第一話 窓の向こうにある町
坂の途中で、ナギが立ち止まった。
「疲れたか?」
振り返ると、黒い大猫は道端の木陰に腰を下ろしていた。背の高さは俺の腰ほどもあり、耳の先には長い飾り毛が伸びている。山道を一日歩いても平気な相棒が、町へ入ってからは妙にゆっくりだった。
「上まで行ったら休もう。もう少しだから」
ナギは動かず、俺の手元を見た。昼飯に買った串焼きに、肉がひとかけら残っている。
「……それか」
肉を外して放ると、ナギは首を伸ばして受け止めた。口元を舐めて立ち上がり、俺を追い越していく。俺は空になった串を紙で包み、袋へしまって後を追った。
八年前にもこの坂を上ったことがある。角の靴屋は雑貨屋に変わり、共同井戸には新しい屋根がついていたが、歩くうちに道を思い出した。下のパン屋の前で曲がり、途中から勾配がきつくなる。荷車の通った跡が石畳を浅くへこませていた。
あのときは雨が三日続き、ようやく晴れた朝に宿の主人に教わって上ってきた。
建物の切れ間から、町が見えた。
赤茶色の屋根が川へ向かって重なり、その間を細い水路が走っている。橋のたもとには広場があり、町の外には畑が続いていた。遠くの山並みは薄い青にかすみ、川面には午後の光が散っている。
道端の低い石垣に袋を下ろし、腰を掛けた。ナギも隣へ落ち着いたので、水筒の栓を抜く。
「変わってないな」
そう言ってから、川下に橋が一本増えているのに気づいた。広場の木も前よりずいぶん大きい。橋の下を抜けていく小舟を見送り、水を飲んで石垣へ片手をついた。
ここ半年ほど、急ぎの仕事は受けていなかった。次の依頼を探して町を移るのも、そろそろいいかと思っている。蓄えはあるし、身体も動く。どこか気に入った場所で暮らしてみてもよかった。
そのとき真っ先に思い出したのが、この景色だった。
「しばらくここにいるか」
隣を見ると、ナギはもう立っていた。俺の背後へ回り、道向かいの家の戸口で鼻を動かしている。
白い塗り壁に濃い茶色の柱が入った二階建てだった。一階には大きな両開きの戸があり、軒先には売家の札が下がっている。二階の窓はちょうど川の方を向いていた。
家を見上げ、それからもう一度町を見た。
「……そこからも見えるかね」
*
商業ギルドで売家のことを尋ねると、管理を任されている男が鍵を持ってきてくれた。もう一度坂を上り、今度は家の前で足を止める。
「前は家具職人の工房だったんです。一年ほど前に南の町にいる息子さんのところへ移られましてね」
鍵を開けて戸を押すと、下端が床を軽く擦った。少し持ち上げてやると、金具がきしんで戸が開く。
「ずっと空いていたものですから。ときどき風は通していたんですが」
「少し擦ってるだけだな。金具も油を差せばよさそうだ」
中には木と乾いた埃の匂いが残っていた。一階は広い作業場で、奥に台所、その脇に裏庭へ続く戸がある。窓際の床には細かな傷があったが、歩いても軋まない。壁には棚を外した跡があり、留め具の穴はきれいに埋めてあった。
残された戸棚を開けてみると、引き出しは軽く動き、奥まできちんと収まった。柱も床板も手の触れるところは滑らかで、前の住人が大事に使っていたのが分かる。
台所では流しに水を通した。庭まで共用水道から水が引かれていて、排水にも問題はない。棚には薄く埃が積もっているが、拭けばすぐ使えそうだった。掃除と戸の調整くらいで気持ちよく住めそうだ。
ナギは裏庭の草の間を一周し、日なたへ座った。男がその姿を見て、おずおずと尋ねる。
「そちらもご一緒にお住まいで?」
「ああ。庭があるのは助かる。爪研ぎも置けるし」
男は近くの柱へ目をやってから頷いた。
二階には部屋が二つあった。道側の部屋へ入り、窓の留め金を外す。窓を押し開けると、風が袖を膨らませた。
石垣に座っていたときより、少し高い場所から町が見渡せる。橋のたもとで荷車が停まり、男が籠を下ろしていた。屋根の向こうには洗濯物が並び、広場の木陰で子供がしゃがみ込んでいる。
窓の下には椅子を置けそうだった。脇に小さな机があれば、茶を飲むにも具合がいい。冬は冷えるだろうから、床に敷く物も欲しかった。
「いかがでしょう」
声を掛けられて振り返ると、男は戸口で待っていた。俺は窓枠から手を離した。
「手続きは今日できるか?」
*
翌日の昼、鍵を受け取った。必要な金を払っても、当面の暮らしに困ることはない。家を買うと決めるまでの短さに比べれば、書類に名前を書いている時間の方が長かった。
四十になって、初めて家を買った。
日本からこの世界へ迷い込んだのは二十歳のときだ。それから二十年、宿か野営地で寝てきた。鍵を預かることはあっても、出ていく日には返していた。手の中の鍵をしばらく眺めてから、自分の家の戸を開けた。
アイテムボックスから荷物を出すと、一階の隅で済んでしまった。着替えと寝具、野営道具、工具の箱。底からは用途を思い出せない金具も出てきた。少し考え、それだけは元へ戻した。捨てた翌日に必要になったことが前にもある。
庭側の窓の下へ敷物を広げると、ナギは匂いを確かめて一周し、横になった。俺はまだ寝具を二階のどちらへ運ぶか迷っている。
「お前は決まったか。じゃあ俺は戸をやるよ」
出入りするたびに擦るのが気になったので、まず表の戸を直すことにした。木片をかませて支え、金具の緩みを確かめる。蝶番の取りつけを調整し、埃を拭って油を差した。
元へ戻して何度か動かすと、下端は床から離れ、音も消えていた。
昔、魔道具職人に弟子入りしていた頃、その友人の木工職人にも仕事を教わった。魔道具を収める箱や台座くらいは自分で作ろうと思ったのが始まりだったが、旅先では戸や家具の修理を頼まれることもあった。道具を揃えて持ち歩くうちに、できることも増えていた。
「こんにちは。新しく入った人?」
戸の向こうに買い物籠を下げた女性が立っていた。五十代くらいだろうか。俺の手元を覗き込んでいる。
「ああ。シュウジっていう」
「私はマルタ。下の角のパン屋だよ。さっそく修理かい?」
「開けるたびに少し床を擦るんでね」
工具をどけて戸を動かすと、マルタは滑らかに開いた戸と、地面の工具箱を見比べた。
「手慣れてるんだねえ。こういうのも見られるかい?」
道の端の小さな手押し車は、片方の車輪がわずかに傾いていた。
「朝から音がしてね。明日も使うんだけど、いつも頼む爺さんが隣町へ仕入れに行ってるんだよ」
車体を持ち上げて車輪を回すと、軸受けがすり減っていた。留め具も緩んでいるが、締め直すだけではまた傾くだろう。軸そのものにはまだ大きな傷はない。
「何を運ぶんだ?」
「粉袋と薪を少し」
「少しか」
「時々、多め」
「じゃあ少し丈夫にしとこう」
マルタに取っ手を支えてもらい、車を横へ倒した。薄い金属板を選んで切り、軸受けに合うように丸める。以前、世話になった荷馬車屋に教わった直し方だった。
丸めた板を当てて隙間を確かめ、もう少し曲げる。軸に無理なく収まるところで縁を整えた。
マルタは外した車輪を支えながら、縁に残る古い傷を撫でた。
「これもその爺さんに直してもらったんだよ。うちの人が段差に引っかけてね」
欠けた部分に木が継いであった。木目が揃い、よく見なければ境目が分からない。
「丁寧な仕事だな」
「腕はいいんだけど、最近は腰がつらいって。重い物を持ってくるなと言いながら、結局見てくれるんだ」
軸受けを収め、油を差して車輪を戻した。空で押してから、荷台の縁に腰を下ろして少し動かしてもらう。体重をかけても、軸は静かに回った。
「重そうだねえ」
「粉袋よりは軽いだろ」
「二袋よりはね」
降りて留め具を確かめ、車を返した。マルタは取っ手を握って二、三歩進み、満足そうに頷いた。
「いくらになる?」
使った材料と手間を考えて金額を伝えると、マルタは財布から銅貨を出した。受け取りながら次に重い荷物を載せたときも傾かないか見てほしいと頼んだ。
「爺さんが帰ったら、軸受けを入れ直したことも伝えておいてくれ」
「そうする。助かったよ。あんたもパンを買いにおいで」
坂を下りていく手押し車から、さっきまでの軋みは聞こえなかった。
*
夕方、そのパン屋へ行った。マルタは俺を見つけると棚へ向き直り、丸いパンを紙袋に入れてくれた。二つ分の代金を払うと、小さな平焼きのパンも一つ加わった。
「今日のお礼。これは早めに食べてね」
受け取っていると奥の客が、坂の上の工房にまた人が入ったのかと尋ねた。
「この人だよ。今日荷車を直してくれたんだ」
「あそこがまた開くなら助かるねえ」
「いや、家を買っただけで店を開くわけじゃ」
客は笑って頷いたが、どこまで伝わったか分からなかった。俺はマルタに礼を言い、パンの袋を抱えて坂を上った。
家へ戻ってから二階へ椅子を運び、窓を開けた。パンを割ると中はまだ柔らかい。薄く切った干し肉を挟んで食べながら、町を眺める。
あちこちから夕飯の煙が上がり、通りの下では子供を呼ぶ声がした。日が傾くにつれて屋根が一つずつ陰り、川の光も細くなっていく。隣ではナギが夕飯を食べ終え、前足を舐めていた。
明日は庭の草を刈ろう。部屋に敷く物も町で探してみたい。そう考えて足元を見ると、椅子を運んできた跡が埃の上についていた。
「……掃除もか」
箒は一階にある。取りに行くか迷っている間に、遠くで鐘が鳴った。ナギが窓の下へ横になったので、俺も椅子に座り直した。
もう少しここにいよう。掃除は明るいときの方がいい。
*
翌朝、表の戸を叩く音がした。
開けると、年配の男が小さな木の踏み台を抱えて立っていた。脚が一本、付け根で割れている。
「マルタさんに聞いたんですが、こういう物も直せますか」
踏み台から男へ目を戻した。
「近くに職人がいるそうだが、まだ戻ってないのか?」
「ええ。いつもはそちらへ。ただ、今日は娘が来るので、上の戸棚から布団を出しておきたくて」
抱え直した拍子に、外れかけた脚が揺れた。受け取って裏返すと、古い釘と紐で補強してある。
「自分で直した?」
「少し前に。壁につかまれば、どうにか使えたんですが」
そのまま上がってもらうのは少し心配だった。接合部を確かめていると、奥からナギが歩いてきた。男は目を丸くしたが、俺のそばで座ると表情を和らげた。
「立派な猫ですねえ」
「よく食うんだ」
ナギがこちらを見た。俺は作業台の布をどけ、踏み台を載せる場所を空けた。
「直せそうだ。急いでるなら、先に布団を下ろしに行こうか?」
「いえ、お昼までに済めば」
「それなら座って待っててくれ」
男はほっとした顔で中へ入った。戸をもう片方も開けると、朝の光が作業台まで伸びてくる。工具の箱を開け、踏み台に合う木を探した。
掃除はその後でいいだろう。




