった。木が押しつけられたところへ、無理に腕木を動かしたらしい。幸い、肝心の門板は割れていなかった。
仮の堰で水をよけ、支えを元へ戻す。男たちが棒や石を運んでくれたので、作業は日が傾く前に終わった。
門を上げると、水が白く泡立って流れ始めた。下の畑へ続く溝が、ゆっくりと満ちていく。
「これで明日はいつも通り使える」
帽子の男がようやく笑った。俺も腕木をもう一度動かし、手を離す。引っ掛かりはなかった。
「亀の分も金を払わんとな」
「そっちはギルドで相談してみるよ。まず水門の分だけ決めよう」
代金を受け取り、使った金具を紙へ書いた。最近は、こうしておかないとあとで思い出せない。
帰ろうとすると、男が足元を指した。
「靴、乾かしていかんか。うち、すぐそこだから」
そうだった。亀を運んでいる間も、歩くたびに音がしていた。
ナギは乾いた土手の上で、大きく伸びをした。
「お前はいいよな」
ナギは前足をひと舐めし、顔を洗い始めた。こちらは、靴だけでなくズボンも洗わないといけない。
上着まで洗うことになったのは、亀のせいではないが。




