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消した返信  作者: reika1021


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2/10

第2章:名づけぬ微熱

朝の空気が昨日より少しだけ湿っている中、羽澄ことりが株式会社未白編集室のガラス扉を押し開けた。東京のビルの隙間を抜けてきた風はまだ涼しいのに、駅から歩いてきた首筋には薄い熱が残っていた。


編集部にはまだ人の声が少なく、椅子の背にかけられた薄手の上着、昨日のまま置かれたマグカップ、充電中のパソコンの小さな光だけが先に仕事を始めているように見えた。


ことりはデスクに鞄を置いた。鞄の中でスマホが軽く沈み、その重さだけで昨夜の帰り道を思い出しそうになる。


送らなかった言葉は消したはずだったのに、朝になっても親指の奥にまだ形が残っている。


ことりはパソコンを開いた。画面が明るくなるまでの間、黒い液晶に映った自分の顔が昨日より少しだけ知らない人に見えた。


今日の仕事は恋愛記事の打ち合わせから始まる予定だった。曖昧な好意に気づいたときにどう言葉にすればいいのか、というテーマの企画だった。


人の恋ならいくらでも整理できる。読者の不安を分け、見出しを立て、最後に少しだけ前を向ける結論を置けばいい。


けれど、自分の中にあるものはまだ見出しにできるほど輪郭を持っていなかった。名前をつけようとすると途端に逃げ場がなくなる気がした。


スマホが震える。表示されたのは真瀬凪人からの社内チャットだった。


「今日の打ち合わせ、ことりさんの案を先に聞きたい。昨日の導入の感じ、よかったから」


短いメッセージだったが、「よかった」という言葉だけが朝の湿った空気の中で乾かずに残った。


ことりは入力欄に「ありがとうございます」と打った。続けて「真瀬さんにそう言ってもらえると少し安心します」と書きかけて、そこで止まった。


「安心します」は仕事の返事に見えなくもないが、ことりにはその中に別の熱が混ざっていることがわかっていた。


少しだけ迷ってから、その一文を消した。画面は何も知らない顔で白く戻る。


「ありがとうございます。打ち合わせ用に少し整理しておきます」


と送信すると、胸の奥に残っていた言葉が行き場を失って沈んだ。整った返信ほど自分から遠くなる気がした。


編集部の奥で椅子を引く音がして、ことりが顔を上げると、真瀬凪人が自分のデスクに鞄を置いているところだった。


昨日と同じ人なのに、朝の光の中では少し違って見えた。髪の先に外の湿気が残り、袖口に街の空気が薄くまとわりついていた。


真瀬はことりの視線に気づくと軽くうなずいた。声にする前の挨拶のようなそのしぐさに、ことりは少し遅れて会釈を返した。


「おはよう」


「おはようございます」


普通の挨拶だったけれど、普通で済ませるためにことりは息の量を少しだけ調整した。


真瀬は自分の席に座ってパソコンを開き、画面を見る前にほんの一瞬だけことりのほうを見た気がした。


気のせいかもしれない、と思うには短すぎる一瞬だったが、気にしないには十分すぎる時間だった。


ことりは企画書を開いた。恋愛記事の見出し案がいくつか並んでいる。


好きかもしれない気持ちに気づいたら、曖昧な関係で傷つかないために、相手の優しさを勘違いしそうな夜に。


どれも読者向けの言葉だったのに、画面に並んだそれらはどこかで自分を試しているように見えた。


ことりは見出しのひとつを消した。「相手の優しさを勘違いしそうな夜に」という見出しは、あまりにも昨夜の自分に近かった。


代わりに、もう少し距離のある言葉を置く。言葉にする前の気持ちを整えるには。


「整える」。ことりはその単語を見つめた。


自分はずっと「整える」ことで逃げているのかもしれない。乱れたままでは差し出せないから、角を削って、温度を下げて、結局は何も残らない文章にしてしまう。


真瀬からのチャット欄には既読の印だけが残っていた。返事は来ない。


それでよかった。そう思う一方で、何か短い一言が返ってきたらまた一日を勝手に変えてしまうのだろう、と思った。


打ち合わせの準備が進むにつれ、編集部には人の気配が増していった。キーボードの音、紙をめくる音、コーヒーの香り、廊下から聞こえる誰かの足音。


東京の小さな編集部は朝の静けさを少しずつ脱ぎ捨て、白かった空気に昼へ向かう湿度が混ざり始めていた。


ことりは資料を印刷して会議用のテーブルへ運んだ。紙の束はまだ少し温かく、指先に機械の熱が残っていた。


真瀬が後ろから近づいてきた。足音は大きくないのに、ことりは振り向く前にわかった。


「それ、持つよ」


「大丈夫です。軽いので」


「軽くても、落とすと散る」


真瀬はそう言って、ことりの手元から紙を半分だけ取った。奪うようではなく、余白を残して受け取るような動きだった。


ことりの指先から紙の重さが少し消え、代わりに真瀬の手が近くを通った感覚だけが残った。


触れてはいないのに、触れなかったことの方が妙にはっきりしていた。


会議用のテーブルには外の光が斜めに落ち、窓越しの東京は朝より少し明るく、ビルの壁面が白く反射していた。


ことりは資料を並べながら紙の角を揃えた。整える動きに集中していれば余計なことを考えなくて済む。


真瀬は向かい側で資料を置き、ことりが揃えた紙の端を見てほんの少し目を細めた。


「几帳面だね」


「仕事なので」


「仕事じゃなくても、たぶん揃えるでしょう」


ことりは返事に迷った。否定しても嘘になるし、認めるのも少し恥ずかしかった。


「散らかっていると、落ち着かないだけです」


「言葉も?」


真瀬の声は軽かったが、ことりの胸には思ったより深く響いた。


言葉も。たぶん、そうだった。


散らかったままの気持ちを見せるのが怖くて、ことりはいつも返信を削る。何でもない言葉にしてからでないと、人に渡せない。


「言葉は、散らかっているほうが良い時もあると思います」


口にしてから、ことりは自分で少し驚いた。思っていたよりも正直な声だった。


真瀬は資料から顔を上げ、目が合った。


「そう思う?」


「記事なら、たまに。整いすぎていると、読者が入る隙間がなくなるので」


仕事の話に戻れたので、ことりは少しだけ息を吐いた。


真瀬はうなずいたが、すぐには何も言わなかった。


その沈黙はことりには返事よりも長く感じられ、真瀬の中で何かが整理されているような静かな時間だった。


「今日の企画、それでいけると思う」


「どれですか?」


「言葉にする前の気持ちを整えるには、ってやつ」


ことりは資料の一枚を見下ろした。自分が少し前に差し替えた見出しだった。


「まだ仮です」


「仮のほうがいい時もあるよ。決めすぎてないから」


真瀬はそう言って自分の席に戻った。ことりは残された資料の上で指先を止めた。


仮のほうがいい。決めすぎていないから。


それは見出しの話だった。わかっているのに、ことりの胸は別の場所でその言葉を受け取っていた。


昼の近さが編集部に満ちてくる。空調の風が少し強くなり、窓の外を走る車の音が壁に当たって柔らかくなる。


打ち合わせが始まるころ、ことりは向かいの席に座った真瀬をなるべく見ないようにしていたが、見ないようにすればするほど、視界の端にいる彼の気配だけが濃くなっていった。


資料を開き、企画の説明を始める。声は思ったより落ち着いていた。


「今回の記事では、恋だと決める前の段階を扱いたいです。相手の言葉に反応してしまうけれど、まだ好きとは言えない状態です」


自分で言いながら、喉の奥が少し乾いた。仕事の説明としては自然なのに、言葉の一部が自分のほうへ戻ってくる。


真瀬はペンを持ったまま資料を見ており、ことりの顔を見すぎないところがかえって落ち着かなかった。


「読者には、すぐ答えを出さなくていいと伝えたいです。勘違いかもしれないし、まだ大事にしなくていい気持ちかもしれないので」


そこで少し言葉が止まった。ことりは資料の角に視線を落とした。


「ただ、なかったことにしようとすると、逆に残ることもあると思います」


会議室の空気がほんの少しだけ静かになった。誰もいないわけではないのに、その言葉だけがテーブルの上に濃く残っているように感じられた。


真瀬がペンを置いた。ことりはそれに気づいたが、見ないふりをした。


「いいと思う」


真瀬の声が落ちた。


短い言葉だったが、昨日の「こっちのほうがいい」とは異なる響きがあった。


「そこ、記事の芯になる」


ことりはうなずいた。仕事の評価として受け止めればいいだけなのに、胸の奥が少し熱くなった。


芯になる。自分の中で消したはずのものまで見つけられたような気がした。


打ち合わせは穏やかに進み、大きな変更はなく、見出しと導入の方向だけを少し整えることになった。


ことりはメモを取りながら、真瀬の言葉の置き方を耳で追っていた。彼の指摘はいつも短く、余計な湿度を含まない。


それなのに、時々乾いた紙に水がしみるように残る。ことりはそれが困ると思った。


打ち合わせが終わると、会議用のテーブルには紙の匂いとコーヒーの苦みだけが残った。ことりは資料をまとめ、パソコンの電源を切った。


真瀬が横から声をかけた。


「さっきの説明、よかった」


「ありがとうございます」


すぐに返せたが、そのあとが続かなかった。


真瀬は資料を片付けながら少しだけ間を置いた。


「自分の言葉で話していたから」


ことりは紙を持つ手に力を入れた。「自分の言葉」という言い方が、朝からずっと避けていた場所に触れた。


「仕事なので」


また同じ逃げ方をした。自分でもわかった。


真瀬はそれを責めなかった。ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「うん。仕事でも」


それだけ言って、真瀬は先に会議室を出ていった。残されたことりは、紙の角をそろえながら必要以上に時間をかけた。


昼の編集部は朝よりもにぎやかだった。人の声と機械音が重なり、誰かが開けた窓から街の湿った匂いが一瞬だけ入り込む。


ことりはデスクに戻り、打ち合わせ内容を記事の構成に移し、見出しの下に小さな説明文を置いた。


まだ名前のない気持ちを、無理に答えにしないこと。


打ち込んでから少しだけ止まる。これは読者に向けた文章なのか、それとも自分に向けたものなのか、その境目が曖昧だった。


スマホがまた震えた。真瀬からだった。


「さっきの企画、導入は少し静かに入った方がいいかも。気持ちを決めつけない感じで」


ことりは画面を見つめた。真瀬の言う「決めつけない感じ」はいつも正しい。


ただ、今日はその正しさが少し苦しかった。決めつけないままでいることはやさしいようだが、長く続くと胸を削る。


ことりは入力欄に返事を打った。「そうですね。まだ恋と呼ばない感じでいきます」


そこまで打って、止まる。


まだ恋と呼ばない、という言葉は、まるで自分のことみたいだった。


ことりは少しだけ迷い、そのまま送るべきか考えた。仕事の返信としては自然だった。


けれど、真瀬が読んだら何かに気づくだろうか、それとも気づかないだろうか。


気づかれたいのか、気づかれたくないのか、自分でも分からなかった。


結局、ことりはその文を消して、「決めつけない温度で入ります」と打ち直して送った。


安全な言葉だったけれど、安全な言葉ほど送った後に少し寂しくなる。


午後の光は窓際の床に平たく伸びており、朝の白さとは違って少しだけ色を含んでいた。


ことりは記事の導入を書き始めた。「好きかどうかわからない」時期には、相手の何気ない一言がなぜか一日中頭から離れないことがある。


そこまで打って手が止まる。あまりにも近い。


けれど、記事としては悪くなかった。むしろ、読者に届く入口だった。


仕事に自分を少しだけ混ぜるのは、悪いことではない。そう言い聞かせながら、ことりは続きを書いた。


誰かの優しさをただの親切として受け取れない日がある。けれど、それをすぐに恋と呼ぶにはまだ心が追いつかない。


画面の中の文章は静かに進んでいく。ことりは、読者に向けて書いているふりをしながら自分の胸のうちを少しずつなぞっていた。


真瀬は離れた席で原稿を見ていた。会話はない。


会話がない時間のほうがことりには難しかった。話しているときは声のやり取りに意識を逃がせる。


黙っていると、相手がいることだけが残る。視線を向けなくても、同じ部屋にいるという事実が空気の密度を変える。


ことりは一度だけ顔を上げた。真瀬は画面を見ている。


その横顔は仕事に集中していて、ことりのことなど考えていないように見えた。そう見えたことに安心すると同時に、同じくらい小さく傷ついた。


勝手だと思った。気づかれたくないのに、気づかれないと寂しい。


そんな感情は記事には書けない。書いたら読者に寄り添うふりをして自分を露出するだけになる。


ことりは水を飲んだ。ぬるくなった水が喉を通り、胸の熱を少しだけ下げる。


夕方の前の編集部には独特の疲れが漂っていた。まだ終わりではないのに一日の形がだんだん見え始める時間だった。


ことりは導入を書き終え、真瀬に確認のメッセージを送った。「恋と呼ぶ前の気持ちという方向で導入を書きました。確認をお願いします」


送った後、すぐに画面を伏せた。返事を待っている自分を見たくなかった。


けれど待ってしまう。音が鳴る前から身体が少し先に反応する。


真瀬からの返信はしばらくして届いた。


「いいと思う。特に、『ただの親切として受け取れない日がある』というところ。そこは残して」


ことりはその一文を何度も読んだ。「残して」という言葉が画面に表示されている。


「残して」。それは「消さなくていい」みたいに聞こえた。


もちろん原稿の話だった。それ以上でもそれ以下でもない。


それでも、ことりの中で朝から消してきた言葉たちがいっせいに小さく息をした気がした。


入力欄を開き、「ありがとうございます。そこ、自分でも少し迷ってました」と打った。


それは本当だった。仕事の意味でも、本当だった。


けれど、もうひとつの意味も混ざっていた。ことりは、送る前に少し迷った。


迷って、それでもそのまま送った。


すぐに後悔した。「自分でも少し迷ってました」という言葉が、どこまで原稿に向いているのか曖昧に見えたからだった。


真瀬からの返事は短かった。


「迷っている感じがちょうどよかった」


ことりは画面を伏せた。これ以上見ていると、何か余計な言葉を打ってしまいそうだった。


「迷っている感じがちょうどいい」と言われたら、迷っている自分まで許されたように錯覚してしまう。


錯覚だ、とことりは思った。


けれど、錯覚でも胸は少し楽になる。人の言葉は正確でなくても、体温を変えてしまうことがある。


夕方の影が窓際に伸び始め、ビルの壁に反射していた光は弱まった。編集部の床は、少しずつ色を失っていった。


ことりは記事の続きを整えた。読者に向けた文章の中で、「好き」と決めないまま「大切にする」という言葉を書いては消した。


「大切にする」は少し強い。「守る」も違う。「見ないふりをしない」なら近いかもしれない。


ことりは何度も言葉を替えたが、結局「気づいてしまった自分を責めない」という一文を置いた。


画面を見ていると、背後で真瀬の椅子が動く音がした。ことりは振り向かなかった。


真瀬が近づいてくる気配がして、足音がデスクの横で止まった。


「導入、もう一回見てもいい?」


「はい」


ことりは画面を少しだけ真瀬のほうへ向けた。昨日と同じような距離だった。


しかし、ことりは昨日よりもその近さに慣れていなかった。慣れるどころか、一度意識してしまった距離は前よりも細かく感じられた。


真瀬は画面を読んでいる。ことりは文章ではなく、真瀬の呼吸の間を聞いていた。


「ここ、いいね」


「どこですか?」


「気づいてしまった自分を責めないってところ」


ことりは小さくうなずいた。そこは最後まで迷った一文だった。


「少し、柔らかすぎますか?」


「いや、やわらかいけど逃げてない」


また「逃げてない」という言葉が出た。ことりは胸の内側をそっと押された気がした。


真瀬は画面から視線を外し、ことりを見た。長くはない。


しかし、目が合った瞬間、会話の続きが言葉ではなく沈黙のほうへ移った気がした。


「ことりさんの文章は、迷っているところにちゃんと触れるよね」


ことりはすぐに返事ができなかった。褒め言葉なのに、どこか見抜かれたようで怖かった。


「迷いすぎてるだけです」


「それも、悪くないと思う」


真瀬の声は静かだった。言い切るのではなく、そこに置くような声だった。


ことりは画面に視線を戻した。自分の顔がどう見えているのかわからなかった。


「ありがとうございます」


それだけを言った。余計な言葉を足すと、たぶん整わなくなる。


真瀬はうなずいて自分の席に戻った。ことりは、その背中を見ないようにして文章の最後にカーソルを置いた。


夕方が夜へ傾いていく。編集部の白い明かりが強くなり、窓の外の街は少しずつ暗くその輪郭を消していった。


ことりは記事の保存と公開予約の準備をした。作業は順調だった。


順調なのに胸だけが落ち着かない。昼の会話で何かが解けたのか、それとも逆に絡まったのか、自分でも判断がつかなかった。


真瀬とは普通に話せたし、仕事の話もできたし、笑うこともできた。


それなのに画面越しになると、途端に言葉が難しくなる。目の前なら声に隠せるものが、入力欄では一文字ずつ裸になる。


ことりはスマホを見た。真瀬とのチャット欄には、午後のやり取りが残っている。


「迷ってる感じが、ちょうどよかった」


その短い返事を見ていると、昼の会議室の空気が戻ってくる。紙の匂い、コーヒーの苦み、真瀬がペンを止めた小さな間。


ことりは入力欄を開いた。「今日の打ち合わせ、ありがとうございました」と打つ。


続けて、「真瀬さんの言葉で、少し書きやすくなりました」と入れる。そこまでは自然だった。


でも、それは本当に仕事だけの言葉だろうか。ことりは画面を見つめる。


真瀬さんの言葉で、少し呼吸がしやすくなりました。


そう打ち直したくなる。打ったら終わる気がした。


終わるというより、始まってしまうのかもしれない。どちらにしても、今のことりには怖かった。


ことりは「少し書きやすくなりました」を消した。かわりに「助かりました」と打つ。


安全な言葉。平らな言葉。


送る前に、それも消した。何度も消していると、自分が何を守りたいのかわからなくなる。


編集部の中から少しずつ人が減っていく。椅子が戻る音、鞄の金具が鳴る音、帰り際の小さな挨拶。


ことりはパソコンを閉じる前に、記事の導入をもう一度読んだ。好きと呼ぶ前の気持ちを、無理に答えにしなくていい。


読者に向けたはずの言葉が、夜の画面の中で自分へ戻ってくる。


真瀬はまだ席にいた。画面を見ている横顔に、白い照明が薄く乗っている。


ことりは帰る支度をしながら、声をかけるか迷った。お先に失礼します、だけでいい。


ただの挨拶なら何もおかしくない。けれど今は、ただの挨拶に余計な温度を混ぜてしまいそうだった。


「お先に失礼します」


結局、言った。声は少し乾いていた。


真瀬が顔を上げた。


「おつかれさま。雨、少し降ってるかも」


「そうなんですか?」


「さっき窓に当たってた」


ことりは窓のほうを見た。ガラスには室内の白さが映っていて、外の雨は見えにくかった。


「傘、持ってます」


「ならよかった」


真瀬はそう言って、また画面に視線を戻した。それだけだった。


それだけなのに、ことりは胸の中で何かを受け取ってしまう。雨を教えられただけで、帰り道を少し気にされたように感じてしまう。


自分の勘違いかもしれない。たぶん、そうだ。


それでも、勘違いで済ませるには、真瀬の声はいつも少しだけ近い。


ビルの外へ出ると、細かな雨が空気の中に浮いていた。傘を差すほどではないのに、髪や袖口に少しずつ水分が残る。


東京の夜は、雨で輪郭がやわらかくなっていた。信号の赤が濡れた舗道にぼんやり伸び、車の音はいつもより低く広がっている。


ことりは駅へ向かって歩いた。鞄の中のスマホが気になって、何度も持ち替えそうになる。


今日は送れる気がした。何を、とは言えない。


ただ、昼の会話がまだ胸の中でほどけきっていなかった。真瀬の短い言葉が、結び目を緩めたまま残っている。


駅の階段を下りると、雨の匂いは薄くなり、人いきれと金属の匂いが近くなった。電車の風が地下の空気を押し動かす。


ことりはホームでスマホを開いた。真瀬とのチャット欄を開く。


「今日はありがとうございました」


まず、それを打つ。何度も使っている言葉なのに、今日は少し重い。


続けて、「打ち合わせで話せてよかったです」と打った。これも仕事の範囲に収まる。


でも、ことりが本当に残したいのはその後ろだった。昼に普通に話せたのに、夜になるとまた言葉がわからなくなります。


そんなこと、送れるはずがない。


電車が入ってきた。車体の濡れた表面にホームの光が流れ、扉が開くと湿った空気が押し出される。


ことりは人の流れに合わせて乗り込んだ。吊り革の下に立ち、スマホを胸の近くで持つ。


文章はまだ入力欄に残っている。「今日はありがとうございました。打ち合わせで話せてよかったです」


送れる。たぶん、送ってもおかしくない。


けれど送信ボタンの近くで親指が止まる。画面の白い場所に、別の言葉が透けて見える気がした。


昼間は普通に話せるのに、夜になるとあなたへの返信だけが難しくなります。


ことりはその一文を実際に打った。打ってしまった。


車内の音が少し遠くなる。窓には暗い自分の顔と、背後の人影が重なっていた。


これは送れない。そう思うのに、消すまでの数秒ことりはその言葉を見つめていた。


本音は、書いた瞬間に少しだけ息をする。たとえ誰にも届かなくても、自分だけはそれを読めてしまう。


ことりはゆっくり消した。夜の電車が揺れるたびに文字がひとつずつ消えていく。


残ったのは最初の「礼」だけだった。仕事の顔をした、きれいな文章。


でも、それも送れなかった。礼だけを送るには、今日の胸の揺れが少し大きすぎた。


ことりは入力欄を空にした。画面は何事もなかったかのように白く戻った。


電車が暗い区間を走り、窓の外に時々現れる明かりがことりの頬を短く照らしては流れていった。


昼の会話は夜になると形を変える。普通に交わしたはずの言葉がひとつずつほどけて送れない返信になって戻ってくる。


ことりはスマホを伏せた。胸の内側にはまだ、消したばかりの文章が熱を持っていた。


真瀬凪人に届かなかった言葉が、今日もことりの中だけで少し濃くなる。恋と呼ぶにはまだ早いと思いながら、もうその名前から遠ざかれないこともどこかでわかっていた。

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