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第二話 宿代に入っていたもの

 踏み台を裏返すと、割れた脚のほかにも接ぎ目の緩んだところが二か所あった。座面を押すと、脚がわずかに開く。


「上がるときに揺れなかったか?」


「少し。でも壁につかまれば」


 老人はそう言って、手近な壁へ手を伸ばした。俺は踏み台を作業台へ載せ、釘と紐を外した。


「壁がない所でも使えるようにしとこう」


 割れた脚は新しく作り、ほかも接ぎ直す。仕上げに自分で上がってみると、体重を移しても揺れなかった。老人は座面を押し、それから嬉しそうに頷いた。


「これなら娘に叱られずに済みます」


「次にぐらついたら紐を巻く前に見てもらってくれよ」


 代金を受け取って戸口まで送ると、ナギも顔を出した。隣の家に干された魚へ鼻を向けたので、肩を押して中へ戻す。


 削りかすを集め、工具を片づける。あとは二階を掃けば、ひとまず家らしくなるはずだった。


     *


 四日目の朝、きれいにした床にはもう黒い毛が落ちていた。


 窓辺のナギは掃除を始めると気を利かせて立ち上がり、掃き終えた方へ移って身震いした。黒い毛が日の光の中をふわりと舞う。


「……しばらくそこにいてくれ」


 ナギは前足を揃えた。言うことはちゃんと聞く。


 椅子の下からはシャツが出てきた。洗うつもりで置いたのか、昨日着ようとしてやめたのか。ひとまず洗濯籠へ入れると、替えの下着も残り少ない。一階の流しには鍋と椀があり、台所の棚には食べ終わったパンの袋が残っていた。


 ひとつずつならできないことはない。全部済ませて洗濯物を干すと、昼近くになっていた。


 最後のシャツは絞るときに引っ張りすぎたのか、片方の袖が少し長い。反対側も引こうとしてやめた。揃っても俺の腕は伸びない。


 台所の戸棚にあるのは硬くなったパンと干し肉で、鍋で煮れば食えるが昨日も同じ物だった。


 宿なら階下へ下りれば飯が出た。服を預ければ洗ってもらえたし、帰ってくれば床もきれいになっていた。部屋代には思っていたより色々入っていたらしい。


「今日は食いに行くか」


 ナギが耳を動かした。先にこいつの肉を用意し、自分は出かける支度をする。ギルドへ新しい住所を届ける用事も、まだ済ませていなかった。


     *


 通りを歩くうち、八年前に何度か寄った酒場を思い出した。泊まっていた宿から近い角の店から煮込みの匂いが流れてくる。入口の札には昼の食事もあると書かれていた。


 戸を開けると、店の奥から声がした。


「いらっしゃい。空いてる席へ——あら?」


 カウンターの向こうで、男が布巾を持ったまま顔を上げた。肩幅のある身体に深緑のシャツ、耳には銀の飾りが光っている。


「シュウジ?」


「久しぶり、レオン。まだ店をやってたんだな」


「失礼ね。勝手に閉めないでちょうだい」


 言い返す声を聞いた途端、店の中まで思い出した。棚の酒瓶も、少し高いカウンターも、前に来たときと同じだった。ナギが俺の脇を抜け、端の席へ向かう。


「あんたは覚えてるのね。そこは今も空けてあるわよ」


 レオンは笑い、奥へ声をかけた。


「ベルカ、シュウジが来たわ!」


 厨房から木の匙を持った小柄な女性が顔を出した。後ろで髪をまとめたドワーフの女性だ。


「久しぶり。ナギも一緒なんだね」


「ああ。二人とも変わってないな」


「そっちこそ。上着まで同じじゃない」


 レオンが俺の袖を見た。


「これは三年前に買い替えた」


「色も形も一緒でしょう」


「気に入ってるんだよ」


 ベルカが笑い、鍋が煮えているからと厨房へ戻る。レオンは水の入った杯を置きながら、今回は何泊するのかと尋ねた。


「住むことにした」


「この町に?」


「ああ。坂の上に家を買った」


 杯を並べていた手が止まった。


「……注文を聞く前にそんな話をする?」


「飯を食いに来たんだった。何がおすすめだ?」


「ベルカが作る物は全部」


「じゃあ本人に聞くか」


「今日は肉と豆の煮込みだよ」


 奥から声が返ってきた。俺はそれを頼み、窓際の席へ座った。


     *


 煮込みには根菜も入っていた。肉は匙で押すとほぐれ、豆には煮汁がよく染みている。パンをちぎって浸していると、レオンがナギの前へ水の器を置いた。


「家まで買うなんて、何かあったの?」


「別に。蓄えもあるし、そろそろ落ち着いてもいいかと思ってな」


「冒険者は?」


「続けるよ。ただ、仕事を探して旅するのは、しばらく休もうと思ってな」


「あら。私は今でも現役よ」


「店の話か?」


 レオンは笑っただけだった。


 俺も煮込みを食べ、しばらくは鍋の具合と町で変わった店の話を聞いていた。昼の客が一組帰ると、ベルカが空いた皿を下げに出てくる。


「住む所はもう使えるの?」


「家はいいんだ。前にいた職人が丁寧に使ってたみたいでな」


「よかったね」


「ただ、飯を食って皿を洗うと、次の飯の時間が近くなってる」


 レオンが俺の皿と顔を見比べた。


「間に何してるのよ」


「掃除と洗濯」


「ちゃんとやってるじゃない」


「やることが毎日あるんだぞ」


 言ってから、当たり前だと気づいた。厨房へ戻りかけたベルカが、小さく吹き出した。


「宿では全部頼んでたんだね」


「ああ。あれはありがたい仕事だった」


「それなら人を頼めばいいじゃない。ギルドに相談したら?」


 レオンの言葉に、匙を止める。


「掃除と飯も扱ってるのか」


「人の紹介もしてるわよ。店の手伝いとか、家の仕事とか。依頼を受ける方しか見てなかったの?」


 そう言われると、その通りだった。紹介してもらった人と旅をしたことはあるが、自分の家に来てもらうなど考えたことがない。


「このあと住所を届けに行くところだったんだ。ついでに聞いてみるよ」


「そうしなさい。今度は上着だけじゃなくて、暮らし方も変わるのね」


「上着は替えてるって」


 空いた皿を下げに来たベルカが、おかわりは要らないかと聞いてくれた。少し迷ってから頷くと、レオンが満足そうな顔をした。


「おいしいでしょう」


「自分が作ったような顔をするな」


「妻が作ったのよ」


 それはさっき聞いた。


     *


 冒険者ギルドでは登録証を出し、住所の届けを済ませた。職員は帳面へ書き込み、依頼の紹介もこの町で受けるかと尋ねる。


「Aランクの方にご相談したい案件があれば、お知らせできますが」


「しばらく積極的に受けるつもりはないんだ。必要なら話は聞くよ。それと、人を探してもらいたい」


「どのような技能をお持ちの方でしょうか」


「掃除と洗濯。それから飯が作れる人」


 職員は机の引き出しから別の用紙を出した。レオンの言う通りだった。通いで数日に一度、時間や報酬は相談したいと伝えると、相場や紹介の流れを教えてくれる。


 家にはナギもいると添えると、職員は壁際を見た。本人は伏せたまま、行き交う人を眺めていた。


「そちらも先にお伝えしておきますね」


「頼む。苦手な人には難しいだろうから」


 登録証を返してもらい、建物を出た。自分の依頼を出しに来る方が、仕事を受けるより緊張するものらしい。


     *


 帰りにパン屋へ寄ると、マルタがいつもの丸いパンを紙袋へ入れてくれた。


「今日は遅いね。どこか行ってたの?」


「ギルドへ。あとは久しぶりにレオンの所で飯を食った」


「あら、知り合いだったのかい」


「前に来たときに何度かな。相変わらずだったよ」


「そりゃ、あの人は変わらないよ」


 マルタは笑い、パンをもう一つ袋へ入れた。俺が話したついでに、家事をする人を探していると伝えると、会計台の奥へ目を向ける。


「マリー。ちょっといいかい」


 釣り銭を小箱へ戻していた女性が、手を止めた。マルタより少し背が高く、髪を後ろでまとめている。


「娘のマリー。外で仕事を探してるんだよ。こちらは坂の上のシュウジさん」


「荷車を直してくださった方ですね。母から聞きました」


 工房からパンを運んできた男に呼ばれ、マリーは一度そちらへ回った。板の端を受け取り、二人で台へ下ろす。


「兄のジョニーです。最近は妻のエマさんも店に入ってくれて、私が毎日いなくても回るようになったので」


 ジョニーが工房へ戻ると、今度はエマが空いた籠を取りに来た。マルタと短く言葉を交わし、会計台の横へ立つ。マリーは仕事の内容をもう少し聞いてもいいかと尋ねた。


「家を見てもらった方が早いかねえ。広さもやることも分かるだろうし」


 マルタの言葉に頷き、明日の午後に来てもらうことにした。


     *


 マリーは約束の時間に訪ねてきた。ナギを見ると一度足を止めたが、差し出した手の匂いを確かめられる間、静かに待っていた。


「思っていたより大きいですね」


「よく言われる。触るのはもう少し慣れてからでいいよ」


 ナギは彼女の脇を抜け、戸口から外を眺め始めた。俺はマリーを家へ案内し、台所と庭、洗濯物を干す場所を見てもらった。作業場では、掃除していい範囲を尋ねられる。


「工具や作りかけの物は動かさないでくれ。分からない物があったらそのままでいい」


「では作業台の上は触らずにおきますね」


 マリーは工具箱を見てから、台所へ目を戻した。


「道具は全部しまう場所が決まっているんですね」


「見つからないと仕事にならんからな」


 頷いた彼女の視線を追うと、食器の上にパンの袋が載っていた。持ち上げると、その下から匙が出てくる。


「……食器も決めた方がいいか」


「そうしましょう」


 机につき、仕事内容を相談した。まずは三日に一度くらいを目安に、掃除と洗濯、夕飯の支度。翌日も食べられる物を少し用意してもらえると助かる。買い物代は別に渡し、ナギの食事は俺が用意する。


 時間と報酬を確かめ、ギルドにも話を通すことにした。マリーは帳面を閉じてから、もう一度台所を見る。


「今日はこのあと空いています。よければ少し始めても?」


「助かる。今日の分から払うよ」


 彼女は前掛けをつけ、食材を確かめた。足りない物を買いに出る間に、俺はナギの敷物を庭へ運んだ。


     *


 戻ってきたマリーが料理を始めると、ナギは台所の入口へ移った。さっきまで敷物の横で待っていたのに、もう鍋の方を見ている。


「そこは邪魔にならないか?」


「大丈夫です。ここで待ってくれていますから」


 マリーの指す床板より先へは入らず、鼻だけを少し上げていた。俺は敷物を戻し、乾いた洗濯物を取り込んだ。


 畳んだ服を旅の袋へ入れかけると、マリーが二階の戸棚は使わないのかと尋ねた。


「ああ。もう袋に戻さなくていいんだな」


「乾いた物はこちらへ。あとで棚を拭きましょう」


 手を洗って戻ると、机に皿が並んでいた。焼いた腸詰めと、野菜や豆を和えた物。昨日の煮込みとは違う匂いがする。パンも薄く切って籠へ入れてあった。


 椅子に座って食べると、豆にはほのかな酸味がついていた。腸詰めの脂が残る口に、ちょうどいい。


「うまいな」


 マリーの肩が少し下がった。


「よかった。苦手な物があったら教えてください」


 頷いて、もうひと口食べた。自分で作ると、腹が満ちればそこでよしとしていた。何を次に食べるとうまいかまでは、考えていなかった気がする。


 マリーは翌日の分を器へ取り分け、しまう場所を教えてくれた。服を片づけ、買い物代を精算してから、次に来る日を確かめる。


 戸口まで送ると、ナギもついてきた。マリーが手を出し、今度は額へ軽く触れる。ナギは逃げず、目を細めた。


「またね」


 坂を下りていく彼女を見送り、台所へ戻った。鍋は洗って伏せてある。俺は自分の皿を洗い、布で拭いた。


 迷わず棚へ収めた。


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