狼煙
「ラフェルス伯、狼煙が上がりました」
ナインバッフ公の旧臣ザルヴァーエルが狼煙を発見したのは、フォロブロンが去った翌日だった。
「じゃ、仕上げといくとしようか」
ウィンはやる気が感じられない目で一同を見渡すと、ゆっくりと立ち上がった。
アークラスムが指揮する五〇〇〇の歩兵とウィン、ザルヴァーエルがゲンデの森を出てラデル街道に入ると、トローフェイルの南門に向かった。ザルヴァーエルを伴ったのは、彼がヌヴァロークノ語を多少解するからである。
トローフェイルの南門の前で、ザルヴァーエルは叫んだ。
「帝国に土足で踏み入った鼠賊の王よ、聞こえるか! われわれはこれからオルドナ伯領南部の解放に向かう。帝国に入り込んだ害虫を一匹残らず駆除するであろう。セルケー平原のときのように、貴様は安全なところで眺めているがいい」
完璧なヌヴァロークノ語ではないかもしれないが、大意は伝わっただろう。ウィンたちは、トローフェイルの反応を待つこともなく、背を向けて南下を始めた。
ザルヴァーエルの言葉は、トローフェイルに届いていた。城壁の守備兵からザルヴァーエルの言葉を聞いたクーデル三世は、大剣を引き抜くや食卓を両断した。
「帝国はどこまでヌヴァロークノを愚弄するのか……」
喉から絞り出すようにうめくと、クーデル三世は床に崩れ落ちた。
臣従を申し出て民が暮らせる土地を懇願した際の冷たい返答。
クーデル三世とバンナーボブゾンを騙し、多くの兵をセルケー平原で犬死にさせるに至ったスソンリエト伯の甘言。そしてヌヴァロークノ人を虫けら呼ばわり。
無論、自分たちが一方的な被害者などではないことは分かっている。この戦争はヌヴァロークノ王国が、クーデル三世が始めた物語だ。帝国人を先に害したのはヌヴァロークノ王国である。だが、帝国に責任転嫁しなければ心の平衡を保つことは不可能だった。
これまでのクーデル三世であれば、より冷徹な判断ができただろう。彼にはその能力があった。しかしスソンリエト伯の策略は彼の心を壊していた。セルケー平原から生還したベンデンフォンゾンから聞いたバンナーボブゾンたちの最期は、あまりにも過酷だった。大切な家臣をむざむざ死なせてしまったという後悔の念は、スソンリエト伯への憎悪に転化していた。だがスソンリエト伯は既に逐電しており、復讐はかなわない。
クーデル三世とヌヴァロークノ王国を愚弄して背を向けているラフェルス伯軍は、スソンリエト伯の代わりに滅ぼすべき格好の敵であった。
「カルヴァデゾン、出陣だ。ラフェルス伯だけでも討ち取るぞ」
「出て……きたな」
ニレロティスが困惑気味につぶやいてレンテレテスの顔を見た。ゲンデの森に潜んでいたカーリルン軍の目の前を、ヌヴァロークノ軍が通過していった。
「ヌヴァロークノ人は単純なのだな……」
「いや、そういうわけではないと思うのだが……」
レンテレテスは、ウィンの推測が正しかったのだと確信した。セルケー平原の待ち伏せ部隊については、クーデル王の命令だとすると違和感が残る。クーデル王とは異なる意思が介在していたのであれば、王には忸怩たるものがあったはずだ。とすれば、その点を突いた挑発に激発したとしてもおかしくない。
レンテレテスはクーデル王にやや同情したが、恩情をかけるつもりはない。
「どうやらヌヴァロークノ軍は全て通り過ぎたようだ。狼煙を上げろ」
ニレロティスの脇に控えていた兵が、ヨモギとワラを入れた穴に火だねを放り込んだ。しばらくすると白い煙が立ち上った。
「全軍出陣! ヌヴァロークノ軍の後を追うぞ!」
「大将、狼煙だ」
ベルウェンが、ニレロティス隊が上げた狼煙を発見した。
「じゃ、アークラスム、ベルウェン、反転・戦闘準備よろしく」
アークラスム隊は南下を停止すると、北に向かって方向転換した。各人がその場で一八〇度方向転換するだけだから、転進するような運動は不要だ。
これで、ヌヴァロークノ軍を追うニレロティス隊とアークラスム隊による挟撃体制が整った。
クーデル三世は、前方のラフェルス軍が布陣を終えて待ち受けているのを見て、罠であることを悟った。しばらくすると、後方から金属がぶつかる音や叫び声が聞こえてきた。敵は二手に分かれていたのだ。
「取り乱してみすみす敵の罠にかかったというわけか……」
前後から挟撃され、しかもヌヴァロークノ軍は行軍隊形のままである。背後は恐らく騎兵に襲撃されて混乱状態に陥っているはずだ。前方は歩兵が横陣を展開して長槍を構えている。騎兵突撃対策が行き届いている帝国歩兵に対して、中央突破を図るのは不可能だ。
「万事休す、か……」
クーデル三世は、馬を停止させて天を仰いだ。
私はどこで間違えた?
緒戦は優勢だった。オルドナ伯領のほぼ全域を支配下に置き、ナインバッフ公とも互角に戦った。
ゲルペソル近郊での会戦では敗北しかけたが、ニークリット公国軍に助けられてナインバッフ・グライス軍の脅威からも解放された。
ニークリット公と同盟を結び、後背の憂いもなくなった。
ここまではよかったはずだ。
だが、ラフェルス伯らにミラロールを奪還されたところから流れが変わった。
ミラロールを取り戻すために無理をし過ぎたか。あそこで主力を失い、戦略的な選択肢がほぼなくなったのは致命的だった。
スソンリエト伯を信用したことも失敗だった。ヤツの口車に乗って貴重な家臣と兵をさらに失った。
スソンリエト伯の作戦とやらに耳を貸さず、その場で斬り捨てていれば……いや、どのみちトローフェイルで身動きは取れなかっただろう。ならばミラロール攻略をもっとうまくやれば……。これも駄目だ。どのような策を用いても、あの街を陸から取り返すのは不可能だ。
ならば主力をミラロールの防衛に振り向けるべきだったのか。その場合、ナインバッフ公がオルドナ伯領を奪還しつつ北上してきて、ヌヴァロークノ軍はミラロールに追い込まれることになる。その間にラフェルス伯の軍が到着して、海と陸から攻められることになっただろう。あるいは、帝国の海上戦力はミラロール沖でヌヴァロークノの船を攻撃していたかもしれない。
何だ。勝ち目などなかったではないか。
帝国に攻め込んだところから間違えていたのだ。
ではどうすればよかったのだ。
皇帝の案を受け入れて、帝国各地に分散してでも移住すべきだったのか。
そうなのかもしれない。
私は、民を救いたかったのだ。戦争がしたかったわけではない。帝国での暮らしは民にとって過酷なものになったかもしれない。それでもヌヴァロ島で凍死するのを待つよりはましだったのではないか。
だが、全て手遅れだった。
「陛下! 陛下だけでも落ち延びられよ!」
カルヴァデゾンの声が聞こえた。カルヴァデゾンがクーデル三世の右肩をつかんで揺らしている。
「陛下! お気を確かに! 陛下!」
「ああ……カルヴァデゾン伯爵。大丈夫だ」
「無念ですが、ここはどうにもなりませぬ。陛下だけでもゲルペソルにお逃げください」
南北は完全に塞がれているが、東側は草原がひらけている。東に向かって馬を走らせれば、戦場を離脱できる可能性はある。
それもすぐに不可能になった。帝国の騎兵たちが東側に回り込んできた。ヌヴァロークノ軍の後方を歩兵(ラゲルス隊)に任せたニレロティス隊が、クーデル三世の退路を断つべく機動してきたのだ。
「カルヴァデゾン伯爵、降伏だ。これ以上兵を死なせるな」
「しかし……」
「ベンデンフォンゾンの話を聞いただろう。ラフェルス伯は殺戮を好まない。兵たちの命までは取るまい」
帝国歴二二七年三月一六日、オルドナ方面軍はクーデル三世の降伏を受諾した。




