第十一話 風呂屋の夜番
看板を掛けてから三日目、風呂屋で服を着ていると主人が脱衣場へ顔を出した。片腕しか袖を通していない俺を見て、声を掛けかけたまま待っている。
「出てからでいいんだが、相談があってな」
「今出るよ」
袖を通して腰帯を締め、濡れた髪をもう一度布で拭いた。この風呂屋には家を買ってから何度も来ているが、主人とは挨拶と湯加減の話くらいしかしたことがない。看板を見たのかと思って聞くと、パン屋で保冷箱の話を聞いたのだという。
「うちのも壊れてるわけじゃないんだが」
「見るだけ見てみよう。風呂へ入りに来たついでだ」
先に出た客たちが番台で妻に声を掛け、通りへ帰っていく。昼の忙しい時間を過ぎて手が空いたらしく、主人は俺を裏口へ案内しながら肩の布を掛け直した。
*
裏には薪小屋と釜場が並んでいた。戸を開けてもらうと湿った熱気が流れてきて、燃えた木の匂いが鼻に届く。
「湯の加減ならこれで分かるんだ」
主人が示したのは釜の脇にある細長い目盛り板だった。管を伝わる湯の熱で針が動き、赤い印の手前へ来たら火を弱める仕組みだという。
「ただ、ここへ来ないと見えなくてな。薪を入れて表へ戻って、そろそろかと思ってまた来る。混む時間は女房にも頼むんだが」
話の途中で表の鈴が鳴り、主人が顔を上げた。戸を開けて返事をすると、今度は針へ目を戻してから妻を呼ぶ。客が来ただけで二人の間に用事が増えるのを見て、番台から分かれば助かるという意味がよく分かった。
「俺が入ってるときも、よく裏へ来てたな」
「混むと水も足すからな。日によって減り方が違うんだ」
湯がいつも同じくらいの熱さなのを、今までは当たり前に受け取っていた。釜へ目を戻すと、使い込んだ取っ手に主人の手が重なった。
「魔道具屋には聞いたか?」
「聞いたよ。釜ごと替えるならもっと便利な物もあるそうだ。だが、これもまだ使えるしな」
鋳物の釜には補修の跡こそあるが、据えつけはしっかりしている。壁に掛かった板には薪を足した時刻が並んでいた。使い慣れた物を全部替えるより、必要なところだけ足した方がよさそうだ。目盛り板の覆いを開けて部品を置ける場所を探す。
「これを残して、表でも知らせるようにできると思う。火の加減は今まで通りやってもらうけど」
「それでいい。風呂まで入ってくれる道具はいらんよ」
「そっちは客が困るな」
主人は笑いながら脇の桶をどけ、俺がしゃがむ場所を空けてくれた。
*
翌日、描いた図を魔道具屋の主人へ見せると、奥の棚から小さな呼び鈴を出してくれた。
「知らせる方ならこれを使えるよ。店の奥へ客を呼ぶ物だが、音を小さくできる」
ちりんと澄んだ音も手頃な大きさも、番台に置くにはちょうどいい。熱を拾う部分には炉具にも使う赤い石の薄片を選んだが、店に残る分は別の仕事に使う約束があるという。
「次の荷は十日ほど先だね。急ぐなら、ほかの店にも聞くが」
「急ぎじゃない。少し考えるよ」
買った部品を持ち帰り、まずは手持ちの石で組んでみた。釜場で長く使うには向かなくても、湯を張った器で試すくらいなら問題ない。加減を確かめているうちに夕方になり、風呂屋の主人が様子を見に来た。
器へ先端を当てて鈴を鳴らすと、主人が机へ身を乗り出した。
「おお。これを表へ置けるのか」
「ああ。実際の釜で使えるようにしたら取りつけに行く」
鈴を手に取った主人が耳の横へ近づける。
「これなら聞こえるな。女房が置いてる鈴よりずっと上品だ」
「奥さんは何の鈴を?」
「俺が番台で寝るとな、起こすんだよ」
そちらは大きい方がよさそうだと頷いたところで、主人が急に鈴を置いた。
「俺が寝てたらどうなる?」
「湯が沸く」
「だよなあ」
やはり妻の鈴も必要らしい。
*
主人を見送って地図を広げると、北の山裾を流れる小川が目に入った。昔あの辺りで野営したとき、岩肌に赤い石の層が見えていたはずだ。荷を待ってもいいが、天気のいいうちに出かけるのも悪くない。
「ナギ、明後日あたり少し歩くか」
窓辺にいたナギが顔を上げた。地図を畳んで野営袋を出すと、もう戸口でこちらを待っている。
「今日は行かんぞ」
戻ってきたナギは袋の横に座り、鼻先を寄せた。俺も隣へ腰を下ろして留め具を開く。まずは道具の手入れからだ。




