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消した返信  作者: reika1021


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第1章:朝に残る白欄

朝の光がまだ硬い中、羽澄ことりは無人の編集部で記事の導入部分をなでるように整えていた。株式会社未白編集室の窓には東京のビルの白い側面が薄く映り、冷えた机の質感だけが朝を先に知らせていた。


昨日の校正紙は端だけ少し反り、飲み残した水の表面にはまだ誰の声も落ちていなかった。昼間なら気にならない空調の音が今は天井の奥から静かに降りてくる。


ことりは画面の一文を読み返し、強すぎる言葉を消し、弱すぎる語尾を少しだけ立たせた。記事は朝の支度を軽くする美容の読み物だった。


読者が忙しい時間の合間に開いても押しつけがましくなく、そのまま数行だけ読んでみたくなるような導入が必要だった。ことりは、人の気持ちに届く言葉なら何度でも整えられる気がしていた。


自分の気持ちが混ざらなければ。


キーボードの上で指が止まる。画面の白い余白は、まだ誰にも送っていない返信に似ていた。


そこに何かを書けばすぐ形になってしまうが、形にした瞬間今の距離が少しだけ変わってしまうような気がして、ことりは昨夜消した文章を思い出しかけた。


スマホが震える。表示されたのは真瀬凪人からの社内チャットだった。


「昨日の導入、最初の一文だけ少し詰まってる。読者の息が止まる前に、言葉をひとつ逃がしてもいいと思う。朝から直しているなら、無理をしないように」


短いメッセージだったが、最後の一文だけが仕事の温度から少し外れていた。


ことりはその文面を一度読み終えた後、もう一度読んだ。修正の指摘はいつも通り的確で余計な飾りがなく、文章の息継ぎを見ているような言葉だった。


それなのに、「無理しないで」の部分だけが画面の中で少し遅れて残る。朝の光よりも小さく、けれど指先の熱を変えるには十分だった。


ことりは入力欄に返事を打とうとしたが、「ありがとうございます」と書きかけて止まった。仕事の返事なら、それでよかった。


でも、そのあとに続けたくなった言葉があった。「あなたにそう言われると、少しだけほどけます」。


と、見つめた瞬間、それは仕事の文章ではなくなった。ことりは親指でその一文を消し、何もなかったかのように画面を元に戻した。


「了解です。導入、少し直してみます」


送信ボタンを押すと、編集部の静けさがまた少しだけ戻ってきた。画面から真瀬の名前が消えても、届かなかった言葉だけがことりの胸の内側に残っていた。


返事を送った後、ことりはしばらく画面を伏せることができなかった。何かが返ってくるわけではないとわかっているのに、白い入力欄の消えた場所を見てしまう。


外では車の音が少しずつ増えていた。低く流れるタイヤの音がビルの壁に当たって、薄い布で包まれたみたいに遠くなる。


ことりは椅子に座り直し、真瀬に指摘された一文にカーソルを戻した。「読者の息が止まる前に、言葉をひとつ逃がしてもいいと思う」というその言い方が、なぜか原稿ではなく自分に向けられたもののように胸に残っていた。


言葉をひとつ逃がす。そんなことができたらどれだけ楽だろう。


ことりは導入文の最初にあった説明を削り、少しだけ柔らかい言い回しに置き換えた。文章の通り道に余白ができると、画面の中で言葉が呼吸を始めるように見えた。


自分の返信もこんな風に直せたらよかった。伝えすぎず、隠しすぎず、読んだ相手の中で少しだけ温度が残るくらいに。


けれど、真瀬に向けた文章だけが何度削っても整わない。丁寧にしようとすると遠くなり、軽くしようとすると嘘になる。


編集部の入口の方で小さな電子音がし、廊下から誰かの足音が近づいてくる気配がした。ことりは少しだけ背筋を伸ばした。


ガラス扉の向こうに見えた影は真瀬だった。紺色の薄い上着を腕にかけ、片手に紙袋を持ち、いつもより少しだけ髪の先が乱れていた。


朝の光の中で見る真瀬は、チャットの文面よりずっと近かった。近いのに、ことりのほうから勝手に一歩分の距離を作ってしまう。


真瀬は入口のところで視線を上げ、ことりがいることに気づいた。驚いた様子はなかったが、ほんの少しだけ目元が緩んだように見えた。


「早いね」


その声は大きくなかったが、誰もいない編集部では紙の上に水滴が落ちるくらいにはっきりと聞こえた。


「真瀬さんも早いですね」


ことりはすぐに返したつもりだったが、自分の耳には返事の前に小さな間が落ちたように聞こえた。


真瀬は、自分のデスクに荷物を置きながらことりの画面を見ないように視線をずらした。その遠慮の仕方がことりにはかえって近く感じられた。


「昨日の原稿、もう直してる?」


「はい。最初の一文、たしかに詰まっていました」


「詰まってるってほどじゃないけど、少しだけ読む人が急かされる感じがした」


真瀬は椅子を引かずに立ったままそう言った。ことりは画面に視線を戻しながら、その言葉を自分の呼吸に合わせて置き直した。


「読む人が急がされる感じ」。ことりはその表現が好きだった。文章の良し悪しを正しさではなく読む人の身体で見ているところが。


「ここ、こうしました」


ことりは画面を少しだけ真瀬のほうへ向け、指先がマウスに触れたまま必要以上に動かないよう、力を入れた。


真瀬は隣に立った。肩が触れるほどではないのに、空気だけが狭くなる。


ことりは画面を見ているふりをした。真瀬の視線が文章の一行目をなぞる気配が横顔の温度として伝わってくる。


「うん。こっちのほうがいい」


短い言葉だったが、褒められたというよりも、文章がふっと軽くなったことを一緒に確認されたようで、ことりはすぐに返事ができなかった。


「ありがとうございます」


やっと出した声は、自分が思うよりも低かった。朝の冷えた机の上に置いたら、すぐに曇ってしまいそうな声だった。


真瀬はことりの顔を一瞬だけ見た。ほんの一瞬だったのに、ことりはその視線の置き場所を覚えてしまった。


目ではなく、目の少し下。疲れを探すような、でも見つけても言葉にしないような場所だった。


「朝、ちゃんと食べた?」


ことりの手が止まった。そういうことを聞かれると思っていなかったからではなく、その聞き方があまりに普通だったため、余計に困った。


「食べました。少しだけ」


「少しだけ、は食べたに入れていいのかな」


真瀬の声にからかう響きはなかった。責めるでもなく、踏み込むでもなく、ただ少しだけそこに置かれた言葉だった。


ことりは笑おうとしたが、口元だけで作った笑いは自分でも薄いと感じた。


「じゃあ、半分くらい食べました」


「半分なら、まあ」


そこで会話は途切れたが、気まずさよりも先に、まだ続けられたかもしれない余白が残った。


真瀬は紙袋から小さな包みを取り出し、自分のデスクの端に置いた。それが何かを聞くほどの距離ではなかったし、聞かないほうが自然だった。


ことりは原稿へ戻ったが、視界の端に置かれたその包みがなぜか何度も焦点の手前に入ってくる。


しばらくして、真瀬が席に着く音がした。椅子の脚が床をこする短い音が朝の編集部に、少しだけ人の気配を足した。


ことりは修正を続けた。見出しの強さを整え、導入の二文目を削り、読後感が重くならないように語尾を変えた。


やがて、入口の外を通る足音が増えてきた。エレベーターの開く音、廊下で誰かが鞄を持ち替える音。まだ眠そうな街が、少しずつビルの中へ流れ込んでくる。


編集部は静かなまま、完全な無人ではなくなっていった。空気に人いきれの湿りが混ざる前の、短い猶予のような時間だった。


ことりのスマホがまた震えた。今度は社内チャットではなく、同じ画面の中に真瀬からの追記が表示されていた。


「さっきの包み、余ってるから食べて。甘すぎないやつ」


ことりは思わず顔を上げた。真瀬は自分の画面を見ていて、こちらを見ていない。


デスクの端に置かれた小さな包みが自分に向けられたものだと気づくまでに、少し時間がかかった。あまりにもさりげなく置かれていて、優しさというより机の上に光が落ちていることに似ていた。


ことりは入力欄を開き、「ありがとうございます。助かります」と打った。


それだけでよかった。仕事場で交わす言葉としては十分で、重くもなく、不自然でもない。


けれど、親指は勝手に続けようとしていた。「真瀬さんは、こういうところがずるいです」


文字が画面に表示された瞬間、ことりは息を止めた。「ずるい」という言葉は軽く見えたが、思ったよりも本音に近いものだった。


すぐにその言葉は消したものの、指先の奥にその言葉の形が残っている。


「ありがとうございます。あとでいただきます」


それだけを送った。画面の向こうで真瀬が読んだかどうかは、見ないようにした。


昼の気配が近づくにつれて、窓の外の白さは少しずつ熱を帯びてきた。隣のビルの壁に反射した光が編集部の床に落ち、デスクの脚の影を細く伸ばしていく。


ことりは包みを開けた。小さな焼き菓子で、香ばしい匂いが紙の内側からふわりと立ち上る。


甘すぎないやつ、という真瀬の言葉通り、口に入れると控えめなバターの味がした。舌に残る温度がやさしすぎて、ことりはかえって何も考えないようにした。


食べ終えた包み紙を小さくたたむ。たったそれだけのことなのに、指先が丁寧になってしまう自分が嫌だった。


仕事に戻ればいい、と思って画面を見ると、修正した導入文がさっきより少し柔らかく見えた。


真瀬の言葉を入れたせいだ、とことりは考えた。


文章に誰かの呼吸が混ざることは仕事では悪いことではない。むしろ、ひとりで整えすぎた文章よりも別の視線を通った言葉のほうが読者に届くこともある。


けれど、自分の気持ちにそれが起きるのは怖かった。真瀬の短い一言が入るたびに、ことりの中の言葉は少しずつ書き換わっていく。


昼の編集部は朝とは違う匂いがした。紙とコーヒーと外から持ち込まれた湿気が混ざり、キーボードの音が小さな雨のようにあちこちで響く。


ことりは午後に公開予定の記事を確認しながら、ところどころで真瀬の動きを視界に入れてしまった。直接見るわけではないのに、椅子が少し引かれる音や息を吸うタイミングから、彼がそこにいることがわかる。


それを意識しないふりをするのが今日の仕事の一部になっていて、誰にも頼まれていないのにいちばん難しい作業だった。


昼を過ぎたころ、真瀬がことりのデスクの近くで足を止めた。通り過ぎてもいい位置だったのに、ほんの少し速度が落ちた。


「さっきの記事、公開前にもう一度見ようか」


ことりが顔を上げると、真瀬の手には自分のマグカップがあり、湯気はもうほとんど消えていた。


「お願いします。読後感、少し軽くしすぎたかもしれなくて」


「軽いのは悪くないよ。逃げてる軽さじゃなければ」


逃げてる。ことりはその言葉に胸の奥を小さく押された気がした。


原稿の話だとわかっている。それでも、朝から何度も消している返信のことを誰かに見られたような感覚があった。


真瀬はことりの隣に立ち、画面を読んだ。ことりは椅子を少し引いて距離を作ったが、その分だけ真瀬の声が横から入ってくる場所がはっきりした。


「この見出し、ことりさんっぽい」


名前を呼ばれた瞬間、返事より先に息が漏れた。「ことりさん」という普通の呼び方が、今日はなぜか胸の内側に残る。


「どこがですか?」


「やさしいけど、逃がさないところ」


ことりは画面を見るふりをした。自分の顔を見られたくなかった。


やさしいけど逃がさない、という言葉を仕事の評価として受け取ればいいのに、真瀬の声で言われるとどこか体温に近くなる。


「それ、褒めてます?」


「褒めてる」


真瀬は短く言った。迷いのない言い方だった。


ことりはほんの少しだけ笑った。朝に作ろうとして失敗した笑いよりも自然だったと思う。


けれど、その自然ささえあとで思い返したら恥ずかしくなるのだろう。真瀬の前で少し楽になった自分を夜の自分が見つけてしまう。


公開前の記事は大きな修正なく整い、真瀬は数か所だけ言葉を置き換えた。ことりはその修正を見ながら、文章の中の空気が少しずつ澄んでいくのを感じた。


作業の終わりに真瀬が「これで大丈夫」と言った。その一言でことりの肩から余計な力が抜けた。


「大丈夫」。仕事では何度も聞く言葉なのに、真瀬から聞くと別の意味を持ちそうになる。


ことりはまた入力欄を思い出した。大丈夫と言われるたびに、大丈夫じゃない部分が目を覚ます。


夕方の影が床の色を変え始めるころ、編集部の窓には外の景色が少し濃く映るようになっていた。 ビルの隙間を流れる風が昼の湿気をどこかへ押しやっていく。


ことりは、公開された記事の反応を確認しながら、数字よりも先に導入文を読み返していた。朝、真瀬に指摘された一文は、今では最初からそこにあったかのように自然に収まっていた。


言葉は直せる。何度でも直せる。


でも、消した気持ちはどこに残るのだろう。画面から消えた文章はなかったことになるのではなく、胸のどこかに移るだけなのかもしれない。


ことりはスマホを開き、真瀬とのチャット欄に朝のやり取りが残っていることを確認した。


「ありがとうございます。あとでいただきます」


自分が送ったその文章は悪くなかった。礼儀正しくて、軽くて、仕事の空気を乱さない。


けれど、本当に送りたかった言葉はその下に見えない形で残っていた。「真瀬さんは、こういうところがずるいです」


画面を見つめていると、背後で椅子の音がした。ことりは慌ててスマホを伏せた。


真瀬が立ち上がっていた。帰る準備をしているのか、デスクの上の紙をそろえ、薄い上着を手に取っている。


「ことりさん、今日この後残る?」


声をかけられて、ことりは画面ではなく原稿を見た。見なくてもいい場所に視線を逸らす癖が自分でもわかった。


「少しだけ。明日の企画案を軽くまとめてから帰ります」


「少しだけって、朝も聞いた気がする」


真瀬の言葉は静かだった。冗談にできるギリギリのラインで、ことりは笑って逃げてもよかった。


「今日は本当に少しだけです」


「ならいいけど」


真瀬はそれ以上踏み込まなかった。心配しているとは言わず、早く帰れとも言わず、ただ帰れる余地を残した。


その優しさがことりには一番困る。命令なら反発できるし、親切ならお礼で済ませられるのに、余白だけを置かれると自分の気持ちでそこを埋めたくなってしまう。


「真瀬さんは、もう帰るんですか?」


と聞いてから、ことりは少し後悔した。仕事の確認としては自然でも、その声にはほんの少しだけ別のものが混ざっているように感じた。


真瀬は上着を腕にかけたままことりを見た。朝と同じように目の少し下を見た。


「一回出る。たぶん戻らない」


「そうですか?」


それだけの返事が思ったよりそっけなく聞こえたので、ことりはすぐに続けようとしたが、何を足しても余計になる気がした。


真瀬は小さくうなずき、出口へ歩いていった。ガラス扉の前で一度だけ足を止めた。


「帰り、無理しないで」


朝と同じ言葉だったけれど、夕方の影の中で聞くと少し違って響いた。


「はい」


ことりは短く返した。真瀬が扉の向こうに消えるまで、ことりは顔を上げることができなかった。


編集部に残った空気が急に広くなり、さっきまで狭かったはずの場所に使い道のない余白ができたみたいだった。


ことりは明日の企画案を開き、暮らしの記事のテーマをいくつか並べ、読者の悩みを想定して見出しの候補を作った。


文字は出てくる。仕事の言葉はちゃんと手の中にある。


それなのに、真瀬に返したい言葉だけがどこにも見つからなかった。帰り際に「無理しないで」と言われた後、何を返せばよかったのだろう。


「ありがとうございます。気をつけます。真瀬さんも」


どれも正しいし、どれも送れる。


けれど、ことりの中に残っている本当の言葉はそれとは違っていた。帰る前に、もう少しだけ声を聞いていたかった。


その一文を頭の中で形にした瞬間、ことりは自分の耳まで熱くなるのを感じた。誰にも見られていないのに見られたような、恥ずかしさがあった。


外の光が弱くなり、編集部の室内灯が白く浮かび上がる。昼のざわめきはいつの間にか遠ざかり、聞こえるのはキーを打つ自分の指先と空調の規則正しい音だけだった。


ことりは企画案を保存してパソコンを閉じた。画面が暗くなり、そこに自分の顔が薄く映し出された。


少し疲れていたが、疲れだけではない表情だった。


スマホを手に取り、真瀬とのチャット欄を開くつもりはなかったのに、指は迷わずそこに向かっていた。


朝のメッセージが上に残っている。「無理しないで」という文字は夜になるほどほどけず、強さを増していた。


ことりは入力欄を開き、「今日はありがとうございました」と打った。


続けて「焼き菓子も」と入れた。そこまでは自然だった。


しかし、そのあとで指が止まった。真瀬にだけ届く言葉と真瀬には届かないほうがよい言葉の境目が、白い入力欄の中で曖昧になっていた。


ことりは少し迷ってから続けた。「真瀬さんの言葉があると少し落ち着きます」


打ち終えた瞬間、胸の奥に小さな音が響いた。これは送ってはいけない、と思う前に、送ってしまいたい気持ちが一度だけ強くなった。


画面の中の文章は仕事の礼に見えなくもなかったが、ことりにはその中に隠しきれないものがあることがわかっていた。


親指が送信ボタンの近くで止まる。近すぎた。


東京の夜が窓の向こうで濃くなっていく。ビルの明かりは一つずつ増え、ガラスに映った編集部の白さが外の暗さに押し戻されていた。


ことりは息を吸った。送れば何かが変わるかもしれない。


何も変わらないかもしれない。真瀬はいつものように短く返すだろうし、ことりだけがその短さに勝手に意味を探してしまうのかもしれない。


それが怖かった。特別ではないとわかることよりも、特別かもしれないと期待する自分のほうが怖かった。


ことりは「真瀬さんの言葉があると少し落ち着きます」という文章を消した。文字が一つずつ消えていくたびに、胸の奥から小さな熱が引き抜かれるようだった。


残ったのは「今日はありがとうございました。焼き菓子も」だけだった。礼儀正しくて仕事場に置いておけるような文章だった。


ことりはそれを見つめた。送信するには十分だが、心を守るには少し足りない。


結局、その文章も消した。何も送らないことを選んだのではなく、送れる言葉がどれも自分の気持ちを裏切る気がした。


スマホを鞄にしまったあとでも、手のひらの中に画面の冷たさが残っていた。


編集部を出ると、廊下には昼の名残がほとんどなかった。床は照明を淡く返し、エレベーターの扉にはことりの姿が少し歪んで映っていた。


ビルの外へ出た瞬間、東京の夜の匂いがした。まだ逃げきれていない舗装の熱と、どこかで降った雨の名残のような湿気が足元から立ち上ってくる。


ことりは駅に向かって歩いた。街路樹の葉は暗く重なり、車のライトがその間を縫うようにして通る。


信号待ちの人たちはみな、それぞれの画面を見ていた。誰かに送る言葉を持っている人も、ただ時間を埋めている人も、遠くからは同じ姿に見える。


ことりは鞄の中のスマホを意識しないようにした。しかし、意識しないためにはまず強く意識しなければならない。


駅の階段を下りると空気が少し変わり、地下の湿り、電車の金属の匂い、そして人の服に残った一日の疲れが混ざり合っていた。


改札を抜け、ホームへ降りる。電車が近づく前の風が先に髪を揺らした。


ことりは列の端に立ち、鞄からスマホを取り出した。画面を開くと、何も届いていなかった。


当然だ。自分が送っていないのだから、返事が来るはずもない。


それでも少しだけ胸が沈む。ばかみたいだと思う。


ことりは真瀬とのチャット欄を開いた。朝の言葉が夜の画面の中にまだ残っている。


「朝から直してるなら、無理しないで」


たったそれだけの言葉をどうして一日中持ち歩いてしまったのだろう。仕事の指摘に添えられた短い気遣いをどうしてこんな風に何度も読み返してしまうのだろう。


電車がホームに入ってきた。車体の振動が足裏から伝わり、画面の文字がわずかに揺れた。


扉が開き、人いきれの湿った空気が流れ出した。ことりはその中へ押されるようにして電車に乗り込んだ。


吊革の下に立つと、窓には暗い自分の輪郭が映り、頬のあたりだけが車内の照明で少し白く見えた。


スマホの入力欄を開き、「今日はありがとうございました」と打った。


また同じ言葉だった。朝から夜まで、ことりは似たような礼を何度も用意し、そのたびに少しずつ違う本音を後ろに隠していた。


続けて「無理しないでって言われて、うれしかったです」と打った。すると、すぐに胸が詰まった。


うれしかった。たしかにそうだった。


でも、そのまま送るには裸の言葉すぎる。仕事の服を着せる前の気持ちがそのまま画面に表れている。


ことりはその一文を消した。車体が揺れ、親指が一度だけ別の場所に触れそうになった。


今度は「助かりました」と打った。安全な言葉だった。


安全すぎて、何も残らない言葉だった。


ことりはまた消した。指先は疲れているのに、消す動きだけが慣れていた。


窓の外では、駅と駅の間にある暗闇が流れていく。ところどころに明かりがにじみ、ビルの窓が小さな四角になって通り過ぎていく。


その光を見ながら、ことりは思った。自分は今日、真瀬に何度返事をしたのだろう。


送った返事よりも消した返事のほうが多く、むしろ消した言葉のほうが自分らしいと感じた。


「仕事の返信じゃなくて、あなたからの言葉を待っていました」


入力欄にその一文が現れたとき、ことりは自分の呼吸が止まるのを感じた。


電車の音が遠くなり、隣に立つ誰かの鞄が軽く腕に触れたのに、それすら遅れて気づいた。


これは送れない。送れるはずがない。


しかし、消すまでの数秒間、その言葉は確かに存在していた。誰にも読まれず、誰にも知られずに、それでもなお、画面の白い空間に存在していた。


ことりはゆっくり消した。一文字ずつ消すたびに胸の奥のどこかが少し静かになり、同じ分だけ寂しくなった。


入力欄は空になり、何もなかったかのように白く戻る。


でも、なかったことにはならない。消した文章は送られなかっただけで、ことりの中ではもう読まれてしまっていた。


電車が次の駅に近づき、車内の明かりが窓に濃く映し出された。ことりは画面を閉じ、スマホを胸の前で握った。


真瀬凪人からの短い言葉は朝から夜まで形を変えながら残っており、原稿の一文を直すようにことりの中の何かを少しずつ変えていた。


その変化に名前をつけるにはまだ早く、そう思いたかった。


夜の窓に映る自分の顔は朝よりも少しだけ見知らぬ人のように感じられ、ことりはその顔から視線を外して車体の揺れに合わせて小さく息を吐いた。


送らなかった言葉が胸の内側でまだ熱を持っており、消したはずの返信は誰にも届かないまま、ことりだけの夜を少しずつ濃くしていた。

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