ガルター会戦 その一
帝国歴二二七年三月一八日。「ガルター会戦」と呼称されることになる戦いは、実に静かに始まった。ただし、会戦がいつ始まったのかについては諸説ある。「ナインバッフ方面軍とニークリット公国軍がガルター平原で相まみえたとき」という説が主流だが、この時点では両軍は睨み合ったまま、ピクリとも動いていない。
ムルラウは、先に布陣していたニークリット公国軍の出方を見極めたかった。だが、ニークリット公国軍には動く気配がない。
「どう思う、レミターロック伯」
「特に堀を穿つでもなく土塁を設けるでもない。あの場で迎え撃つことに利点はありますまい。先に動いて出方を見てはいかがか」
「確かに、ここまで長駆遠征した挙げ句、敵軍を見物したまま日が暮れたとあっては物笑いの種になろう。全軍を前進させろ。まず五〇〇メルまで接近する」
ムルラウの下知が各前線指揮官に伝えられ、ナインバッフ方面軍はゆっくりと動き出した。太陽は南中高度をわずかに過ぎていた。
ナインバッフ方面軍が距離を詰めても、ニークリット公国軍は動かなかった。彼我の距離が五〇〇メルになってもニークリット公国軍に動きは見えない。
「動きませんな」
「ニークリット公め、一体何を考えている」
「いずれにせよこの距離ではどうにもなりませぬ」
「二〇〇メルまで近づけろ」
ナインバッフ方面軍は再び前進を開始した。両軍の距離は三〇〇メルを切り、さらに接近した。
距離が二五〇メルほどになったとき、ニークリット公国軍に初めて動きが生じた。兵の進退などの合図を出す太鼓が打ち鳴らされたのである。
「何をするつもりだ?」
敵のわずかな動きも見逃すまいと、ムルラウは目を凝らした。だが、太鼓が打ち鳴らされただけでニークリット公国軍は動かない。
ナインバッフ方面軍の各前線指揮官も不審に思ったのか、各隊を停止させた。
異音がした。
「この音は……」
レミターロック伯が空を見上げた。何かが飛んでいた。いや、飛んできた。
「いかがした、レミターロック伯」
レミターロック伯がムルラウに答えようとしたとき、ナインバッフ方面軍の戦列の各所に何かが次々に落下した。
「何!?」
落下してきた物体は、兵たちをなぎ倒しながら炎をまき散らした。
「何だあれは」
「油を満たした樽か何かに火種を仕込んだものでしょう」
落下の衝撃でまき散らされた油に火種が引火して、各所で炎が上がった。枯れた雑草にも燃え移っている。
油樽は次々に投射されてきた。油樽が落下するたびに火災が発生し、混乱が広がった。
「あの丘の向こうから投射しているのか」
ムルラウは、ニークリット公国軍の布陣の意味がようやく分かった。平原に布陣したニークリット公国軍は囮だ。そこに注意を引きつけて、丘陵の向こう側からムルラウらの意識を逸らしていたのだ。そして、ナインバッフ方面軍が最適な距離まで接近したことを太鼓で知らせたのだ。
「両翼の騎兵に、丘の向こうの投射機を攻撃させろ。各隊の混乱も鎮めさせろ」
近習に命令を伝えたそのとき、ムルラウの左三〇メルほどの場所に油樽が落下した。あと少しで直撃を受けるところだったことに、ムルラウは戦慄した。油を全身に浴びて火だるまになり、転げ回る兵が視界に入った。他の落下地点と同様、周りの枯れ草にも火が燃え移っている。
ムルラウは怯える馬にむち打って馬ごと火中に飛び込むと、火だるまになっている兵の首を剣で切り落とした。全身にやけどを負った者を救う手段はない。苦しむ時間を短くしてやることしかできなかった。
「どうだサテルメーン卿、我が軍の投射機部隊の練度は」
「攻城戦はこのときのための訓練だったというわけですか」
「まあ『このとき』というわけではないが、野戦にも使えるだろうとは思っていた」
ソルドマイエ二世は、つまらなそうに答えてからフフンと笑った。その笑いの意味が、セルツァマイエには分からなかった。
ナインバッフ方面軍は混乱していて、同じ場所にとどまっている。そのため投射機を調整する手間が省けて、誠に都合が良かった。
「油樽の投射を続けろ。もう擬装の意味もあるまい。観測係を丘の稜線に上げて、敵軍の動きを投射機部隊に伝えさせろ。エグバーレントは、敵左翼の騎兵を駆逐せよ」
ニークリット公国軍の騎兵戦力はナインバッフ方面軍の約半分に過ぎない。まずは敵左翼にいる騎兵にエグバーレント麾下の全騎兵を投入した。
「敵騎兵を駆逐したら、まず左翼を殲滅する。ヘゲデインどもに準備させておけ」
ナインバッフ方面軍の不運は、投射機による攻撃によって多数の前線指揮官を失って指揮系統が寸断されたこと、各部隊に派遣された伝令にも犠牲者が出て命令の伝達が行き渡らなかったことであった。直ちに潰走状態に陥らなかったのは見事と言えるが、結果として引くことも進むこともできず、同じ場所にとどまって油樽の餌食になっていた。
「レミターロック伯、しばらくここを頼む」
ムルラウは混乱が比較的弱い右翼に馬を走らせ、自ら戦線の立て直しを図った。大公旗を掲げた旗手たちがムルラウの後ろに続いた。大公旗を持つ旗手は常に大公と共にある。
「落ち着け! 前進だ。同じ所にとどまるな。落ち着くのだ」
声の限り叫び、手近な兵の肩をつかんで落ち着かせ、さらに走った。投射機の調整には時間がかかるはずだ。とにかく移動して、投射機の攻撃範囲から出れば態勢を立て直す猶予が生じる。
大公旗の威力は絶大だった。
「大公だ」
「大公殿下だ」
「殿下だ」
兵たちは大公旗を驚きと畏敬の念をもって迎えた。
大公自ら指揮し、鼓舞する姿に、兵たちは徐々に落ち着きを取り戻していった。




